1975年の読売ジャイアンツのユニフォーム
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1975年の読売ジャイアンツのユニフォームは1975年~1980年の長嶋茂雄監督(第一次政権)時代に読売ジャイアンツが採用していたサンフランシスコ・ジャイアンツロゴユニフォームの中でこの年しか採用されていなかったTOKYO袖ロゴ・背ネームなしバージョンの事を指す。翌1976年からYOMIURI袖ロゴ・背ネーム入りバージョンにマイナーチェンジしたため便宜上短命ユニフォームとして扱った。
[編集] デザイン
ユニフォームの色はホーム用はクリーム色でビジター用がスカイブルー。帽子・アンダーシャツ・ストッキングの色は黒で帽子のYGマークはオレンジ。襟袖・ズボンのラインは黒を橙で囲むのが太い1本線タイプ。ホーム用胸ロゴのGIANTS・同左袖ロゴのYOMIURI・ビジター用の胸ロゴのTOKYO・同左袖ロゴのGIANTS・胸背番号は黒を橙で囲むが胸と左袖のロゴがサンフランシスコ・ジャイアンツスタイルに変更された。このユニフォームから背番号の上にネームがつけられる。スパイクは黒に白いライン。ここまでがよく知られたデザインだが1975年のとの相違点は、
の2点である。
[編集] 概要
1974年10月14日に「私はきょう、引退しますが…我が巨人軍は永久に不滅です!!!!」という名言を残し現役を引退した長嶋茂雄内野手がその年限りで勇退した川上哲治監督の後任として読売ジャイアンツの監督に就任したが長嶋監督は現役時代からベストドレッサーとして知られたクチである。で、就任するや否やユニフォームをフルモデルチェンジした。これが1980年10月12日に事実上の解任に追いやられるまで使用された通称長嶋第一次政権ユニフォームでフルモデルチェンジしたユニフォームには球界のベストドレッサー長嶋監督の特徴が現れていた。
プロ野球界ではダブルニットユニフォームが流行していたが伝統を重んじる読売ジャイアンツでは流行していてもなお天然繊維織物のユニフォームを使用していた。ただ、1972年頃から、試験的にダブルニットとしたものも使用するようになったが、従来と同じデザインだったため、あまり知られていない(「プロ野球ユニフォーム物語」参照)。おそらく天然繊維織物のユニフォームと併用していたと思われる。長嶋監督は「これからはユニフォームはダブルニットの時代です。」と宣言して1934年の球団創設以来40年続いた天然繊維織物のユニフォームと決別。ダブルニットのユニフォームを全面採用したのである。また、ロゴも球団創設以来の通称早稲田ロゴ(※ 巨人のチームロゴはこの年まで早稲田大学野球部が使用しているものを使用していた。1981年以降復活させている。)からサンフランシスコ・ジャイアンツが使用しているロゴに変更しているが実は1953年に使用していたことがあるから別に目新しいものではない。それでも珍しがられたのである。
王貞治の本塁打世界新記録更新・張本勲が野村克也を抜いて安打のアジア記録トップをマーク・江川卓が初登板で着用・長嶋監督が静岡県伊東市で若手選手を集めて特訓した伝説の「伊東秋季キャンプ」とインパクトの強いユニフォームであるが実はフルモデルタイプは短命である。というのはインパクトの強いバージョンは1976年にマイナーチェンジされたバージョンでありフルモデルチェンジされたバージョンは1975年に使用されただけで翌年から練習用に回されているのである。
この年のユニフォームの特徴はホーム用の左袖のロゴがTOKYOである事と背番号の上のネームがまだなかった事だがすでにライバルの阪神タイガースが背番号の上のネームを採用しているのに巨人がフルモデルの段階では阪神の真似はしたくないという頭が働いていたのではないだろうか?この年巨人は球団史上初(今のところ史上唯一)の最下位に沈み、広島東洋カープに目前で球団史上初のリーグ優勝を見せ付けられると散々。上記のデザインにマイナーチェンジした。すると巨人は最下位からリーグ優勝という今のところ史上唯一の快挙を達成して見せた。TOKYOの左袖のロゴは最下位と同時に封印された。
ユニフォームからTOKYOのロゴが消えるのは長嶋監督が二度目の監督を勇退した翌年、2002年の事である。
[編集] 補足事項
1980年に長嶋茂雄が監督を『解任され』、藤田元司が監督に就任するとユニフォームが1974年以前のデザインにフルモデルチェンジされた。そのため最初「務台光雄と川上哲治が結託して長嶋色の一掃を図った」とファンから不評をかったが実は長嶋時代のデザインが継承されていた、いわゆる折衷形のデザインである。その理由は,
- ホーム用の色が1974年以前が白なのに対し1981年版はクリーム色(※1)。
- ビジター用の色が1974年以前がグレーなのに対し1981年版はライトブルー(※1)。
- ホーム用の左袖のYOMIURIロゴは書体変更も継承(※ 1974年以前はTOKYO)。
- 背番号の上のネームが継続された(※ もちろん1974年以前はなし)。
- 長嶋時代と同じく素材はダブルニット。
の5つ。長嶋のユニフォーム革命は辞任後も継承されていたのである。ちなみに1981年版は1986年にプルオーバースタイルに変更されるがホーム用は1989年まで、ビジター用は1992年まで継続されて使用されることとなる。
また、OB戦では長嶋がこのタイプを着用することがあった。逆に、川上が第1次長嶋時代のユニフォームを着用したことがある。
※ただ、1974年以前でも、クリーム色・ライトブルーのものも存在する。末期(1972年)に採用されたダブルニットのユニフォームがこの色調だった。