張本勲
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張本 勲 (はりもと いさお、1940年6月19日 - )は、プロ野球選手(外野手)、野球解説者。左投げ左打ち。広島県広島市生まれ。在日韓国人二世で、本名は張 勲(チャン・フン、장훈)。愛称は「張さん」。あるいは「張」。
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[編集] 来歴・人物
母親は身重のまま、三人の子を連れて朝鮮半島(当時日本領)から海を越えて日本に渡り、広島で張本を生んだ。1945年8月6日、5歳の夏、爆心地から2.5kmの広島市段原(段原(現在の南区段原)で被爆。爆風に見舞われ家は倒壊したものの、比治山の影となっていた段原は直接の熱線は届かなかったため、自宅前にいた張本は無事であった。しかし当時11歳だった長姉は、大火傷を負い数日後に亡くなった。
子供のときから体が特別大きく、ガキ大将としていつも大勢の子分を連れて歩いた。当時の広島カープの本拠地・広島総合球場の塀を乗り越え、よく試合のタダ見をしていたという。そして、その折にたまたま覗き見た読売ジャイアンツの宿舎の食事風景が、その後の張本の人生を大きく変えることとなった。戦後の物資不足や飢餓をまだ引きずる時代に、選手たちは当たり前のように分厚い肉を食べ、生卵を3つも4つも茶碗に放り込んでいたのである。以来、張本のプロ野球選手への憧れは増大し、「母親に広い家をプレゼントする」、「美味しい食べ物を腹一杯食べる」と言う二つの夢を胸に来る日も来る日も吊るした古タイヤに向かってバットを振り続け、真剣に野球へと打ち込んでいった。
地元の段原中学を卒業後、高校野球の強豪広島商業高校への入学を希望したが、素行不良との理由で叶わず、松本商業高校(現・広島県瀬戸内高等学校)定時制に進学した(余談だが、段原中学出身の後輩にはヤクルトの高津臣吾がいる)。進学後、昼は暇で街へ繰り出し喧嘩ばかりした。そのためか、部内の暴力事件に巻き込まれ松本商業を1年生の1学期で退学。家族に懇願して広島を飛び出し、大阪府の浪華商業高校(現・大阪体育大学浪商高等学校)へ転校した。1年の後半からレギュラーの座に座ると、2年時には4番・エースとなり、秋の近畿大会13試合で打率5割6分、本塁打11本という驚異的成績を残す。しかし3年時の夏の甲子園直前、部内の暴力事件に巻き込まれる。当時8人いた3年生のうち、事件において暴力を振るったのは5人。張本は全く手を出さなかったのだが、最終的に処分を受けたのは張本1人で、張本の退部と引き換えにチームの甲子園出場は認められた。
結局、自身の甲子園出場の夢は叶わなかったが、野球関係者の間で「東の王、西の張本」とその名が知れ渡っていた存在をプロが見逃すはずもなく、各球団からスカウトが殺到した。本人は巨人への入団を熱望していたが、またも暴れ者だからという理由で叶わず。東京への憧れもあり、また同郷の大先輩である岩本義行監督の東映フライヤーズに入団することとなった。1959年のことである。
当時の松木謙治郎打撃コーチの「打率も残せ、ホームランも打て、盗塁もできる完璧な打者を目指せ」(=今で言う、三拍子揃ったプレイヤー)という指導のもと猛練習に励み、また東映大川博社長の意向もあって、ルーキーにして一軍に抜擢される。入団1年目から2桁本塁打を放ち、新人王を獲得。2年目には打率3割をマークし、3年目、打率.336で首位打者を獲得。以降引退まで、通算7度の首位打者に輝いた。首位打者7度はイチローと並ぶ日本記録である。4年目には新設された最高出塁率を獲得した。1970年には打率.383、本塁打34本、打点100という、打者としては全く非の打ち所のない成績を残している。1972年、2000本安打達成。『安打製造機』の異名を取り、南海ホークスの野村克也と共に1960年代から1970年代のパ・リーグを支えた。
