奄美大島
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奄美大島 (あまみおおしま)は九州南方海上にある奄美諸島の主要島。単に大島ともいう。面積712.35km2であり、本州など4島を除く面積5位の島。
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[編集] 行政
鹿児島県に属し、以下の市町村からなる。
奄美市以外の町村は全て大島郡に属する。
[編集] 産業
- 農業は米、サトウキビ、サツマイモの生産が主である。
- 米の二期作が行われている。
- 伝統工芸の大島紬は和服用の生地として極めて評価が高いが、和服を着る習慣の衰退や韓国産※の紬の輸入により、大打撃を受けた。
- 黒糖焼酎の製造が行われている。
- 漁業も行われる。
- 観光業も重要な産業である。
※商業主義に走った、一部の島内業者が韓国での生産を指導した。
[編集] 交通
[編集] 空路
- 奄美大島空港 - 奄美市
- 日本エアコミューター(JAC)
※かつては与論空港へも就航していたが現在は休止しており、沖永良部空港経由での利用で直行と同額の割引運賃が設定されている。
- 琉球エアーコミューター(RAC)
- - 那覇空港
[編集] 航路
- 名瀬港(名瀬新港・旧港) - 奄美市
- マリックスライン・マルエーフェリー(2社で毎日運航)
- マルエーフェリー
- 奄美海運(マルエーフェリー系列)
- 鹿児島港(本港) - 喜界島(湾港) - 奄美大島(名瀬新港) - 奄美大島(古仁屋港) - 徳之島(平土野港) - 沖永良部島(知名港)
- 十島村 - 「フェリーとしま」
- 古仁屋港 - 瀬戸内町
- 奄美海運(マルエーフェリー系列)
- 鹿児島港(本港) - 喜界島(湾港) - 奄美大島(名瀬新港) - 奄美大島(古仁屋港) - 徳之島(平土野港) - 沖永良部島(知名港)
- 瀬戸内町 - 「フェリーかけろま」
- 古仁屋港 - 加計呂麻島(瀬相・生間)
- 瀬戸内町 - 「せとなみ」
- 古仁屋港 - 請島(請阿室・池地) - 与路島
[編集] バス路線
[編集] 一般路線バス
- 奄美交通
- 道の島交通
[編集] 道路
[編集] 一般国道
[編集] 主要地方道
- 鹿児島県道79号名瀬瀬戸内線
- 鹿児島県道81号名瀬竜郷線
- 鹿児島県道82号竜郷奄美空港線
[編集] 植物相
[編集] 文化
- 日本の歴史に登場するのは7世紀で、遣隋使、遣唐使以前から交易の中継地点として、また西郷隆盛、僧俊寛らの流刑場所として、中国、大和、琉球の文化を受けてきた。島を代表する黒砂糖、大島紬も中国から伝わり、主な輸出品とされていた。大和や鹿児島本土よりも、沖縄の文化の影響の方が若干強く、奄美方言は琉球方言の一部として扱われている。ただ、奄美の人々は自らの文化と沖縄文化を同一視してはおらず、南は徳之島まで、北は奄美大島・喜界島までを奄美文化圏として認識している。
- 1185年の、壇ノ浦の戦いで敗れ落ち延びてきた平家たちが奄美を平定し、平安文化と島独自の文化が融合して、島唄、諸鈍シバヤなどの独特な文化が生まれたとも言われている。1609年、薩摩藩による琉球王国への侵攻以降は、奄美諸島は琉球王国と分離され直接支配を受け、苦渋な生活を強いられた。薩摩藩は支配よって、奄美産の砂糖による莫大な利益を受け、また当初からの目的であった琉球王国を窓口とした中国との貿易による利益と相まって、明治維新まで藩財政を支え続けた。
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- 沖縄民謡が琉球音階(ドミファソシ)を用いているのに対し、奄美民謡は、律音階(ミシ抜き)独自の音階(ドレファソラ)を用いる。シマ唄は大きく見て、北部と南部で歌い方が若干異なっている。唄者の唱法は男女ともファルセットが基本であり、これは元ちとせら唄者出身のポップ歌手の特徴ともなっている。なお、奄美の外では殆ど流通していないが、奄美市名瀬のレコード店が昭和37年頃から独自にシマ唄のレコーディングを行い、カセットやCDとして販売を続けている。
