ポーランド・ソビエト戦争
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ポーランド・ソビエト戦争(ポーランド・ソビエトせんそう;ポーランド語:Wojna polsko-bolszewickaヴォーイナ・ポールスコ・ボルシェヴィーツカ;ロシア語:Советско-польская войнаサヴィェーツカ・ポーリスカヤ・ヴァイナー;ウクライナ語:Польсько-радянська війнаポーリスィコ・ラヂャーンシカ・ヴィイナー)とは、第一次世界大戦後の1919年2月から1921年3月にかけてウクライナ、ベラルーシ西部、ポーランド東部を中心に行われたポーランドとソビエト政府のあいだの戦争。ロシア革命に対する干渉戦争の一環ともとらえられる。また、日本語では「ソヴィエト・ポーランド戦争」、「ポーランド・ソ連戦争」、「ソ連・ポーランド戦争」などとも書かれる。但し、戦争が行われたのはソビエト社会主義共和国連邦成立前。
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[編集] 概要
第一次世界大戦直後のロシアは、ロシア革命に対する干渉戦争と内戦の影響により、混沌とした情勢にあった。パリ講和会議の結果により、ポーランド分割以来のロシア国家による支配から独立を果たしたポーランドは、人種的・宗教的影響やかつてのポーランド王国の領域などからベラルーシ西部やウクライナ西部の土地に関心を持っていた。このため、講和会議で得られた領域をさらに東方に拡大するために、干渉戦争の混乱に乗じ、ソビエト政府との戦争を開始した。1920年当初は、ポーランド軍は、キエフを占領するなど大きく進撃した。しかし、1920年4月以降、赤軍が反撃を開始し、6月にはワルシャワを包囲した。ポーランドはフランスなどから援軍をもらい、そのため、8月末から赤軍は撤退し、10月に停戦することとなった。1921年3月に講和条約が結ばれ、これによりポーランドはリヴィウを中心としたハリチナー地方などウクライナ西部を併合し、東方に大きく領土を広げることとなった。
[編集] 背景
1918年に第一次世界大戦が終了すると、東欧は大きな変革を迎えることとなった。ドイツの敗北により、ドイツによる東欧の緩衝国家建設計画は不可能となり、またロシアも革命の影響により、他国への干渉能力を失っていた。このため、ベルサイユ講和条約により誕生した東欧の新国家は、弱体な小国家が多かった。その中で、ポーランドは例外的・相対的に大国となりえた。また、かつてポーランド王国として、東欧に広大な領域を保有していたが、ポーランド分割により、その領土は失われたため、領域復活にかける願望を持っていた。ポーランドは、1918年に再独立を果たす際に、ドイツ、オーストリア・ハンガリー帝国、ロシアなどから領土を獲得していた。ただし、東部国境は交渉すべきロシア政府が不在ということもあり、この時点で未確定であった。(ただし、1919年12月には境界としてカーゾン線の提案がなされている。)
ポーランドはユーゼフ・ピウスツキを中心に、かつてのポーランド王国領域の復活と、ポーランドを中心とした国家連合によってドイツやロシアと対抗する方針を持っていた。ただし、ポーランドはロシアの政体への干渉やロシアの征服などの意図は持っていなかった。しかしながら、ロシアは歴史上幾度となく直にポーランドの脅威に晒されてきたため同国に対する警戒感情は高く、また革命を機に分離独立を目論む強力な勢力がいくつも「国家」を打ち立てていた旧ロシア帝国領小ロシア(ウクライナ)への干渉の可能性が極めて大きいこともあり、成立間もなく未だ戦時下にあったソ連政権のポーランドとそれに組する反革命勢力に対する警戒は弥増しに増していた。
