鈴木治行
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鈴木 治行(すずき はるゆき、1962年 - )は、日本の現代音楽の作曲家。
目次 |
[編集] 略歴
東京都生まれ。青山学院大学卒業。独学で作曲を学んだ。東京音楽大学の湯浅譲二ゼミ、東京芸術大学の近藤譲ゼミに参加、南弘明氏に対位法を師事。
1987年、「現代の音楽展」(主催:日本現代音楽協会)、および仙台音楽祭「新しい音楽の波」に招待作曲家として招かれる。1990年、若手作曲家グループTEMPUS NOVUMを山本裕之、田中吉史らと結成。1995年、『二重の鍵』(A Double Tour)で第16回入野賞を受賞。1997年、衛星ラジオ「Music Bird」にて鈴木治行特集が放送される。2000年、映画『M/OTHER』の音楽で第54回毎日映画コンクール音楽賞を受賞。
[編集] 作風
線的素材に基づく作曲からスタートし、反復(のようなもの)と引用(のようなこと)などを取り入れたユーモラスな音楽を書ける逸材である。現在では言葉と音楽のシニカルな関係も追及し、作風の幅が広がりつつある。日本のアカデミックな音楽業界、いわゆる”現代音楽”の業界的雰囲気から距離を置いた姿勢、映画、美術、その他あらゆるアートに対する博学な知識と探求心は、彼の作品に独特の個性と輝きを与えている。今日注目すべき作曲家のひとりである。
作品の傾向は大きく4つにわかれ、1)反復もの、2)句読点シリーズ、3)語りもの、そして余技ではない映画音楽、である。これら4つの傾向は一見無秩序にみえるが、詳細に検討すると、そこには美学的立場とでも言うべきもので何か共通したものも垣間見える。一つ一つの傾向を要約する。
1)反復ものは、電子音楽「システマティック・メタル」や「For Steve Reich」、あるいはクラリネットとオーボエのための「Hiccup」、スル・ポンティチェロの音色が悩ましく聞こえ続けるヴァイオリンとピアノの「二重の鍵」などでさまざまに試みられている、ある素材の反復的操作を中心としたもので、作例のわかりやすい説明としては、「1,12,123,・・・」。つまり、準備したメロディなり電子音なり、何らかの素材を何らかの規則に従い反復していくのだが、例えば「二重の鍵」などではさらに、反復するごとに調性をずらすなどして、反復された際の違和感を増す仕掛けが組まれる。
こうした、直線的に進行すべき流れを非常に客観的に、ある種暴力的に、切断することへの好みは鈴木治行の作品の特徴の中でもとりわけ重要である。このテクニックはかつて18世紀のロココ楽派の作曲家が使った「不等音符」のテクニックとも関連性が指摘されているが、「不等音符」が演奏家の上品な趣味を強調するために使われた技術であるのに対して、鈴木のそれは聴覚的なバランスの不一致に向けられている。
2)句読点シリーズではこの好みがより明確な形で示されており、鈴木治行自身は「関節はずし」あるいは「脱臼」といった言葉でこれを説明している。句読点シリーズはソロ楽器のためのシリーズで、現在7作書かれている。このシリーズで探求されているのは、あらかじめ用意された素材の流れの中にマイルス・デイビスやバッハなどの異素材を断続的に挿入する事で、音楽に楔を打ち込み、脱臼させるというもので、挿入される異素材は聴覚上にマンネリズムを生まないよう複数用意され、周到にタイミングを計られ組み込まれる。彼はこれを「耳に引っかかる」と説明している。現在はさらに、1)と2)の傾向の間に位置するような作品なども書かれている。
3)語りものは、鈴木治行作品の中でも特にユニークなものである。この作品は語りと複数の楽器、あるいは歌手により演奏されるが、これまで4曲作られたこの形態の作品は過去に類似例を見出しにくく、アカデミックな現代音楽の世界からの離脱という彼のスタンスの終着点のひとつともいえるような独自の世界を構築している。簡単に言うと、語りものでなされるのは、複数の流れの独立した進行と同期の実験とも言うべきもので、あるテクスト(それは時に物語を語り、時に同時に起こっている音楽上のeventに言及し、また時にそうした音楽上のeventについて偽りを言う)が読まれ、用意された音楽素材が複数の奏者によって演奏されるのだが、それらは個々別々の流れをもっており、例えば「陥没ー分岐」においては、歌曲を歌うソプラノ歌手とピアノ、歌を歌うヴォーカルとキーボードがそれぞれ、歌曲、歌を同時に歌うような状況が何度も訪れる。それぞれはそれぞれのスタイルで歌唱し、演奏するのであって、さらにそこに語りが介入し、不可思議な音響空間を生む。これらばらばらに見える複数の流れはしかし、ある演奏者の演奏が他の演奏者の合図となるように仕組まれ、ところどころ同期され、非常に特異な音楽的やり取りの場が生まれる。
これら「語りもの」は、例えばフランスの作曲家リュック・フェラーリ、そして作家・映画監督でもあるマルグリット・デュラスの影響を受けていると鈴木本人も言っているが、90年代に作られたインスタレーション「循環する日常生活」における、家電製品のスイッチが他の家電製品の動きに連動され、連鎖して行くというコンセプトと通じる面があるという指摘がある。江戸時代には多くの琵琶法師が音楽を演奏するのではなく「語ってきた」こともあり、日本の作曲家の誰からも消えてしまった鉱脈を掘り当てたとも解釈できる。
[編集] 総論
