逸見宗助
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逸見宗助(へんみ そうすけ 1843年(天保14年)-1895年(明治28年))は剣術家。佐倉藩士・逸見信敬(立身流第17代宗家)の子。
家伝の立身流を修行し、1860年(万延元年)居合目録を受ける。父の計らいで藩より剣術留学の許しを得て1861年(万延2年)江戸へ行き、藩の方針により桃井春蔵の士学館(鏡新明智流)を主として1年間修行する。(当時、佐倉藩では竹刀を用いた技術を採り入れるために、流派ごとに留学先を定めていた。立身流の場合は鏡新明智流となっていたので士学館に留学した)
帰国後、刀術所の師範並の役に就く。廃藩後、八街(やちまた)の開墾に従事。
1878年(明治11年)頃、内務省警視局(警視庁)に入局。梶川義正、上田馬之助とともに本部武術課・撃剣専務教師として警視流木太刀形・立居合を制定し、警視流柔術の制定にも協力するなど、撃剣世話掛の中心的人物で警視庁剣術を取り仕切った。
剣の腕は凄く、1884年(明治17年)12月6日の東京での撃剣世話掛と関西剣客代表との対抗戦で、関西剣客代表のひとりで、得能関四郎ら30数人抜きをした高山峰三郎に対し、得意の上段の構えから籠手を決め勝利している。その後も奥村左近太や松崎浪四郎らと名勝負を繰り広げ、警視庁の面目を保っている。
山岡鉄舟は「剣客はたくさんいるが、逸見だけは真の剣を遣う」と評した。また水練の達人でもあり、高野佐三郎がそれを称えている。