1919年前半頃は、ロシアで干渉戦争が行われていた。また、フランスの支援を受けて、ポーランド軍の創設が行われている。1919年後半になると、ロシアの革命政府は徐々に白軍に対し有利になり始めた。ロシアは、革命の機運が高まっているドイツと結ぶことも考慮し始め、レーニンやトゥハチェフスキーは、ポーランド攻撃を示唆した事もあった。このことも腹背に非友好国を持つことになるポーランドを刺激していた。
一方、ロシアの政府からの実質的独立を果たしたウクライナでは、ウクライナ民族主義者シモン・ペトリューラの再建したウクライナ国民共和国が、ポーランドに亡ぼされた西ウクライナ国民共和国の残存勢力と共同し、赤軍との間で一進一退の戦闘を継続していた。しかしながら、ウクライナ勢力にとっては不運なことに、1919年10月ウクライナ軍の間でチフスが大流行し、兵力の70%が失われてしまった。これはもはや軍隊ではなく棺桶である、といわれたとされる。ボリシェヴィキーを憎悪し、キエフ・ルーシ以来のウクライナの独立を夢見るペトリューラは、無念の内にウクライナ民族の宿敵ポーランドへの亡命を余儀なくされた。
[編集] 推移
[編集] 戦争の開始
東部戦線のドイツ軍は1918年より撤退を開始した。ドイツ軍の撤退後には、各地域に共産主義政権が誕生したが、ロシアの革命政府はそれらの共産主義政権と連携することを望んでいた。ただし、各地域の共産主義政権は、小規模で連携が取れておらず、場合によっては対立するなど、東欧は混沌とした状況にあった。1918年11月18日にレーニンはドイツ軍が撤退した地域に向けて赤軍を進出させるように命令を出した。目的は、各地の共産主義政権と連携することのほか、ドイツとオーストリアの革命勢力を支援することにあった。
1919年2月からポーランド軍はフランスの支援を受けて、ロシアを仮想敵とし、軍の編成を開始した。フランスは、ロシアにおいて白軍が不利であったことから、その代わりとしてポーランドを支援することを決定し、400名の士官からなる軍事顧問団をポーランドに派遣した。これにはイギリスの士官も小数加わっていた。フランスの軍事顧問団は、ドイツやロシア、オーストリア・ハンガリーの遺棄機材などを用いて、ポーランド軍の編成を行った。軍事顧問団には、シャルル・ド・ゴールも加わっていた。亡命ポーランド人やポーランド移民で構成され、第一次世界大戦においては西部戦線で義勇兵部隊として戦っていたハラー(J.Hallera)将軍の部隊も、ポーランド軍に加わった。これにより、1919年9月にはポーランド軍は54万人の兵員を有し、うち23万人が東部国境に配置されていた。
1919年2月に、ビリニュスにおいて、赤軍はポーランド民兵部隊を撃破し、当地を占領した。2月半ばにはコブリンからニーメン川(ロシア語:ニェーマン川;ポーランド語:ニェメン川)にかけて戦線が構築され始め、また、他の白軍部隊の交戦が激化したため、赤軍はそれ以上の西への進撃は行わなかった。3月にはポーランドも反撃を行い、ニーメン川を越えて、リダやスロニムの町に進撃している。また、グロドノやビリニュスでも戦闘が行われ、ポーランド軍が勝利している。10月までにポーランド軍はドヴィナー川まで進撃した。
1919年のポーランド軍の攻撃は概ね順調に推移した、なお、1919年夏頃は、ロシア方面では、ドン地方で強大な勢力を築いた反革命のデニーキン軍がモスクワへの進撃を行っているなど、旧ロシア帝国領域における干渉戦争の影響も大きかった。なお、デニーキンはポーランドの独立に理解を示さなかったために、ポーランド政府や軍との連携は良いものではなかった。これは、デニーキン軍とウクライナ勢力との間でも同様のことであった。
