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岡田 彰布(おかだ あきのぶ、1957年11月25日 - )は、大阪府大阪市東区(現・中央区)出身の元プロ野球選手および、現阪神タイガース監督。現役時代の愛称はノムカン(野村克也と藤山寛美を足して2で割ったような顔をしているため)。一部のインターネット掲示板ではどんでん(坂田利夫と味の素のうどんスープ「ほんだし うどんおでんだし」の広告で共演したため)。主なポジションは内野手(1984年のみ外野手)。
[編集] 来歴・人物
- 父・勇郎(いさお)(1986年9月3日死去)が村山実、藤本勝巳ら阪神の選手と親交があったことから、幼少時より阪神と縁深く育った。1962年に阪神がリーグ優勝し阪神間をパレードした際、当時5歳の彰布少年が車に乗せてもらった話は有名。また高校の時村山の引退試合で村山とキャッチボールをしたこともある。
- 私立大阪明星中学校、北陽高校(1年後輩に格闘家前田日明)、早稲田大学入学(体育学科を卒業できずに中退)。
- 早大入学後は1年秋からレギュラー入り、江川卓から3安打を放ち注目される。2年生からは主軸を打ち、1978年秋に戦後4人目の三冠王を獲得。翌年春には主将として東京六大学リーグ連覇に貢献。通算打率.379、通算打点81は現在もリーグ記録。リーグベストナインは5回、1978年春東京大学2回戦で史上2人目のサイクルヒット。
- 早大から1979年、ドラフト1位で阪神タイガースに入団。
- 1980年、入団1年目から二塁のポジションを獲得、新人王。ただし当初は、監督ドン・ブレイザーが「岡田はまだ新人」という理由で彼の起用に消極的で、ヤクルトスワローズから獲得したデイヴ・ヒルトンを打撃不振にもかかわらず守備を評価して使い続けた。掛布雅之が負傷したあとも岡田の起用を見合わせたため(この時、岡田も負傷していたらしい)、ファンの間から「なぜ岡田を出さない」という不満が盛り上がり、ファンからの嫌がらせが目に見えて激しくなった。そこで球団は不明瞭な形でブレイザーを解任し、コーチだった中西太に監督を交代させた。このあとでは出場機会が増え、新人王につながった。
- この時期に外国人選手に出場機会を奪われたことは、岡田にとって深いトラウマになったらしい。のちに監督になってからも、「優秀な外人打者を取れ」というフロントの主張を頑として拒否し、日本人選手の育成にこだわることが多い。このことは岡田の往年のトラウマによるとも言える。逆に言えば、当時の岡田はそれほどにも深く傷ついたことになる。とはいえ現在はファーストのシーツを優遇しているのでトラウマは解消されたと見ていいだろう。
ただ、その一方で、自らの力でチャンスを掴みたいという気持は当然強かったので、当時ヒルトンが出場する度に「オカダ・オカダ」とコールがわいたことに「あの岡田コールは嫌だった」と当時のファンには後年のインタビューで苦言を呈している。この事からも、深く傷ついた原因は自分(岡田)を持ち上げるためにヒルトンやブレイザーを悪者扱いし、更には身重の夫人が同乗していたヒルトンの車を取り囲み罵声を浴びせ、車を蹴る等の行為を行い、ヒルトンやブレイザーの親族を脅迫する等の騒動を起こすなどの態度を取った、いわば「贔屓の引き倒し」というファンの行為にもあると言えよう。
- 1984年、この年のみ外野へコンバート(平田勝男の台頭により真弓明信が二塁に廻ったため)。しかし外野手としては事実上この1年のみで、翌年からは真弓と入れ替わりに二塁に戻る。
- 1985年には選手会長兼5番打者として打率.342、35本塁打、101打点の好成績で真弓、掛布雅之、ランディ・バースらと共に、球団初の日本一に貢献。特に4月17日での甲子園での巨人戦ではバース、掛布に続きバックスクリーン3連発(掛布はバックスクリーン左に入った為、賞金をもらい損ねている)の締めを行い、一発のある好打者として活躍した。8月には打率.429、10本塁打、31打点でプロ入り初の月間MVPを受賞し、さらに、9月15日の甲子園での中日戦でサヨナラツーラン、翌16日にもサヨナラ中前打と2試合連続サヨナラ打を記録した。甲子園でのバックスクリーン3連発は、現在でも阪神ファンの語り草となっているが、その前日の巨人戦でも1-2で迎えた4回裏二死、四球で出塁した岡田は佐野仙好が放った平凡なフライを遊撃手河埜和正が落球する間に、一塁から一気に本塁生還し大量7点の猛攻へとつなげ、吉田義男監督も「あの岡田の全力疾走が大きかった」と評価していた。