- 三味線
- 奄美のシマ唄も沖縄民謡と同じように三線を使用するが、両者で大きく異なるのはバチである。沖縄の三線奏者は指先に嵌めて使うツメを用いるが、奄美の奏者は細くしなやかな竹串状のバチを用いる。沖縄のツメではダウンピッキングが中心となるが、奄美のバチはしなやかなのでオルタネイトピッキングが容易であり、奄美の三味線奏者は特にアップピッキングを利用して独特のリズムを生み出す。また弦も沖縄より細い物を使いキーも高い。
- 宗教
- 島内には、各集落ごとに複数の神社は見られるが、仏教寺院は少ない。現在、墓形式は本土と同じであり、沖縄の亀甲墓は見られない。ただし、城間トフル墓群と呼ばれる亀甲墓の前時代形式の墓所が存在する。南西諸島の墓制の北限と言われ、隆起した砂丘に十数基の横穴墓が有り、400年以上前に構築されて以来そのすべてがほぼ完全な形で残り、内九基が現役である。また、奄美にはノロと呼ばれる巫女が存在しており、ノロを中心とした民俗信仰が残存している。
- 伝統的船舶
- 奄美の伝統的な船舶は、板付き舟(イタツケ)と呼ばれる構造船である。これはサトウキビの運搬などに適した安定性重視の舟であり、極めて安定性に乏しいがその分、剽悍な運動性と速度を特徴とする沖縄のサバニとは異なっている。現在でも板付き舟は競争競技や学校教育に利用されている。また、イタツケより大型の八尋船と呼ばれる帆漕船も存在していた。明治維新後に糸満の漁民がサバニに乗って奄美周辺での操業を開始すると、奄美の漁民もこれへの対抗上、より漁業に向いた船舶を必要とした為、サバニと板付き舟の折衷形であるアイノコが考案された。ただ、現在ではアイノコを建造出来るのは名瀬市内の船大工2名のみとなっている。
- 栃木出身の日本画家、田中一村は後半生を奄美大島で過ごし、日本画の技法で亜熱帯の文物を描いた数々の名作を残した。一村は生前は不遇のままであったが、死後にマスメディアが「日本のゴーギャン」などのキャッチフレーズで称揚し、一躍大人気となった。空港に近い「奄美パーク」内には田中一村記念美術館が建設された。
- 太平洋戦争末期、奄美大島の南にある加計呂麻島に置かれた水雷艇による特攻隊、第十八震洋隊隊長を務めていた島尾敏雄は、後に名瀬市(現奄美市)で作家として活動し、盛名を得る。彼が考案したヤポネシアなる概念は、厳密な意味内容は不明だが、その独特の響きから、現在でも熱烈な愛好者を持つ。
- 沖縄、奄美のビート感を本土歌謡曲へ取り入れ、その音色を全国に轟かせた重要な作曲家。
- 1916年(大正5年)10月26日 沖縄・恩納村に生まれ、少年期を奄美大島(龍郷町)で過ごす。日本大学芸術科卒業後、1943年(昭和18年)、歌手デビューしたが、名声を得られず1951年(昭和26年)作曲家へ転向。デビュー作は「夢のユイササ」。「上海帰りのリル」「お富さん」「島のブルース」「夜霧に消えたチャコ」など数多くのヒット曲を生んだ。
- 1959年(昭和34年)第1回日本レコード大賞作曲編曲賞を受賞。戦後米軍に統治されていた、沖縄県、奄美諸島の人々に夢を与えていた。1988年(昭和63年)日本レコード大賞功労賞を受賞。親族には、歌手で活躍している我那覇 美奈(がなは みな)、サーフィンで緑 義人(みどり よしひと)。惜しまれつつも、1998年(平成10年)9月13日、肺炎のため死去。享年81。現在龍郷町に記念碑がある。
[編集] 観光
前述の田中一村美術館の他、中部の山岳地帯にある金作原原生林のトレッキング、南部の奄美市住用町のマングローブ林、同じく南部の瀬戸内町の珊瑚礁などが有名である。瀬戸内町内の大島海峡ではシーカヤックも盛んであり、毎年夏には「奄美シーカヤックマラソンin加計呂麻」が開催されている。