和平交渉は1919年中に行われてはいたものの、ポーランドの政治家が強硬であったために、成立しなかった。また、リトアニアが独立の際、ビリニュスを首都予定地とし、ポーランドと交渉を行ったものの、ポーランドはリトアニアに譲歩せず自国領ととしたために、リトアニアとの関係は悪化している。一方、ラトビアとの交渉においてはポーランド軍への協力を得ることに成功しており、さらに翌年にはウクライナ民族共和国との連合にも成功する。
[編集] 1920年
1920年に入ると、赤軍はデニーキン軍を撃破し、またラトビアやエストニアと平和条約を結ぶことに成功したため、ポーランド方面に赤軍が集中し始めた。1920年1月には70万の赤軍がベレジナ川付近に集中していた。1920年半ばまでに、これは80万人に増強された。このころの赤軍は、ドイツ軍の遺棄兵器や干渉軍から奪取した最新兵器で装備されていた。ポーランド軍は、1920年夏には70万の兵員を有し、兵力は赤軍と同等であったものの、兵站状況が悪く、装備が統一されていないと言う欠点を持っていた。
4月には、ポーランドに亡命していたペトリューラはポーランドとの間にワルシャワ条約を結び、彼の再建したウクライナ国民共和国をウクライナを代表する唯一の政府として認め、互いに単独講和を結ばない、戦後は東ハリチナーをポーランドに割譲するなどを条件に彼の率いる執政内閣(ドィレクトーリヤ)軍がポーランドと共に戦うことになった。ペトリューラは、何よりもまずボリシェヴィキを憎んでおり、それを倒すためであれば、ウクライナの宿敵であるはずのポーランドとの連合も辞さなかった。
一方、ポーランド軍は赤軍の攻勢の前に、先制攻撃を行うことを計画し、4月から進撃を開始した。ポーランド第3軍はペトリューラ軍と共同し、5月7日(または5月6日)にキエフを占領した。しかしながら赤軍は直ちに反撃を行った。北部においては赤軍の反撃は成功し、ポーランド第1軍は大きく後退した。5月24日に、南部のポーランド軍もプジョーンヌイ率いる第1騎兵軍のコサックの攻撃を受けた。6月10日頃までにポーランド軍の敗退は決定的になり、ペトリューラも6月13日(または6月12日)にキエフを放棄して撤退した。
一方、ポーランド軍も撤退を続けたが、戦略予備部隊の不足や重砲の不足とあいまって、整然とした撤退とはならず、壊走に近いものとなった。7月にも、大規模な戦闘があり、激しい戦闘の末、赤軍が勝利し、ポーランド軍はさらに撤退することとなった。ポーランド軍は第一次世界大戦時のドイツ軍の塹壕跡を利用して防御を行ったりしたが、兵力・錬度不足により赤軍に突破された。7月14日にはビリニュスを、7月19日にはブロドノを赤軍が占領した。赤軍の進撃速度は速く、1日に20マイルになることもあった。8月1日には、ブレスト・リトフスクを赤軍第16軍が占領したが、そこのブーク川においてポーランド第4軍は防戦を行い、赤軍を一週間に渡り足止めした。トゥハチェフスキー率いる赤軍の北西正面軍は、8月2日にワルシャワから60マイルの地点に到達している。ハリチナー地方においても赤軍の攻勢でリヴォフなどで戦闘が行われていた。リヴィウ近郊においてポーランド軍は反撃に成功し、赤軍の進撃を足止めした。これを受けて、赤軍は利用可能な部隊をワルシャワ攻撃に集中させることとした。
[編集] 外交
ポーランドの首相S.グラブスキ(S.Grabski)は、7月1日、国家元首、議会(セイム)議長、首相、閣僚3人、軍代表3人、大使10人から成る国防会議に全権を委任した。ポーランド政府の要請により西側の外交官が始めた予備交渉は、ソ連側の拒否にあった。グラブスキ内閣は総辞職し、W.ウィトス(W. Witos)が新首相となった。
ソ連は、7月28日、占領したポーランド地域に共産政権であるポーランド臨時革命委員会(Tymczasowy Komitet Rewolucyjny Polski)を樹立したが、住民の支持を受けなかったために、成功はしなかった。