- またこの年の8月12日、当時の球団社長だった中埜肇が日航機墜落事故で死亡するという悲劇も起こる。特に阪神ナインの中でも中埜に目をかけてもらい、自らも“飛行機派”と称していた岡田の受けたショックは大きく、この事故の直前に生まれたビデオに映っている息子・陽集に向かって「お前が生まれた年にこんな大事故があったんやぞ!」と泣き叫んだという。
- 1989年、この年のみ、大学時代に守っていた三塁にコンバート(掛布の引退に伴う)。6月25日の甲子園での巨人戦、1-4で迎えた8回裏二死満塁でビル・ガリクソンから左翼ポール際へ劇的な逆転満塁本塁打を放った。奇しくも30年前の天覧試合と同じ日で、スコアも5-4と裏返しとなり、村山実監督の仇討ちを果たした(この年の巨人監督は天覧試合完投勝利の藤田元司)。お立ち台で『3点差だったので満塁で回ってきたらホームランしかないと思った』と胸を張ると、甲子園は岡田コールに包まれた。次試合も彼の本塁打で1-0で勝利するなど、プロ入り2度目の月間MVPを受賞。しかし翌年からは八木裕の台頭により二塁に戻る。
- 1992年、日本プロ野球選手会会長としてFA制度導入に尽力する。選手としてはこの年から二塁を和田豊に譲り一塁にコンバートされたが、新庄剛志や亀山努の台頭に加えて、打率1割台と深刻な打撃不振により先発出場は激減。特に自らの代打として亀山を送られた場面は、このシーズンの阪神を象徴するシーンの一つとしてよく取り上げられた。
- 1993年、体力の衰えから戦力外通告を受けて阪神を自由契約になり、仰木彬監督のオリックス・ブルーウェーブに移籍。移籍直前、週刊誌上で愛人問題を暴露され、そのまま現役引退の危機に晒されるが、のちに狂言と判明し、自称「愛人」の女が恐喝容疑で逮捕された。
- 1995年、10年ぶりに優勝を経験し、現役引退。
- 1996年、オリックス2軍コーチに就任。
- 1998年、阪神2軍助監督兼2軍打撃コーチ。またこの頃、自動車運転免許を取得。
- 1999年、阪神2軍監督兼2軍打撃コーチ。ここでの育成選手達が後に主力選手に成長する。
- 2000年~2002年、阪神2軍監督(専任)。2年連続日本一となった。
- 2003年、1軍内野守備走塁コーチ。三塁ベースコーチを担当し、判断の良さには定評があった。
- 2003年オフ、星野仙一(現阪神タイガースシニアディレクター)前監督が体調不良のため監督を勇退。その後任として1軍監督に就任。
- 2004年、監督初年度は井川慶ら優勝に貢献した選手の不調に加えジョージ・アリアスの好不調・マイク・キンケードの度重なる死球によるけが、更にジェロッド・リガンの負傷と鳥谷敬の抜擢やその年に開催のアテネオリンピックの野球に出場したジェフ・ウィリアムスと安藤優也と藤本敦士の不在による戦力低下が裏目に出て4位。
- 2005年9月7日、 中日ドラゴンズとの2ゲーム差での首位決戦(9.7の決戦)において、終盤一打サヨナラのピンチに監督就任後初めてマウンドへ向かう。ここで久保田智之投手にかけた言葉は「お前は悪ないからな。責任持つからもうムチャクチャ放れ!」。岡田に闘魂注入された久保田は後続を連続三振でピシャリ。11回表の中村豊の本塁打が決勝点となり死闘を制す。この一見投げやりにも取れる言葉の裏には、例えこの試合に負け、さらには優勝を逃したとしても全責任を自分が背負うという強い覚悟が込められていた。試合終了後、中日の落合博満監督に「今日は監督で負けた」とまで言わせた。結果的にこの戦いを境に阪神は連勝を重ねる。一方、中日は再び阪神との直接対決を待たずに失速。2005年シーズンの明暗を分ける一戦となった。
- 2005年9月29日、甲子園球場で、巨人戦において就任2年目にして阪神を優勝に導く。また奇しくも優勝当日は亡父・勇郎氏の誕生日であった。
- 日本シリーズはロッテに0-4のストレート負けとなる。また、その際にJFKをリードされているからという理由で起用しなかったことにファンや解説者にマスコミなどから不満があがった。
