民主進歩党
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党シンボル | |
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党旗 |
画像:Dpp.png 党徽 |
基本情報 | |
結党日時: | 1986年9月28日 |
結党地点: | 中華民国(台湾)台北市 |
主席: | 游錫堃 |
秘書長: | 林佳龍 |
立法院党団総召集人: | 柯建銘 |
党員数: | 約 530,975人 |
党本部住所: | 100台北市中正区北平東路30号10楼 |
ホームぺージ: | www.dpp.org.tw |
民主進歩党 (民主進步黨、Democratic Progressive Party, DPP)は、中華民国(台湾)の政党。略称は民進党で、泛緑連盟に属する。
党綱領に台湾独立を掲げる独立派政党であるが、1995年5月に、2000年総統選挙をにらんで独立色を薄めた「台湾前途決議文」を党大会で採択し、また政権党となってからは世論を踏まえてより現状維持的な色彩を強めるなど、その路線には若干の変化がうかがえる。党内派閥が多いことでも知られており、中国との対話の必要性を説く穏健派、独立建国・制憲を唱える急進派との間で論争がある。現主席は游錫堃(前総統府秘書長)。
台湾独立派よりの主張を掲げる台湾団結連盟とは友好関係にある。
目次 |
[編集] 歴史
[編集] 党外活動時代
1949年の国民政府は遷台後、台湾の党外活動家は民主主義と自由を求めた活動を断続的に行なっていた。1979年に発生した美麗島事件では党外運動は最高潮に達し、当局により施明徳、黄信介等の多数の活動家が逮捕。投獄された。1980年代、党外勢力は傅正の自宅などに集まり、活動のための組織化を開始した。1986年9月28日、132名の党外活動家後援が台北市円山大飯店で開催されていた「党外後援会公認候補推薦大会組織」の席上突然結党が宣言され「民主進歩党」と命名された。結党当時は非合法とされたが(当時現地では中国国民党の一党独裁および戒厳令の状態だったため。ただし結党宣言に対し、蒋経国は「民進党の結成は不法だが処罰はしない」とする方針を打ち出し、黙認する姿勢を取った)、民国78年(1989年)に合法化された。
[編集] 野党時代
1986年に結党された初めての立委及び国代選挙で民進党は20%以上の票を獲得し躍進を遂げる。以降民進党は街頭デモを繰り返し、当局に対し戒厳令の解除、民主直接選挙の実施、公共政策の調整を訴えていく。初期の民進党は自身を「本土政党(台湾在来政党)」と認識し、国民党を「外来政党」と位置づけていた。しかし主要な政治目標が民主主義と自由の獲得であったため、より多くの市民の指示を得るために街頭活動が主流を示すため、非支持者からは「街頭党」と蔑視の意味を含めた名称で呼ばれることもあった。同年11月10日に開催された第1回全国党員代表大会では江鵬堅を党主席に選出、台湾の前途は台湾により自由、自由、普遍、公正、平等の原則の下で決定されると規定する党綱領を採択した。
1987年中華民国総統蒋経国により戒厳令が解除され、メディア規制、政党規制を撤廃したことにより民進党は台湾政治へと更に関与する機会を獲得し、総統の直接選挙を要求した。この時期民進党は「4つのif」と称される決議文を採択し、国民党が台湾人の利益を損なう行為を行なったり、両岸統一などの4内容を実行する時、民進党は台湾独立を支持すると明言し、台湾独立の政治的色彩を強めて行った。
1991年民進党は第5回第1次全国代表大会で正式に台湾独立綱領と称される新しい党綱領を採択、その中で民進党の基本は住民自決の方法により独立自主的な台湾共和国の建国を目指すと明言し、台湾独立を主要な政治目標として掲げるようになった。
1992年立委選挙では民進党は得票率33%を記録、翌年の県市長選挙では得票率44%を記録しその支持は急速にたかまった。1994年の台北市長選挙では陳水扁は国民党候補の黄大洲及び新党候補の趙少康に競り勝ち当選を実現し、今回は国民党の分裂選挙であったが民進党への支持が国民党に拮抗するものであることを示した。
