ダニエル・バレンボイム
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ダニエル・バレンボイム(Daniel Barenboim, 1942年11月15日 ブエノスアイレス - )はアルゼンチン出身のユダヤ人ピアニスト・指揮者。現在の国籍はイスラエル。
ロシア出身のユダヤ系移民を両親として生まれ、少年時代から音楽の才能を表し、ピアニストとしてデビュー。ピアニストとしての名声を確固たるものとした後、1970年代から積極的に指揮活動も開始、1980年代にはパリ管弦楽団音楽監督に迎えられたが、同楽団の低迷を招いた張本人との不評に甘んじた。しかし、晩年のショルティからシカゴ交響楽団首席指揮者の座を受け継いでからは、卓越した能力を発揮し、現在は世界でも最も有名な辣腕指揮者のひとりとして定評がある。カラヤン、バーンスタインから近年のヴァントやジュリーニ、ベルティーニに至るまで、第二次大戦後に活躍してきた指揮界の巨星が相次いで他界し、彼らの後継者として期待されたクラウディオ・アバドやセミヨン・ビシュコフらの人材が伸び悩む中、次世代のカリスマ系指揮者の一人として、世界的に注目と期待が集まっている。
その国籍にもかかわらず、ワーグナーやリヒャルト・シュトラウスのように、イスラエル政府から「ナチス寄り」と認定された作曲家の解釈に本領を発揮しているが、これはバレンボイムがフルトヴェングラーに私淑し、その後継者たらんとしてきた姿勢によるだけでなく、ヤッシャ・ハイフェッツやロリン・マゼール、ジェームズ・レヴァインなどのアメリカのユダヤ系音楽家、あるいは同じくユダヤ人のショルティが、一般に新ドイツ楽派を得意のレパートリーとしている風潮とも合致している。
2001年には、イスラエルでワーグナー作品を指揮して、国民的反発を買っている。しかしながらアラブ人とユダヤ人の混成オーケストラが結成された際、指揮者選びをめぐって楽団員が糾合した時、アラブ側を納得させるために担ぎ出されたのが、ほかならぬバレンボイムであった。これはバレンボイムが、たびたびイギリスやアメリカにおいてパレスチナ寄りの発言をしてきた過去や、歯に衣着せないイスラエル政治批判、エドワード・サイードとの交友関係、イスラエル本土での演奏よりもイスラエル占領地区での積極的な慰問演奏がアラブ側に評価されてのことであった。
目次 |
[編集] 経歴
5歳のとき母親にピアノの手ほどきを受け、その後は父エンリケに師事。両親のほかにピアノの指導を受けてはいない。1950年8月、まだ7歳のうちに、ブエノスアイレスで最初の公開演奏会を開く。
1952年に家族を上げてイスラエルに移住。2年後の1954年夏、両親に連れられ、ザルツブルクでイーゴリ・マルケヴィチの指揮法のマスタークラスに出席。同年夏、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーを訪ねて、演奏を聞いてもらう。1955年にパリで和声と作曲をナディア・ブーランジェに師事。
ピアニストとしてのヨーロッパ・デビューは、1952年にウィーンとローマにおいてである。1955年にはパリ、1956年にはロンドンにデビューしており、1957年にはレオポルド・ストコフスキーの指揮で、ニューヨークにおいてオーケストラ・デビューを果たす。その後は、欧州、米国、南米、豪州、極東の各地で定期的に演奏会を行う。
最初の録音は1954年に行われた。その後、モーツァルトのピアノ・ソナタとピアノ協奏曲のいずれも全曲録音を完成させたほか、オットー・クレンペラー指揮によるベートーヴェンのピアノ協奏曲(全曲)、ジョン・バルビローリ指揮によるブラームスのピアノ協奏曲(全曲)、ピエール・ブーレーズ指揮によるバルトークのピアノ協奏曲(第1番・第3番のみ)を録音。これらはすべて、名盤と呼ばれて久しい。
1967年にロンドン・フィルハーモニー管弦楽団と共演して指揮者デビューを果たす。その後、欧米各地の交響楽団から指揮者として招かれる。1975年から1989年までパリ管弦楽団音楽監督に就任し、とりわけ現代音楽を盛んにとり上げるが、評価は芳しくなかった。しかし、この時期にドイツ・グラモフォンに同楽団と録音した、ラヴェルとドビュッシーは名演奏の一つに数えられている。