- 2006年3月6日、絶滅が危惧されている野生のトラを保護するため、トラ保護基金に2006年シーズンの公式勝利数と同じ数のトラ保護レンジャー用の装備を寄付すると表明。そして、2006年の勝利数と同じ84個分の装備品の代金75万6,000円(1セット約9,000円)を寄付した。この活動が評価され、2006年12月12日にインド政府から「阪神の最後まであきらめない姿勢に勇気づけられた。支援に非常に感謝している」などと記された感謝のメッセージを受け取っている。
[編集] 略歴
- 身長・体重:175cm 77kg
- 投打:右投右打
- 出身地:大阪府大阪市玉造
- 血液型:A型
- 球歴・入団経緯:北陽高 - 早大 - 阪神(1980年 - 1993年) - オリックス(1994年 - 1995年) - オリックスコーチ(1996年 - 1997年) - 阪神コーチ・二軍監督・監督(1998年 - )
- プロ入り年度・ドラフト順位:1979年(1位)
- 英語表記:OKADA
- 守備位置:二塁、三塁、一塁、外野
- 推定年俸:1億(2007年)
[編集] 背番号
[編集] エピソード
- 学生時代より人柄の良さは有名で、人望が厚く先輩後輩問わず慕われてきたその人心掌握術によって早くから幹部候補生として期待されていた。主将になってから自分でスタメンを決めていた。
- 学生時代は、「早稲田大学阪神タイガースファンクラブ」という学生の応援サークルに所属していて、一般学生と一緒にコンパやソフトボールを楽しんでいた。
- また、強運なことで知られ、本人曰く「いままで抽選とかくじとかで外れた記憶がない」。1979年のドラフト時に6球団争奪の末、阪神に引き当てられた逸話は岡田の強運を象徴している。逆指名・自由獲得枠のない当時、指名前に希望球団を言うことは禁句だったが、記者の取材に「(希望は)どことは言えないがセリーグの在阪球団です」と答えたとされる。もちろん、セリーグの在阪球団は1球団のみである。
- 阪神入団当初、シーズンオフに自宅(大阪市内の実家)近くで近所の小中学生とソフトボールをしていたとき、一人だけずば抜けた野球センスを持つ中学生がいた。それが後にタイガースキラーとなり、勝ち星を重ねる事になる三浦大輔投手(横浜ベイスターズ)であり、彼が高校生の時、阪神がドラフトで指名しなかったことに激怒、球団に食って掛かった。
- 雄弁ではないものの思った事を短い言葉で表現する事が多く、人物に対する評価がしばしば辛口である。
- 東京ドームの柿落しの試合で、一塁ベース手前で転倒し、その反動で顔面をベースに強打した。東京ドーム負傷者第一号である。
- 現役時代から先輩だった掛布との確執がよく取り沙汰されているが、実際には岡田の頭の中には、2人の掛布(野球選手、ミスタータイガースとしての掛布と、すっかりタレントになりきってしまった現在の評論家としての掛布)が存在しているらしく、野球選手、ミスタータイガースとしての掛布は今でも尊敬しているらしいが、現在の評論家としての掛布の事はかなり嫌っているらしい。余談ながら、掛布は岡田が嫌いだと公言している長嶋茂雄のファンだったという。そもそも確執が取りざたされたのは、掛布本人も語るように岡田と2人で食事に行ったことが一度もないことが発端だったそうである。しかし、これは周囲の先輩に気を遣う岡田本人の配慮であり、ミスタータイガースと呼ばれた先輩掛布への尊敬の念が強すぎたために野球以外のことで2人で行動することを躊躇した結果とも言える。以上のことから、現役時代に週刊誌などで取り沙汰されていたような確執は実際にはなかったと思われる。
- 藤本敦士が学生時代に故障し野球を断念しかけた際に、藤本の実家の焼き鳥屋の常連だったという縁で甲賀総合科学専門学校を紹介した。つまり、岡田が藤本の復活を手助けしたのである。
- 一貫して1リーグ8球団制の提唱者である為、パ・リーグファンの心象はあまりよくない。
- 口癖は「そらそうよ」。またインタビューを受けた際の「あのー」「ねぇ」「まぁ」「もう」「~ていうか」「そういう意味では」という発言の多さは有名。
- 勝利監督インタビューは両手を腰に当て、首を左右にかしげながら答える。
- 彼がルーキーの頃から、プロレスラーのアブドーラ・ザ・ブッチャーが「コイツは、絶対に大物になる」と賛辞を送り、ブッチャーとの交友がある。
- 休日など自宅にいる時はパソコンで「スパイダーソリティア」に熱中している。2005年優勝決定翌日の「デイリースポーツ」の最終面に掲載された岡田の息子からのメッセージの中で息子が証言している。
