酒井康 (陸軍軍人)
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酒井 康(さかい やすし、1892年3月11日 - 1986年8月1日)は、日本の陸軍軍人。第17師団長・留守第56師団長・陸軍兵器本廠企画部長等を歴任し、階級は陸軍中将勲一等に至る。東京府出身。
明治45年5月28日に陸軍士官学校を卒業し、大正元年12月24日陸軍砲兵少尉に任官される。士官候補生第24期の酒井の同期には第35軍司令官として没後進級した鈴木宗作大将や、第44軍司令官本郷義夫中将、第4軍司令官上村幹男中将、第51軍司令官野田謙吾中将がいる。酒井は陸軍大学校・陸軍砲工学校に進み、陸軍大学校では第32期を首席の成績で卒業し砲工学校では21期の優等に数えられる。優秀な成績の士官には将来を期待して海外に留学させるのが通例となっており、酒井はフランスに駐在する。
昭和6年1月9日からイタリア大使館附陸軍武官に任命され、昭和8年12月20日参謀本部附に移る。昭和9年3月5日から参謀本部員となり、昭和10年3月15日侍従武官を拝命する。同年8月1日陸軍大佐に進級し、昭和12年8月2日から野砲兵第1連隊長に移る。昭和13年7月15日陸軍少将・陸軍大学校教官を命ぜられ、同年12月19日から陸軍大学校研究部主事に進む。昭和14年10月2日から野戦重砲兵第6旅団長に移り、昭和15年9月7日から第1独立砲兵団長に就く。昭和16年3月1日陸軍中将任官と共に陸軍兵器本廠企画部長に移り、同年11月21日留守第56師団長に親補される。昭和17年12月1日から中支那派遣軍隷下の第17師団長に就任する。就任直後に師団は南方に転用され、ニューブリテン島の防衛にあたる。昭和18年10月19日勲一等瑞宝章受章。ニューブリテン島の中心地ラバウルで米軍と交戦し、持久戦の最中終戦を迎える。
昭和22年に復員した後、ブリヂストンの顧問に就任。昭和34年から昭和38年までは石橋財団の事務局長を務めた。昭和61年に94歳で死去。
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