オペラ指揮者としては、1973年にエディンバラ音楽祭において、モーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」を指揮してデビュー。1981年にバイロイト音楽祭にデビューし、その後も1989年まで定期的にバイロイトで指揮を続ける。
現在は1991年より、サー・ゲオルク・ショルティの後任のシカゴ交響楽団音楽監督である。また、1992年からは、ベルリン国立歌劇場の音楽監督も兼務している。なお、2004年2月19日に2005-2006年のシーズン終了後のシカゴ交響楽団音楽監督退任を表明している。
バレンボイムは2度結婚している。最初の相手はイギリスのチェリスト、ジャクリーヌ・デュ・プレであった。デュ・プレは才能に恵まれながらも、多発性硬化症の発病により、悲劇的にも突然に音楽家生命がおわった。再婚相手は、ギドン・クレーメルの前妻で、ユダヤ系ロシア人ピアニストのエレーナ・バシュキロワである(エレーナの父親は高名なピアノ教授ディミトリー・バシュキロフで、フリードリヒ・グルダの息子リコが門人にいる)。二人は早くもデュ・プレの最晩年に、パリで同棲生活に入って二人の子をもうけていた。バレンボイムとエレーナ夫人の正式な結婚は1988年に行われた。
[編集] イスラエルにおけるワーグナー上演問題
2001年7月7日、バレンボイムはイェルサレムにおいて、イスラエル音楽祭の一環として、ベルリン国立歌劇場を指揮して、ワーグナーの楽劇<トリスタンとイゾルデ>の一部を上演した。場内は騒然となり、バレンボイムは数名のイスラエル人から「ファシスト」のレッテルを貼られた。イスラエル国においてワーグナーの音楽はタブー視されていた。ヒトラーの人種理論やユダヤ人殲滅活動は、部分的に、お気に入りの作曲家ワーグナーの狂気の著作に由来するものだからである。
バレンボイムは最初、プラシド・ドミンゴを含む3名の歌手と、ワーグナーの楽劇<ワルキューレ>の第1幕を上演する予定であったが、音楽祭主催者は、ホロコースト生存者とイスラエル政府からの強硬な抗議を容れて、プログラムの変更を余儀なくされた。
バレンボイムは、シューマンやストラヴィンスキーらの無難な曲目で差し替えることに同意していたが、その決定に対して遺憾の意を洩らしていた。しかしながらコンサートの終わりになって、アンコールとしてワーグナーを演奏すると告げたのである。
多くの聴衆は、高らかな拍手をもって応えたが、だが若干の少数者が、声を上げて反対と叫んだ。バレンボイムは30分をかけて、聴衆に向けてヘブライ語で、ワーグナーの楽曲をとり上げる理由を述べ、反対派には、とにかく音楽を聴いてくれるように説かなければならなかった。「私は先週、携帯電話の呼び出し音によって打ち合わせを中断させられたのです。その呼び出し音がワーグナーの<ワルキューレの騎行>でした。携帯電話にワーグナーを使えるなら、どうしてコンサートホールでワーグナーを聴いてはならんのですか?」
[編集] イスラエルの良心的文化人として・パレスチナ問題
バレンボイムは、イスラエルによるヨルダン川西岸地区やガザ地区の占領に批判の声を上げ続け(つまり、アラブ諸国とパレスチナの主張する、西岸とガザでの主権を放棄し「パレスチナ国家」を樹立するという主張に沿う発言をしている)、今やイスラエルが「ある民族のアイデンティティと戦うことによって、倫理的な柱を失いつつある」と述べた。2003年には、イギリスの音楽評論家ノーマン・レブレクトによる取材に応じて、イスラエル政府の動向を、「倫理的におぞましく、戦略的に誤っていて」、「イスラエル国家のまさに存在を危機に陥れる」姿勢であると糾弾した([1])。
バレンボイムは、パレスチナ人(アラブ人)との連帯の意思表示として、イスラエル人の入植地区、とりわけヨルダン川西岸地区において演奏活動を行なってきた。