- 夫人は有名私大卒で英語も堪能な才媛であり息子も大阪大学基礎工学部に入学するほどの秀才である。
- 阪神選手会長時代に阪神にはいかないと公言していた田口壮を激しく批判した(田口発言の真相については田口の項目を参照)。
[編集] 監督としての岡田彰布
- 監督としては博打より堅実を重視する。堅実にいって負けたら仕方がないというスタンスで、よくも悪くも我慢強いスタイル。そのため非常に選手起用に対して我慢強く、「こいつを使う!」と決めるとよほどのことがない限り引かない起用であり、それが選手からの信頼の厚さに繋がっているであろうと思われている。岡田政権下のクローザーとして定着した久保田智之などはその典型例である。「久保田を起用しない時はうちの投手陣が崩壊した時や」と、どんな批判も無視して久保田をクローザーとして使い続けた。(ただし、2006年中盤に久保田が骨折し、長期離脱した際には即座に藤川球児をクローザーに指名している)この我慢強さは時として劇的な勝利を呼び込むと共に裏目に出る事も少なくなく(要は諸刃の剣)、ファンからの評価は二分されている。ちなみに、競馬も「本命党」とデイリースポーツの競馬予想で答えている。
- 我慢強い采配は岡田自身の頑固な性格から来ていて、こうした頑固な性格について2004年時就任していた佐藤義則ピッチングコーチが退任する際、「頑固過ぎる、人の意見を聞かない」と苦言を呈された事で有名。コーチ陣と意見が衝突するのは日常茶飯事。久保田に関しても岡田はクローザーにこだわりコーチ陣と衝突。ただし当初の予定では藤川がクローザーだったが何故か岡田が久保田を強引にクローザーとして起用した。2007年の始め、久保田スランプでクローザーに関して再び衝突。佐藤義則も言うようにコーチ陣との衝突が絶えない。
- 審判が際どい判定を下した時や誤審した時も抗議に出る機会は滅多にない。ピンチに陥った投手などにに対して監督自らがマウンドに行く事が他球団ではしばしば見られるが、2005年以降に岡田自らマウンドに出向いたのは2005年9月7日中日戦及び2006年6月1日楽天戦の久保田智之に対してと2006年8月31日中日戦の藤川球児に対しての3度だけである。いずれの試合もこれらの投手が踏ん張り勝利している。ただし日本シリーズでは岡田が抗議に行かない為に下柳が調子を崩して試合に負けた(後のMBSのビデオ判定で誤審判明)。
- 敗戦の際、選手を直接名指しして苦言を呈すことが多い。この点でも、全くといっていい程選手を責めない落合博満と比較される事が多い。
- 楽天監督の野村克也は、2006年のシーズン前に「落合のが常識の野球であって、岡田はまともな野球をしていない」と発言している。そして2006年の交流戦では、弱小球団を率いながらも、有言実行とばかりに阪神との対戦成績を3勝3敗の五分に持ち込んだ。
- 自身は二軍の下積み経験がほとんどないが、二軍監督を長年やっていた為か、二軍の若手選手への思いが人一倍強い。試合のない日もよく二軍の阪神鳴尾浜球場で目撃されている。濱中治や関本健太郎など、二軍監督時代に手塩をかけて育ててきた選手達は着実に成長してきている。
- 岡田采配は打線を固定することを基本としているが、2006年シーズン中に今岡誠の離脱等もあり、打線が極度の不調だったため、「四番・金本」以外の打順を50通り以上変えざるをえなかった。
[編集] 通算成績
年度 |
所属 |
試合 |
打数 |
得点 |
安打 |
二塁打 |
三塁打 |
本塁打 |
塁打 |
打点 |
盗塁 |
盗刺 |
犠打 |
犠飛 |
四球 |
死球 |
三振 |
併殺 |
打率 |
失策 |
1980 |
阪神 |
108 |
376 |
44 |
109 |
19 |
0 |
18 |
182 |
54 |
4 |
2 |
1 |
0 |
23 |
3 |
45 |
6 |
.290 |
13 |
1981 |
130 |
485 |
70 |
140 |
23 |
3 |
20 |
229 |
76 |
1 |
0 |
2 |
4 |
28 |
5 |
43 |
13 |
.289 |
16 |
1982 |
129 |
466 |
57 |
140 |
22 |
1 |
14 |
206 |
69 |
10 |
5 |
2 |
5 |
44 |
4 |
30 |
13 |
.300 |
8 |
1983 |
79 |
246 |
44 |
71 |
9 |
0 |
18 |