1976年、高橋一三・富田勝との交換トレードで巨人へ移籍。同年、翌1977年と高打率を残すも、タイトルにはあと一歩届かなかった。しかし、親友の王貞治と組んだ「OH砲」は、第一次長嶋茂雄政権の2度の優勝に大きく貢献した。1980年、ロッテオリオンズに移籍。同年、地元川崎球場での阪急ブレーブスとの対戦において、山口高志投手より本塁打を放って3000本安打を達成し、前人未到の記録を記念したメモリアルプレートが同球場に展示された。
1981年に引退。TBS解説者、スポーツニッポン野球評論家となり、現在に至る。1990年野球殿堂入り。
遠戚にグラビアアイドルの南千智がいる。
[編集] 通算打撃成績
- 通算試合 2752試合(歴代3位)
- 通算打率 .31915(歴代4位) ※7000打数以上では歴代1位。
- 通算打数 9666打数(歴代2位)
- 通算得点 1523点(歴代3位)
- 通算安打 3085本(歴代1位) ※通算3000本安打を達成しているのは日本プロ野球史上、張本のみ。
- 通算二塁打 420本(歴代5位)
- 通算三塁打 72本(歴代9位)
- 通算本塁打 504本(歴代7位)
- 通算打点 1676打点(歴代4位)
- 通算盗塁 319盗塁(歴代20位)
- 通算犠打 4個
- 通算犠飛 90本(歴代5位)
- 通算四球 1274個(歴代3位)
- 通算死球 78個
- 通算三振 815三振
- 通算併殺打 145個
[編集] タイトル・表彰・記録
- 新人王(1959年)
- MVP 1回(1962年)
- 首位打者 7回(1961年、1967年~1970年、1972年、1974年) ※日本タイ記録。
- 最高出塁率 9回(1962年、1964年、1967年~1970年、1972年~1974年)
- ベストナイン 16回(1960年~1970年、1972年~1974年、1976年、1977年)
- 月間MVP 1回(1976年6月)
- サイクルヒット 1回(1961年5月7日)
- シーズン打率3割以上16回(1960年~1962年、1964年、1966年~1974年、1976年~1978年) ※日本記録。
- 9年連続シーズン打率3割以上(1966年~1974年) ※日本記録。
- 20年連続シーズン100安打以上(1959年~1978年) ※20年以上連続でシーズン100安打を記録しているのは王貞治と張本のみ。入団1年目からに限れば、張本のみ。
- 20年連続シーズン2桁本塁打(1959年~1978年) ※歴代4位タイ。
- 16年連続シーズン2桁盗塁(1959年~1974年)
- シーズン打率.3834(1970年) ※歴代4位。
- シーズン打率.350以上を両リーグで記録(東映=1970年、1972年 巨人=1976年) ※史上唯一。
- シーズン20本塁打以上16回(1961年~1973年、1976年~1978年) ※歴代3位タイ。
- 打撃ベストテン入り17回 ※日本タイ記録。
- 1イニング2二塁打(1961年5月6日) ※日本タイ記録。
- 9打数連続安打(1974年5月23日~5月26日)
- 30試合連続安打(1976年5月13日~6月20日)
- 1733試合目で通算2000本安打達成(1972年8月19日) ※歴代3位。
- 32歳2ヶ月で通算2000本安打達成(1972年8月19日) ※年少記録歴代2位。
- オールスター出場 18回(1960年~1964年、1966年~1978年)
- オールスターMVP 3回(1960年第3戦、1962年第2戦、1974年第3戦)
[編集] エピソード
[編集] 幼少期・少年時代
- 4歳の冬、自宅近くの猿猴川土手でたき火をしていた時、そばに停まっていたトラックが急にバックしてきたのを避けようとしたはずみに、火の中に右手を突っ込んでしまった。この時の火傷の後遺症で、今も右手の親指、人差し指は完全に伸びず、薬指と小指は引っ付いたままである。
