鏡山部屋
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昭和45年(1970年)9月場所後、元横綱の柏戸が伊勢ノ海部屋より独立して創設。
昭和50年(1975年)7月場所に、小沼と蔵玉錦が同時に新十両となる。その後、蔵前国技館最後の場所(昭和59年(1984年)9月場所)幕内優勝の元関脇多賀竜らを育てる。
元柏戸の鏡山が1996年(平成8年)12月に逝去後、現在の親方である元関脇多賀竜の勝ノ浦親方が鏡山を襲名、部屋を継承した。
目次 |
[編集] 鏡山親方
[編集] 幕内
- 関脇
- 多賀竜昇司(茨城)
- 平幕
[編集] 十両
[編集] 幕内優勝力士
- 多賀竜昇司(1回)
[編集] 所属年寄
[編集] 所属若者頭
- 伯龍弘基(はくりゅう)元十両筆頭・魄龍
[編集] 外部リンク
[編集] 旧鏡山部屋
江戸時代からの伝統をもち、明治・大正時代にも大きな勢力だった雷部屋も、昭和2年に親方が亡くなると、一気に衰退した。弟子を引き取った白玉親方(元関脇玉椿憲太郎)も間もなく死去、力士たちは四散してしまった。その中で同じ雷系列の八角部屋や中川部屋を引き継いだ武蔵川部屋の力士たちをまとめる形で、昭和8年から元幕下の金木山の鏡山親方が力士たちを引き取り、雷部屋最後の弟子の中から番神山政三郎を、中川部屋からの三熊山美夫を幕内力士に育て、番神山の引退後は雷を襲名させた。しかし、新十両を決めた信濃川藤四郎が兵役にとられたまま帰還しないうちに1945年(昭和20年)に親方は死去、部屋は閉じられ、力士たちは伊勢ヶ濱部屋に移籍した。信濃川も戦後帰還してからは伊勢ヶ濱部屋に所属し、引退後は年寄間垣を襲名した。 行司式守勘太夫が二枚鑑札で鏡山を襲名し横綱柏戸に名跡を譲った。