1995年5月、施明徳は党主席に就任後、民進党は過去の過激な言動と決別する方針転換を行なう。同年9月には民進党政権下では台湾独立を行なう必要は無いと言及、12月14日には新党と「大和解」の前提の下会談を行い、許信良は「大胆西進」として中国と現実的に向き合う現実路線を打ち出した。1996年総統選挙では、民進党は初期の台湾独立指導者である彭明敏を候補者に擁立したが、この時は国民党候補の李登輝の前に敗北した。落選により施明徳は党主席職を引責辞任したが、それでも台湾内で民進党の勢力は以前強力であった。
1997年県市長選挙では民進党は12県市で首長職を獲得、民進党は「地方から中央の包囲」選挙戦略が効を奏し、初めて国民党の獲得議席を上回った。しかし台北市長選挙では連戦を目指す陳水扁に対し、清廉なイメージで選挙戦略を展開し、また李登輝により新台湾人と評価された馬英九に敗北し、国民党に政権与党の地位を明け渡すこととなった。
1999年は翌年の総統選を考慮し民進党は基本政策に大きな変更を加えた。「台湾前途決議文」を採択し、台湾は既に独立国家であるが、国号は「中華民国」とすると現状追認の政策を発表し、独立問題中間層の取り込みを図った。同時に圧倒的な知名度を誇る陳水扁を総統候補に、美麗島事件参加者で、当時桃園県県長を務めていた呂秀蓮を副総統候補に指名し選挙に出馬、李遠哲の推薦を得た結果、連戦、宋楚瑜を破り当選、初めての政権政党交代を平和的に実現した。
[編集] 陳水扁時代
民進党は政策実行経験と人材の不足から、与党としての地位を確立後政治危機がたびたび発生した。政局の安定を図る陳水扁は国民党籍の国防部長唐飛を行政院長、游錫堃を副院長に指名したが、政権成立から僅か3ヵ月後には「八掌渓事件」が発生し、事件の処理に手間取った結果4名の作業員が死亡、游錫堃は自ら引責辞職し張俊雄が後任となった。
また「核四問題」では民進党は台湾の脱原発を政治理念としてきたが、原発推進派の唐飛がこの問題で行政院長を更迭され、張俊雄が後任に就任すると即時核四建設中止を発表、これが政治問題化し国民党により陳水扁に対する罷免要求に繋がった。民進党は妥協案として核四の建設続行を決定、これに反発する民主党内では前主席林義雄による反核四デモが発生すした。またこの影響で株価が暴落するなど経済的にも打撃を受けた民進党は、台湾独立派の他勢力と同一会派泛緑連盟を形成し政局を乗り切る政局運営が続いた。
2004年の総統選挙では泛藍連盟の国民党主席連戦と親民党主席の宋楚瑜の選挙協力が成立、前回の選挙で票が割れた泛藍支持者の票を統合する選挙戦略を実施した。これにより選挙戦は激しいものとなり、民進党の再選が危機的な状況になった。しかし、2月28日の二二八事件記念日に行われた人間の鎖活動での盛り上がりなど、台湾独自性意識の高まりもあって、状況は民進党有利となり、最終的には得票率差僅か0.22%で陳水扁が再選された。
ただし、投票前日の3月19日の319銃撃事件で陳水扁が銃撃される事件も発生した。これについては野党国民党は「自作自演で、陳水扁有利に働いた」などと主張している。しかし、民進党陣営はその可能性を否定している。というのも、拳銃で「殺さないで傷を負わせるような狙撃をする」ことは不可能であり、また、中立的な世論調査機関「山水民意調査中心」の事件後の調査でも事件により投票行動を変えた人はほとんどいないことが証明されている。
2004年末の立法委員選挙で、陳水扁は民進党が躍進し101議席で過半数を占めることを目指し、「台湾新憲法」や「軍購案」等の重要議題を次々に発表した。しかし最終的には2議席増加の89議席に留まり、これにより党主席職を辞任、柯建銘を代理主席とし、翌年1月27日に総統府秘書長蘇貞昌を後任党主席に選出した。
立委選挙で敗北後、それまで協力関係に軋轢を生じていた総統府と民進党党中央は和解の可能性を模索しはじめ。2005年2月高雄市長謝長廷を行政院院長に昇格させ、「和解共生」で政府と党の団結を訴えた。また2月24日には陳水扁は親民党主席の宋楚瑜と会談を行い、両岸関係、安全保障、台湾団結に関する10項目の共同声明を発表し政策協力を行なうことを発表するなどの工作を行なっている。
2005年末の三合一選挙(統一地方選)では政局運営で問題続出の民進党に対し、民衆からの支持率が高い馬英九を主席とする国民党が巻き返しを図り、12月3日の投票の結果、当選は南部6県市に留まり、長らく民進党の牙城とされていた台北県、宜蘭県の議席を失うなど、民進党結党以来の大敗北となった。選挙結果により蘇貞昌が党主席職を引責辞職、代理として副総統の呂秀蓮が党主席に就任するが、民進党内部からは呂の放言癖に対する反発が根強く、呂は辞任、そのため2006年1月26日に新に游錫堃を選出して党内団結を図ろうとしている。