- 後にプロ野球選手になった張本は、ある日母親と談笑している時に「この指がまともだったら、もっと良い成績が残せるのになぁ」と呟いた所、母親が号泣してしまった。まずい事を言ってしまったと反省した張本は、以降、その右手を誰の目にも晒さなくなった。唯一、打撃人として最も尊敬する川上哲治にだけ、現役引退後の座談会で右手を見せたことがある。その時川上は「よくもそんな手で」と涙を流しながら絶句していたという。
- 来歴の項に記したように、張本は5歳の時に広島で被爆している。プロ野球界で被爆者手帳を持っている(持っていた)のは、張本と濃人渉の2人のみである。
- 浪商時代のチームメイトには、元ヤクザで画家の山本集がいる。Vシネマにもなった山本の自伝的著書「浪商のヤマモトじゃ!」では、張本に関する数々のエピソードが紹介されている。また山本がヤクザから足を洗い画家になることを決心したのは、張本から極道としての生活について諭されたためだという。
[編集] 現役時代・実績
- 現役時代、退場処分を受けたことは1度もないが、日本ハム時代と巨人時代に、それぞれ1回ずつ警察の取調べを受けたことがある。暴言とおぼしき発言をされたとして試合前に城之内邦雄(当時ロッテ)を殴った件と、宿舎に帰るために停まっていた巨人選手の乗ったバスが、試合中の判定トラブルから広島のファンに包囲された際、広島ファンが「張本に殴られた」と騒ぎ立てた件である。
- また、プライベートでは1965年7月9日の夜、東京港区赤坂でタクシー運転手と口論になり、運転手と止めに入った一般人2人の計3人を殴り現行犯逮捕されている(この年のオールスター戦を辞退)。
- ロッテに移籍した1980年、当時の山内一弘監督や金田正一など全ての評論家が酷評した落合博満の特異な打撃フォームを「素晴らしい、このままのスイングで打てる」と絶賛していた。
- 1年目から20年連続シーズン100安打以上を放っており、通算安打は3085本まで積み重ねた。通算打率は小笠原道大、若松勉に次ぐ日本人枠選手(4000打数以上)歴代3位で、7000打数以上では歴代1位。脚も速く、1963年に41盗塁(広瀬叔功の45に次ぐ2位)をマークしたのを筆頭に、通算で319盗塁を記録している。通算400本塁打以上かつ通算300盗塁以上を記録しているのは張本と秋山幸二の2人のみ、通算500本塁打以上となると、日本プロ野球史上で張本ただ一人である。また、トリプルスリー(シーズン3割30本塁打30盗塁)は一度もないが、通算では3割300本塁打300盗塁を達成しており、この記録も日本プロ野球史上で張本ただ一人である。
- 上記に加え、通算打撃部門の全ての上位に名を連ねていることから、日本プロ野球史上屈指の強打者との誉れが高い。
- 『安打製造機』の異名は、張本以前には榎本喜八が取っており、近年ではイチローがそう呼ばれることがある。また、右へ左へと自在にボールを打ち分ける様子から『広角打法』『スプレー打法』という代名詞でも知られた。
- 反面、守備は本人も認めるほどお粗末で、「守っても安打製造機」と呼ばれるほどであった。これは、右手の古傷の影響で、思うようなグラブ捌きができなかったためと言われている。巨人時代、レフトへライナーやゴロが飛ぶと、よく遊撃手の河埜和正がカバーに入っていた。長嶋監督にエラーの理由を聞かれた時には「あれは空中イレギュラーです」と答えていたという。
- プロの同期であり同学年、互いに出自を日本以外の国に持ち、巨人時代には共にクリーンアップも形成した王貞治とは、プロ入り当初からの親友同士である。王が長年の低迷を乗り越え、監督として福岡ダイエーホークスを悲願の初優勝に導いた際には、「今までワンちゃんをバカにしてきた奴は皆坊主になって謝れ」と言い放った。
