トーマス・オマリー
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トーマス・オマリー(Thomas Patrick O'Malley、1960年12月25日 - )はアメリカニュージャージー州出身の元プロ野球選手。右投げ左打ち。現阪神タイガース駐米スカウト。独身(バツイチ)。
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[編集] 来歴・人物
1982年にサンフランシスコ・ジャイアンツでメジャーリーグの試合に初出場し、以後9年間プレーするもののメジャーには定着できず、1983年のシーズンを除いてレギュラー選手としての成績は残せなかった。そして1991年に来日し、同年より阪神の選手として活躍。初の春季キャンプでは読売ジャイアンツの川上哲治元監督から「今年の外国人選手では一番すばらしい」と絶賛される。また、オマリー自身も日本野球に順応しようと、食事では箸を使うなど努力した。逆に、入団前はオマリー以上の評価を受けながら、そういう努力をしなかった同期入団のマーベル・ウインは結果を残せず1年で退団することになり、両者の明暗を分ける結果となった。
1992年、前年オフに横浜大洋ホエールズを解雇されたジム・パチョレックを阪神に紹介し、入団させる。このパチョレックとのコンビで、同年は新庄剛志、亀山努ら若手選手とともに低迷した阪神を2位に躍進させた。1993年には首位打者のタイトルを獲得。また、ヒーローインタビューでお立ち台に上がったときの「ハンシンファンワ、イチバンヤァー!(阪神ファンは一番や!)」の絶叫もあってファンからの人気も高かったが、守備中にバントシフトを取らないなど怠慢な守備で中村勝広監督(前オリックス・バファローズ監督)と対立し、1994年オフに自由契約となった。
1995年、野村克也監督(現・東北楽天ゴールデンイーグルス監督)率いるヤクルトスワローズへ移籍。ちなみにオマリー自身は、1995年オフにゲスト出演した『ニュースステーション』で、久米宏からヤクルトへ移籍した理由を聞かれて「阪神は“子供”のチームだったから」と答えている。また、阪神甲子園球場で古巣相手に3連発したこともあり、「ヤクルトファンノ、オウエンクダサイ(ヤクルトファンの応援下さい)」と発言した。
ヤクルト移籍後も主力選手として活躍、1995年には打率.307、本塁打は自己最多の31本、打点87を記録して長打力があることも見せつけると共に、ヤクルトのリーグ優勝に大きく貢献した。さらに、その年のシーズンMVP、さらには日本シリーズでもMVPに輝き、日本一にも大きく貢献した。1996年外国人選手初の6年連続3割を達成するも契約上の問題からヤクルトを退団、ボストン・レッドソックスに招待選手としてキャンプ参加するが解雇されてしまい、そのまま引退。1998年にアメリカ独立リーグ、ニューアーク・ベアーズの監督などを務めた。
2001年、阪神春季キャンプに野村監督を表敬訪問し、その際に外国人選手へのアドバイスが高評価されて翌年の野村内閣入りが濃厚となるが、野村監督退団に伴い破談。ただ、その際の口約束があったせいでベアーズ監督を辞任していたために、翌2002年の春季キャンプのみの臨時打撃コーチとして古巣阪神に復帰。そのキャンプ中の熱心な指導が星野仙一監督にも評価され、そのまま特命コーチとしてシーズン中も残留することになった。特命コーチ時代はジョージ・アリアス、トレイ・ムーア、ジェフ・ウィリアムス、ジェロッド・リガンらを指導するなど精神的支柱となり、阪神の2003年のセントラル・リーグ優勝に貢献した。しかし、岡田彰布監督就任により、オマリー自身も星野監督、田淵幸一、達川光男各コーチとともに退任した。
2004年から、阪神の駐米スカウトに就任。シーズンオフ後、堀江貴文・ライブドア社長からのライブドアベースボール監督就任要請を受諾したが、同球団の参入自体が無くなったためにそのまま駐米スカウトとして阪神に残留しており、外国人選手獲得に力を尽くす一方で、キャンプ時に来日し外国人選手の指導、アドバイスや自らも打撃投手を勤めるなどコーディネーターとしても活躍している。
[編集] エピソード
- 長嶋茂雄に憧れており、小さなヘルメットを浅く被っていた。また、よくガムを噛んで少し半身ぎみで打席に立っていた。
- ヤクルトに移籍する前年のオールスターゲームにて、長嶋茂雄に対し「ライネンキョジン(来年、巨人)」と移籍アピールをするが、それとなく断られている。このシーンは『プロ野球珍プレー・好プレー大賞』などでよく流される。
- ビル・クリントン前アメリカ合衆国大統領と顔が非常に似ている事から、一部のファンからクリントンの親戚かと思われていた。
- 来日当初、悩殺コスチュームで歌手活動を行なっていた杉本彩にメロメロになり、杉本を好みの女性に挙げていた時期があった。
- 投手の配球を読むことに非常に長けており、変化球を投げられてわざと空振りし、次に同じ変化球が来たときに狙い打ちしたこともよくあった。
- 阪神時代、ビジターの試合で球団カラーの黒ではなくグレーのアンダーシャツを着ていたのは、メジャーリーグミネソタ・ツインズ在籍時代のシャツをそのまま愛用していたから。
- 阪神時代の1993年にはオールスターゲーム第2戦でMVPを獲得しており、外国人選手としては唯一、ペナントレース・日本シリーズ・オールスターの3つでMVPを獲得している選手である。