1999年には、親しい友人でパレスチナ系アメリカ人学者のエドワード・サイードに共鳴し、ウェスト・イースタン・ディヴァーン・オーケストラ(West-Eastern Divan Orchestra) の創設に加わった。これは、毎年、イスラエルとアラブ諸国の才能あるクラシック音楽の演奏家を集めて結成されるオーケストラである。バレンボイムとサイードの二人は、この活動に対して、「諸国民の相互理解の向上」に寄与したとして、2002年にスペイン王室より「アストゥーリャス公褒章 Premios Príncipe de Asturias 」を授与された。
バレンボイムとサイードの共著 Parallels and Paradoxes は、ニューヨークのカーネギー・ホールで催された連続公開討論に基づいている。
2005年9月、イスラエル陸軍ラジオの記者に対し、軍服を着た者とは話したくないとインタビューを拒否したところ、イスラエルの教育大臣はバレンボイムを「本物の反ユダヤ主義者」だと非難した。([2])。
[編集] 受賞歴
2004年5月、バレンボイムは、クネセト(イスラエル国会)のセレモニーにおいて、ヴォルフ賞を授与された。この機をとらえて、バレンボイムは政治状況について、次のような持論を唱えた。
- 心に痛みを感じながら、私は今日お尋ねしたいのです。征服と支配の立場が、はたしてイスラエルの独立宣言にかなっているでしょうか、と。他民族の原則的な権利を打ちのめすことが代償なら、一つの民族の独立に理屈というものがあるでしょうか。ユダヤ人民は、その歴史は苦難と迫害に満ちていますが、隣国の民族の権利と苦難に無関心であってよいものでしょうか。イスラエル国家は、社会正義に基づいて実践的・人道主義的な解決法を得ようとするのではなしに、揉め事にイデオロギー的な解決を図ろうとたくらむがごときの、非現実的な夢うつつにふけっていてもよいものでしょうか。
以上の発言に対して、イスラエルの元首と数名の国会議員から、バレンボイムは名指しで非難されている。
- ヴォルフ賞 芸術部門, 2004年
- 寛容賞, トゥツィング福音アカデミー, 2002年
- アストゥーリャス公 協調賞 (エドワード・サイードと共同受賞), 2002年
- ドイツ・大連邦功労十字章 Großes Bundesverdienstkreuz, 2002年
- 哲学名誉博士号 イスラエル・ヘブライ総合大学, 1996年
グラミー賞オペラ部門:
- バレンボイム指揮 ベルリン国立歌劇場 ジェーン・イーグレン トーマス・ハンプソン ヴァルトラウト・マイアー ペーター・ザイフェルトほか
- ワーグナー <タンホイザー> (2003年)
グラミー賞室内楽部門:
グラミー賞管弦楽曲部門:
- バレンボイム指揮 シカゴ交響楽団
- ジョン・コリリアーノ: 交響曲 第1番 (1992年)
グラミー賞ソリスト部門:
- バレンボイム指揮 シカゴ交響楽団
- リヒャルト・シュトラウス<管楽器のための協奏曲> (2002年)
- バレンボイム指揮 パールマン、シカゴ交響楽団
- バレンボイム指揮 ルービンシュタイン、ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団
- ベートーヴェン ピアノ協奏曲全集(1977年)
グラミー賞ベスト・クラシック部門:
- バレンボイム指揮 ルービンシュタイン、ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団
- ベートーヴェン ピアノ協奏曲全集(1977年)
[編集] 外部リンク
- Daniel Barenboim 公式HP
- Parallels and Paradoxes エドワード・サイードのインタビュー
- 同上日本語訳の抜粋
- In harmony, Guardian newspaper feature on Barenboim and Said, 5 April 2003
- BBC Radio 3 interviews1991年11月
[編集] 参考文献
- アラ・グゼリミアン編(中野真紀子 訳)『バレンボイム/サイード 音楽と社会』(みすず書房 ISBN4-622-07094-4 C1036)
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