- 安打製造機の異名を持ち、強気な発言の目立つ張本だが、現役時代に打撃のコツについて教えを乞いに行ったことがある。その相手は1962・63年首位打者で当時近鉄に在籍していたジャック・ブルームで、張本は、ブルームの外角打ちの上手さに感心し、外角打ちのコツを聞きに行った。それに対し、ブルームは「外角を打つにはまず内角打ちが上手くなければいけない。それは、外角に的を絞っている時に内角にストレートが来ると絶対に手が出ないからだ。相手投手は、こっちが内角打ちが上手いと、内角に投げるのを嫌がって外角に投げてくる。そこを狙い打つのだ」と回答。その後、張本は首位打者の常連となっている。
- 伊集院光が張本自身から聞いた話として、以下のようなことを語っている。現役時代、野村克也の「ささやき戦術」(打者に対して、投球やその打者の女性問題などをささやき、集中力をそぐ戦術)で打者が悩まされていた頃、張本にも野村はささやき戦術を行った。それに対し、張本は空振りするふりをして、野村の頭をバットで叩いた。その後、ささやき戦術はピタリとなくなったそうである。これについて張本は、「(野村は)殺されると思ったんでしょうね」とコメントしている。
[編集] 在日韓国人として
- 今でこそ、自らを在日韓国人と明かす者も増えてきているが、張本の時代に始めから出自を公表していた人間は珍しい。これは、日本に渡って来て死ぬまで日本語を覚えようとしなかった母親の影響が大きいものと思われる。
- その一方で、生まれ育った日本に対する思い入れも深く、2004年のアテネ五輪に出場する野球日本代表の選手たちに対して「日本の国威を背負っていると思って欲しい」と語っていた。
- 民族教育は受けなかったが、家庭内では幼い頃から韓国語で育ち、現在でも韓国語に堪能である。1991年に日本でおこなわれた第1回日韓野球スーパーゲームの中継では、韓国テレビ放送局側の野球解説者として出演し、そのよどみない解説で韓国の視聴者を大いに驚かせた。
- 高校時代、在日韓国人の選抜チームに選ばれ、韓国へ遠征したことがある。この時、韓国では大歓迎を受けたという。
- 同胞の力道山とも親交があった。
- サッカーの韓国人サポーターの暴動が問題になった際、「まだ戦えるという意思があると感じられた」との発言をした。
- 1982年より韓国プロ野球を統括する韓国野球委員会(KBO)の特別補佐官に就いていた。また、日本のスポーツ選手として韓国の文化勲章を受けた唯一の人物である。韓国球界の至宝・重鎮と言われ、日本球界で活躍した経験もある宣銅烈も、張本の前では直立不動だったという。2005年シーズン終了後、所期の目的を達成したとして特別補佐官を退任している。
[編集] 現在
- 現在は、TBS系のサンデーモーニングのコーナー「週刊 御意見番」に、大沢啓二と共にレギュラー出演している。
- 同番組のコーナー内では、男性の選手が引退や優勝などの際に感動して、男泣きしているVTRが流れると、不機嫌な表情で「男が人前でメソメソ泣いちゃいかん! 喝だ!! 男が涙を流すのは独りになった時だけにしろ!」という旨のコメントをする。このコメントは番組名物として定着している。
- 2005年のNHK杯国際フィギュアスケート競技大会で優勝し、思わず号泣した織田信成に対しても、「半喝だ!」と怒鳴りながらコメント。
- 2006年5月11日の対楽天交流戦で横浜の石井琢朗が、勝利投手経験者としては川上哲治以来2人目となる通算2000本安打を達成し、試合終了後石井が涙を流しながらコメントしていた際には、珍しく「あっぱれ」をつけた。曰く「自然と流れた涙だから」「それに涙を流してもちゃんとコメントしているではないか」。
- 通算最多安打を記録していることを誇りに思っており、同番組で「イチローが例え日米通算4000本安打を記録しても、日本記録保持者は私ですから」とコメントしたことがある。
- マスターズリーグで三振すると逆にファンから「喝!」と野次られる。また、それが放送された場合、自分で自分に「喝!」をつけている。
- 女性には滅法甘いが、最近では女子ゴルフで一時期成績不振が続いた宮里藍に対して「喝!!」と叫ぶ事もあった。