- 1994年にはCD「オマリーのダイナミック・イングリッシュ」を発売、6万枚を売り上げた。このCDに収録されている六甲颪(CDでの曲名は「オマリーの六甲おろし」)のあまりの音痴っぷりは一部で注目を集めた。また、引退後には『LOVE LOVEあいしてる』にもゲストとして招かれ、生歌で六甲颪を披露したが、歌は相変わらずであった。
- このオマリーが歌った六甲おろしは、1番の歌詞は日本語、2番の歌詞は英語である。1番は日本語のために下手なのはまだ分かるが、2番の英語の歌詞も下手であった。オマリーは根本的に音痴らしい。
- 同じく1994年に野茂英雄らとともに公共広告機構の関西限定の新聞広告にイラストで出演、これはこの年開港した関西国際空港とタイアップしたマナー啓発の広告だった。
- 現在、阪神電鉄のCMに出演中。阪神甲子園球場での試合開催時に駐車場を開放していた甲子園競輪場が2002年3月19日のレースを最後に閉鎖し、甲子園球場への観客に対応した駐車場が近隣になくなったことから、2003年より「ノーマイカー甲子園」のイメージキャラクターを務めている。ここでは「ハンシンデンシャガ、イチバンヤァー!(阪神電車が一番や!)」としゃべっている。阪神電車内の中吊りポスターにも登場し、両腕をクロスさせ「×」印を表現している。
- さらに2006年から「甲子園球場へのカン・ビン類持ち込み禁止」のイメージキャラクターも兼任(こちらも中吊りポスターがあり、手のひらを大きく出し「STOP」を表現)し、「甲子園のお願い事CMはオマリー」という図式が定着しつつある。
[編集] 日本での打撃成績
年度 | 所属 | 背番号 | 試合 | 打数 | 得点 | 安打 | 二塁打 | 三塁打 | 本塁打 | 塁打 | 打点 | 盗塁 | 盗塁刺 | 犠飛 | 四球 | 死球 | 三振 | 打率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1991 | 阪神 | 1 | 130 | 476 | 61 | 146 | 29 | 0 | 21 | 238 | 81 | 0 | 1 | 2 | 57 | 2 | 83 | .307 |
1992 | 111 | 381 | 55 | 124 | 30 | 2 | 15 | 203 | 62 | 3 | 1 | 1 | 94 | 2 | 70 | .325 | ||
1993 | 125 | 434 | 60 | 143 | 32 | 1 | 23 | 246 | 87 | 1 | 1 | 4 | 75 | 2 | 71 | .329 | ||
1994 | 124 | 430 | 61 | 135 | 18 | 2 | 15 | 202 | 74 | 2 | 1 | 4 | 89 | 1 | 74 | .314 | ||
1995 | ヤクルト | 3 | 125 | 421 | 83 | 127 | 20 | 0 | 31 | 240 | 87 | 6 | 6 | 5 | 96 | 2 | 57 | .302 |
1996 | 127 | 461 | 56 | 145 | 23 | 0 | 18 | 222 | 97 | 3 | 4 | 5 | 74 | 1 | 70 | .315 | ||
通算 | 742 | 2603 | 376 | 820 | 152 | 5 | 123 | 1351 | 488 | 15 | 14 | 21 | 485 | 10 | 425 | .315 |
[編集] メジャーでの打撃成績
- 466試合 打率.256(1213打数 310安打) 13本塁打 131打点
[編集] タイトル・表彰
- 最優秀選手:1回、1995年
- 首位打者:1回、1993年
- ゴールデングラブ賞:1回、1992年
- ベストナイン:1回、1995年
- 最高出塁率:4回、1992~1995年
- 最多勝利打点:2回、1995~1996年
[編集] 監督としての成績
年度 | チーム | 前・後期 | 試合 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | 順位 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1998年 | Newark Bears | 前期 | 50 | 18 | 32 | 0 | .360 | 5位 |
後期 | 50 | 17 | 33 | 0 | .340 | 6位 | ||
1999年 | 前期 | 59 | 24 | 35 | 0 | .406 | 5位 | |
後期 | 60 | 31 | 29 | 0 | .516 | 3位 | ||
2000年 | 前期 | 70 | 38 | 32 | 0 | .542 | 3位 | |
後期 | 70 | 36 | 34 | 0 | .514 | 4位 | ||
2001年 | 前期 | 63 | 38 | 25 | 0 | .603 | 1位 | |
後期 | 63 | 37 | 26 | 0 | .587 | 2位 |
- 2001年はプレーオフ進出。初戦はナシュア・プライドを2勝1敗で破るも決勝のサマセット・ペイトリオッツ戦は2勝3敗で敗退。
[編集] CD
- オマリーのダイナミック・イングリッシュ(1994/05/25)
[編集] 関連項目
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