黄信介
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
黄信介(こうしんかい、1929年8月20日-1999年11月30日)は台湾の政治家。福建省安渓籍、台北市大龍峒(現在の大同区)に生まれる。旧名は黄金龍。
目次 |
[編集] 青少年時代
1940年代初期、小学を卒業した黄金龍は日本に渡り印刷工として働きながら上野中学に学んだ。1946年台湾に戻り、1948年には北京大学に合格するも国共内戦により入学は実現しなかった。1949年に台湾地方行政専科学校(現在の 国立中興大学)に入学し、1951年に中興大学行政学科を卒業した。
黄金龍は学生時代政治活動に積極的に参加し、専科学校入学直後には中国国民党に入党している。1950年冬、黄金龍は国民党の指示に従い、1954年以降の台北市長選挙に応援として参加し候補者当選に貢献した。支援者として活動していた黄金龍であるが32歳になった1961年1月、第5回台北市議選に出馬し最高得票で当選、「信介」と改名し政治の政界に身を投じることとなった。
[編集] 党外運動と美麗島事件
政治家になった黄信介は国民党から党外活動に政治主張を変化させていった。1963年の第3回台湾省議会議員選挙で、黄信介は党外活動家を支援するため聯合競選弁事処総幹事に就任する。1969年には立法委員補選で党外活動家として立候補し当選、同時に新化工股份有限公司董事長、鑫泉工業股份有限公司常務董事にも就任している。立法院での黄信介の発言は中国青年党、中国民主社会党を国民党の装飾に過ぎないと「便所の花瓶」と発言するなど直接かつ大胆な内容で知られた。1975年、同じく立法委員である康寧祥と雑誌『台湾政論』を創刊し、1978年には雑誌『這一代』社長に就任するなど言論界でも大きな影響力を発揮するようになる。1977年と1978年の地方公職選挙,国民大会代表選挙、立委補欠選挙では黄信介は党外活動家後援会を組織し、呂秀蓮、姚嘉文、黄煌雄等を支持するようになった。
1979年8月、黄信介は自らが発行人となり雑誌『美麗島』を創刊する。その後12月10日に 美麗島事件が発生すると、黄信介は『美麗島』と深い関係を有す許信良、施明徳、呂秀蓮等とともに台湾当局に逮捕された。1980年3月、台湾警備総部軍事法廷は黄信介に対する公開真理を開始、現相当の陳水扁が弁護士として裁判闘争を行うが、4月18日に反乱罪により懲役14年の有罪判決を宣告された。
[編集] 民主進歩党時代
1987年5月、蒋経国の指示により黄信介は7年の刑期を免除され張俊宏とともに釈放された。当時は民主進歩党結党1年目の都市であり、「新潮流系」と「康寧祥系」に内部が別れていた。が、[1988年]]3月黄信介、張俊宏は民進党に入党することで「美麗島系」が成立、その後党内の意見集約が行なわれ、4月には黄信介は民進党二全1次臨時会で党務顧問に推薦された。
1988年、黄信介は第三代民進党党主席に就任され、1989年にも再任される。黄信介が率いる美麗島系と新潮流系の政治理念には差異が認められる、前者は選挙を通した改革を目標とし、統一・独立問題を自由に主張すべきとしたのに対し、後者は民衆による直接改革を目指し、独立問題を自由に主張べしとの認識であった。加えて黄信介は李登輝が提唱する国是會議と憲政改革を指示したことで、党内の一部からは台湾の自主性を損なうものとして強烈に批判された。こうした中の1990年、民進党は台湾独立党綱を発表した。
[編集] 晩年
1991年、黄信介は党主席を辞任し、民進党首席顧問に就任した。同年台中県国大代表に当選し、美麗島事件で失った国政参加の地位を復活された。1992年4月19日、民進党により企画された發「419大遊行」の総指揮者を務め総統の直接選挙を求める運動を行なっている。年末には花蓮県立委選挙に立候補、一旦は落選したがその後国民党候補者の選挙違反行為が明らかになり、逆転で当選している。1997年、李登輝の求めに応じ国統会副主委就任を準備したが、陳水扁等の反対がありこの計画は実現しなかった。1999年3月、民心党内で噴出した陳水扁と許信良の総統選予備選挙の調停を試みるが失敗に終わった。そして11月30日に心筋梗塞により死去した。
台湾民主化に大きな足跡を残した黄信介は「台湾民主之父」、「民進党永遠の大老」、「永遠のじさん」、「信介仙」と称され、台北県八里郷にある墓地には多くの民進党関係者が参拝している。
[編集] 外部リンク
|
|