- イチローが、日米通算2500本安打を達成した際、自分より安打を打っているメンバー(張本を含む)のことを聞かれ、「いかついですねぇ」と笑顔で発言。この時冗談で「喝」をつけたことがある。これに対し、スタジオでは「顔のことではなく、それだけの威厳が自分にはないですよという意味だ」と、軽く笑いがおきた。
- 打撃タイトルを一度も獲得したことの無い清原和博を「お話になりませんわね」と評していたが(清原については「才能は松井以上」「一度指導してみたかった」とも語っている)、近年は清原の人気と野球界への貢献を認めているようで、特に何も言わなくなった。なお、清原は、自身が恐れる人として張本を挙げており、「張本氏のどこが恐いんですか」との質問に、「あの人何だか恐いじゃないですか」と答えている。余談だが、張本はサウナでプロレスラーとケンカしてヤクザが止めに入った、という逸話を持つ。
- 「東京ヤクルトスワローズと東京六大学の選抜チームが神宮球場開場80周年記念事業の一環として対戦した」という話題を取り上げていた際には、「何でプロがアマチュアと対戦する必要があるのですか? 記念事業というのなら関西の大学連盟(関西学生野球連盟・関西六大学野球連盟など)との選抜チームと対戦というのが筋でしょう? 失礼ですよ」とプロアマ対抗で行ったことを批判している。
- プロ野球選手の契約更改時での代理人制度に猛反対したり、2004年のプロ野球選手会のストライキでは選手会側を批判するなど、選手を批判し球団側を擁護する発言が多い。
- 日本ハムの後輩筋に当る新庄剛志には常に手厳しく、「喝」マークをつける様は番組名物になっていた。日本ハムのキャンプに行った際には、バックネット裏にいた新庄から逆に「喝!」と野次られたこともあった。ただ、実際のところは新庄を認めているような発言が多々あり(新庄がメジャーに移籍した年に、同じくその年にメジャーへ移籍したイチローと比べて「案外新庄のほうが活躍するんじゃないですかね」と発言しているなど)、新庄がメジャーリーグで活躍しているときには、「日本へ帰ってこいよぉ」と発言したこともある。
- 近年顕著な一流選手のメジャーリーグ流出を危惧しており、「日本の野球にお世話になったのに、感謝の気持ちが無い」と問題視している。そのためか、メジャーリーグや日本人メジャーリーガーについてのコメントはあまりしない。
- 2005年、マスターズリーグにて5年越しの初安打を放つ。本人は「星野伸之(元オリックス)が手加減してくれた」とコメントしている。
- 少年時代から巨人に対する強烈な憧れ・愛情を抱いており、そのため松井秀喜が巨人を飛び出してニューヨーク・ヤンキースに入団した時や、川相昌弘が引退を撤回し中日に移籍した際には、猛烈な非難を浴びせていた。
- 亀田三兄弟については一貫して沈黙を守っていたが、2006年10月1日の放送で亀田大毅の試合における観客席での乱闘騒ぎに触れ、不自然な判定に不満をもらした客に「喝」を入れ、6戦目で世界ランカーに挑戦した亀田大毅を擁護するコメントを語った(過去にも、ノックアウト勝利を逃してふてくされた態度をとった大毅に対して、同番組で「あっぱれ。」と言った。)。しかし、観客に向かって暴行をはたらいた協栄ジム関係者については触れていない。
- 大沢悠里から自身の代名詞「お色気大賞」で、「喝!!」を締めのおちゃかしの音源として使用された。また、大沢は「張本さんがHの体制に入ったら大変ですよ」と語り、揶揄した。これには相棒のさこみちよが大笑いしている。
- 2006年8月15日、テレビ朝日系「徹子の部屋」に出演。被爆体験や幼少期の生活、母に対する思いなどを語った。
[編集] 著書・参考文献
- 闘魂のバット―3000本安打への道、自著、ベースボール・マガジン社、1991年7月。ISBN 4-06-206796-X
- 山本徹美『誇り-人間張本勲』、講談社、1995年5月。ISBN 4-06-206796-X
[編集] 現在の出演番組
[編集] 関連項目
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