これら三つの傾向は、彼にとっての音楽がSOUNDではなくNOTEであり、かつ線的に音楽を書き続けることへの偏執的な憧れから派生している。たしかに楽器編成次第で、たとえばテープ音響などを用いて量的な響きに傾斜できる瞬間がないわけではない。ただ、「ほうほうの体(てい)」のように、非常にチープなMIDI音源のニ声部のために書かれた作品すら、転調や素材読み替えなどのテクニックで紛れもなく彼だと呼ばざるを得ない瞬間に満ちており、結局は線的な思考へ収斂するのを好んでいる。
彼は間違いなく近藤譲が提起した音楽思考を、極めて合理的に展開した作曲家である。結局近藤の思想に共鳴できた作曲家は、表層的に近藤の技法を模倣する諸外国の作曲家と違い、日本人しかいなかったのである。川島素晴や寺内大輔のように演奏行為そのものへの探求へ向かうことはなく、「音を耳で聞く」タイミングの一致とずれを聞き届けることができる逸材である。通常現代音楽業界においては「(~のようなもの)」というアバウト極まりない思考は、ダルムシュタットはおろかどこの世界でも忌避される。彼はこの「不可解な素材集合」を、独自のテクニックで繊細に解きほぐしてゆく。時としてダイナミックスレンジの制限から「こじんまりした、或いは手練手管の妙」といった結果を誘発しかねないことも多く、今後の作風の展開如何でこの弱点がどのように変わるのかが期待される。
[編集] 映画音楽
彼のこの方面における仕事は、非常に個性的であり、鈴木治行を語る上で避けられない重要な側面を持っている。鈴木治行の映画音楽の仕事にはおおむね2種類あり、ひとつは新作映画に音楽をつける仕事で、諏訪敦彦、宮岡秀行、榎本敏郎といった映画監督とのさまざまな仕事をしている。鈴木治行はミシェル・シオンの映画音楽の理論に大変影響を受けており、映画の中に含まれるさまざまな音響を音楽と同等のものと捉えて作業する。鈴木治行はまず脚本や映像を十分に分析し、そのなかで必要とされるタイプの音を用意するので、音楽素材のスタイルにある決まった型などはない。これは反復ものや句読点のシリーズでの元になる素材にも言えることだが、あくまでもそこで必要とされている音楽の種類に忠実に仕事をしており、時には雑音、ノイズを多用し、またあるところではロマンティックな旋律を用意する。監督との対話の末、用意された音響は映像に重ねあわされて行くが、ここにおいても、重視されるのは映像が持っている構造との関係であるから、”鈴木治行の映画音楽”を映像から切り離し、抜き出して語る事は不可能であるし、それは無意味な事でもある。さらにこうしたアプローチは映画音楽のもうひとつの流れである、サイレント映画のライヴにも共通して観られる。
鈴木治行はこれまでに4作の過去のサイレントフィルムにライヴで音をつけている(うち一作は既存の楽曲の編曲であるが)。2000年のムルナウ監督の『ノスフェラトゥ』、2002年のカール・ドライヤー監督の『裁かるるジャンヌ』、そして2006年のジガ・ヴェルトフ監督『カメラを持った男』のライヴでは、サイレント映画への伴奏付けとはまったく異なる独自のアプローチがなされている。主に鈴木治行本人がライヴで電子音をつけている事で、それが即興的な仕事であると誤解してはならない。確かに、即興的な部分を用意することもあるが、それはあくまでも部分的で、全体の構造に付いては隙がないほど綿密に計画が立てられている。ただし、サイレントの上映ではどうしても上映ごとに時間的な誤差が生まれてしまうので、そうした誤差に機敏に対応できるように全体は列車の連結のように、いくつかの部分のつなぎあわせでできており、細かな調節が可能なよう配慮されており、また、映像と音あらゆる点で同期させる事はこの場合かなり難しいため、そその不利を逆手にとって音響を記号とみなし、必ずしも映像とは同期する事のないつけ方を許容することで対処している。
またそれが、音響に独自の意味の広がりを持たせ、映像との関係をよりスリリングなものにしていることも目論まれており、このことは特に高く評価すべきである。また、新作映画へのアプローチ同様彼は全体の構造を分析し、音を関わらせていく(作曲していく)のだが、サイレントのライヴでは、鈴木治行は自身の解釈と音響面での映像への干渉を自由に表出しており、映像と音との新しい芸術形態の提示を成し遂げている。彼のライヴは、映画という素材を用いたミクストメディアの新しい作品の提示であると言ったほうが事実に即しているだろう。特にこのことがはっきり現れたのは、『カメラを持った男』でのアプローチで、ここにおいて彼は映像と音との交響を成し遂げたと言ってよい。これはあたらしい芸術形態の誕生である。サイレント、トーキー、あらゆる形態の映画への愛好は鈴木治行の音楽全体に影響を与えており、例えば映画のモンタージュなどの技法は「切断」という点で反復ものにも共通する。
彼の発言で極めて斬新なのは、「どのような映像に対してどのような音楽をつけてもあう。だからこそ映画音楽の手腕が問われるのである。」という衝撃的な告白である。通常の映像付随音楽でこのような見解が出ることはほぼありえず、現在も映像業界は当たり障りのない音楽を要求している。(例外的に深夜アニメなどで効果的に意味不明の音楽が付随される例はある)
[編集] 活動状況
個展、レクチャー、演奏会やイヴェントの企画・プロデュース、執筆活動などのほか、演劇、美術、映像など他ジャンルとのコラボレーションも積極的に行っている。「武満徹以来の映画通」との呼び声も高い。海外における作品発表も増加している。