[編集] 歴代の党主席
- 初 代 江鵬堅(1986年-1987年)
- 第2代 姚嘉文(1987年-1988年)
- 第3代 黄信介(1988年-1989年)
- 第4代 黄信介(1989年-1991年)
- 第5代 許信良(1991年-1994年)
- 第6代 施明徳(1994年-1996年)
- 第7代 許信良(1996年-1998年)
- 第8代 林義雄(1998年-2000年)
- 第9代 謝長廷(2000年-2002年)
- 第10代 陳水扁(2002年-2004年)
- 第11代 陳水扁(2004年-2005年)
- 第12代 蘇貞昌(2005年-2005年)
- 第13代 游錫堃(2005年-)
[編集] 党内派閥
民進党は、元来、党外勢力の寄せ集め所帯的な性格が強く(各地方に散らばっていた党外活動家を「党名のない党」の理念のもとに結集させたのがルーツ)、各人の立場や思想的な傾向は一枚岩ではない。1986年9月28日の結党時点でも、穏健派の「泛美麗島系」、急進独立派の「新潮流系」及び中間勢力の3大勢力が既に存在していた。
1990年代になると、反体制活動家の「ブラックリスト」の廃止(1992年)に伴い海外の台独連盟の主要勢力が順次帰国し、それら活動家が民進党に合流した。また、美麗島事件での弁護士らを中心とする中間勢力の中から「正義連線」及び「福利国連線」の2派が形成された。これらの動きがあり、従来の3派が5派へと拡大した。さらに1997年に泛美麗島系が「美麗島系」、「新動力系」、「新世紀系」の3派に分裂し、党内主要派閥は7派となった。
その後派閥整理再編の動きが生じており、最近では新潮流系と正義連線、福利国連線とで党内3大派閥を形成している(最大派閥は新潮流系)。2006年、党内派閥の活動が禁止され、表向き従来のような事務所や派閥会合はできなくなっている。
党内各派閥の特徴は以下のとおり(肩書きは2006年時点のもの)。
- 福利国連線
- 中間勢力から派生。党内実力者が多く、路線的には「台湾独立」を志向している。主要メンバーは謝長廷(前行政院長)、蘇貞昌(行政院長)、蔡同栄(立法委員・党中央執行委員)、蘇嘉全(内政部長)など。最近は、陳水扁総統に接近した蘇貞昌と、やや独自路線を走る謝長廷が、将来の総統候補としてライバルになり、分裂する傾向に有る。
- 正義連線
- 福利国連線同様中間勢力から派生。どちらかというと穏健派であり、路線的には現状維持を志向している。主要メンバーは陳水扁(総統)、呂秀蓮(副総統・党中央常務委員)、高志鵬(立法委員、党中央評議委員)など。
- 新潮流系
- 党内3大派閥のひとつ。党内派閥の中では最も組織力が強く、かつては学生運動、労働運動、農民運動、環境運動などの社会運動にも大きな影響力を持っていた。結党時は急進独立派であり、現在も「台湾独立」を主張しているものの、路線的には急進派から現実路線へとその方向を変更している。主要メンバーは邱義仁(総統府国家安全会議秘書長)、呉乃仁(前台湾証券交易(取引)所会長)、林濁水(2006年11月に立法委員を辞職)など。
- 新動力系
- 泛美麗島系から分派。主要メンバーは許栄淑など。
- 新世紀系
- 新動力系同様泛美麗島系から分派したもの。主要メンバーは張俊宏など
- 台独連盟
- 主要メンバーは張燦鍙、陳唐山(総統府秘書長)、郭倍宏、李応元(党秘書長)など。台独連盟は、現在個々のメンバーが正義連線、福利国連戦あるいは新潮流系のいずれかへとそれぞれ吸収されつつある傾向にあり、党内での勢力が衰えている。
- 美麗島系
- 党外活動時代からの有力者が多数所属しており、結党時は新潮流系とともに2大派閥を形成していた。メンバーの中には美麗島事件などの民主化運動の過程で投獄された経験を持つものも多い。思想的には穏健派で、現状維持、民間レベルでの中国大陸との交流促進などを志向する。主要メンバーは黄信介、許信良、施明徳、康寧祥、林正杰など。3派分裂後、黄信介の死去、許信良や施明徳など主要メンバーの相次ぐ離党などで勢力が衰え、現在ではほぼ消滅に近い状態にある。
- (無所属)
- 派閥に所属していない党員のうち、有力者として游錫堃(党主席)、陳定南(元宜蘭県長、元法務部長、2006年死去)などを挙げることができる。