134 |
44 |
7 |
3 |
1 |
5 |
36 |
1 |
23 |
3 |
.289 |
7 |
1984 |
115 |
323 |
38 |
96 |
14 |
2 |
15 |
159 |
51 |
3 |
1 |
0 |
7 |
33 |
3 |
41 |
13 |
.297 |
1 |
1985 |
127 |
459 |
80 |
157 |
24 |
3 |
35 |
292 |
101 |
7 |
3 |
0 |
6 |
64 |
3 |
41 |
11 |
.342 |
11 |
1986 |
129 |
474 |
67 |
127 |
21 |
0 |
26 |
226 |
70 |
11 |
3 |
0 |
4 |
70 |
3 |
57 |
14 |
.268 |
9 |
1987 |
130 |
474 |
54 |
121 |
24 |
3 |
14 |
193 |
58 |
5 |
2 |
0 |
2 |
40 |
2 |
75 |
12 |
.255 |
12 |
1988 |
127 |
454 |
65 |
121 |
22 |
1 |
23 |
214 |
72 |
10 |
5 |
0 |
5 |
63 |
2 |
75 |
16 |
.267 |
4 |
1989 |
130 |
492 |
66 |
138 |
20 |
1 |
24 |
232 |
76 |
8 |
3 |
0 |
7 |
57 |
1 |
81 |
15 |
.280 |
14 |
1990 |
130 |
486 |
75 |
129 |
27 |
0 |
20 |
216 |
75 |
7 |
2 |
0 |
4 |
74 |
7 |
87 |
12 |
.265 |
9 |
1991 |
108 |
383 |
45 |
92 |
11 |
0 |
15 |
148 |
50 |
1 |
3 |
0 |
3 |
40 |
2 |
68 |
9 |
.240 |
14 |
1992 |
70 |
185 |
9 |
35 |
11 |
0 |
2 |
52 |
19 |
1 |
0 |
0 |
3 |
22 |
2 |
48 |
3 |
.189 |
1 |
1993 |
42 |
53 |
2 |
9 |
1 |
0 |
1 |
13 |
7 |
0 |
0 |
0 |
0 |
9 |
0 |
24 |
0 |
.170 |
1 |
1994 |
オリックス |
53 |
101 |
10 |
28 |
3 |
0 |
2 |
37 |
12 |
1 |
1 |
0 |
1 |
14 |
1 |
20 |
3 |
.277 |
3 |
1995 |
32 |
39 |
3 |
7 |
0 |
0 |
0 |
7 |
2 |
0 |
0 |
0 |
0 |
7 |
0 |
9 |
1 |
.179 |
0 |
通算 |
1639 |
5496 |
729 |
1520 |
251 |
14 |
247 |
2540 |
836 |
76 |
33 |
6 |
56 |
624 |
39 |
767 |
144 |
.277 |
123 |
[編集] 表彰
[編集] 監督としてのチーム成績
年度 |
年齢 |
球団 |
順位 |
試合 |
勝利 |
敗戦 |
引分 |
勝率 |
ゲーム差 |
打率 |
本塁打 |
防御率 |
得点 |
失点 |
2004 |
46 |
阪神 |
3位 |
138 |
66 |
70 |
2 |
.485 |
13.5 |
.273 |
142 |
4.08 |
637 |
610 |
2005 |
47 |
1位 |
146 |
87 |
54 |
5 |
.617 |
-10.0 |
.274 |
140 |
3.24 |
731 |
533 |
2006 |
48 |
2位 |
146 |
84 |
58 |
4 |
.592 |
3.5 |
.267 |
133 |
3.13 |
597 |
508 |
- 阪神タイガースのマスコットガールだった岡田真弓(元ラブ・ウィンクスの平田和子)とデュエット
- 原辰徳・高橋慶彦・宇野勝・遠藤一彦・荒木大輔と共にコーラス参加。
[編集] 容姿
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- ※カッコ内は監督在任期間。