リトアニアは反ポーランドの姿勢であり、ソ連の圧力と、ビリニュスの確保の目的のために1919年7月にソ連側で参戦した。
フランスは軍事顧問団を派遣するなど、ポーランドを支援していた。1920年にポーランドが危機に陥ると、フランスとイギリスはさらにウェイガン将軍を軍事顧問として派遣した。
[編集] ヴィスワ川の奇跡
1920年8月10日より、赤軍のコサック部隊によるワルシャワ包囲のための行動が開始された。トゥハチェフスキー率いる赤軍北西正面軍は、ワルシャワの北部にポーランド軍部隊が少ないことから、主力を北部に集中させ、北西正面軍の左翼は兵力を薄くし、プジョーンヌイの第一騎兵軍にカバーしてもらう心積もりであった。赤軍司令部は、トゥハチェフスキーの要請に従い、第一騎兵軍に北上するように命じたものの、北西正面軍と南西正面軍の指揮官間の不仲や南西正面軍政治顧問のスターリンの思惑により、第一騎兵軍はワルシャワではなく、リヴィフの攻略を継続することとなった。
ヴワディスワフ・シコルスキ将軍率いるポーランド第5軍は、8月14日にワルシャワの北にあるモドリンから出撃し、一日あたり30キロ以上の迅速な機動を行い、赤軍の攻撃を足止めした。その間に、ユゼフ・ピウスツキ指揮下の5個歩兵師団、1個騎兵旅団から成る機動部隊は、第1騎兵軍がカバーしなかったことから生じた、赤軍の北西正面軍と南西正面軍との間の間隙に進撃し、北西正面軍の包囲にかかった。
包囲を恐れたトゥハチェフスキーは軍に撤退を命じた。赤軍は打撃を受け、ブーク川の東まで撤退した。ポーランド側はこの勝利を、「ヴィスワ川の奇跡」として喧伝した。
8月17日には、赤軍のリヴィフへの進撃が停止した。8月29日から31日にかけて、第一騎兵軍もリヴィウの北、ザモシュチュでポーランド騎兵部隊と戦闘を行い、敗退する。9月6日の戦闘でも敗退し、東方のヴラジミルボルィンスキ方向へ撤退した。
トゥハチェフスキーは赤軍の部隊を再編成し、9月にはグロドノ付近に戦線を構築することに成功した。ポーランド軍はニーメン川付近の戦闘で赤軍を撃破し、さらに東方への進撃を続けた。
10月半ばに至り、ポーランドがベラルーシの首都ミンスク近郊まで進撃するにいたり、ソビエト政府は和平を提案、10月12日に停戦条約であるリガ条約に調印、18日に発効した。
[編集] 結果
ポーランド政府は、ロシア・ソビエト政府とウクライナ・ソビエト政府との間にリガ条約を締結したが、これはポーランド政府がウクライナ・ソビエト政府をウクライナの代表政府として認めたということを意味するものであった。これは、ペトリューラがポーランドとの共同戦線を張る際に結んだ「ウクライナ民族共和国をウクライナを代表する唯一の政府として認める」という協定に一方的に違反したものであった。ここにおいて、ウクライナ中央ラーダから続くウクライナ民族共和国は終焉を迎えた。なお、リガ条約当時ロシアとウクライナには独立してソビエト政府が存在していた。当時ポーランドに亡命していたペトリューラは、この裏切りのためパリへ亡命を余儀なくされたが、その後、1924年同地でソ連のスパイによって暗殺された。
ソビエト政府は軍事的な敗北をしたこともあって、領土面で大幅にポーランドに譲歩し、ベラルーシおよびウクライナの西部(ガリツィア)はポーランド領となった。ポーランドも消耗していたため、和平を結ぶことには同意していた。しかし、これは個別和平を結ばないとする、ウクライナ人勢力との軍事同盟に反するものであった。このことは、後にソ連のプロパガンダに利用されることとなった。
この戦争を見聞したシャルル・ド・ゴールなどは、次の戦争の形態を正確に予測するに至った。ポーランド政府は、この戦争の経験から騎兵部隊を重要視し、その練成を積極的に行うこととなった。ただし、この騎兵部隊は1939年のドイツとの戦争において、ドイツ軍戦車を相手に敗北を喫することとなる。
なお、約20年後の第二次世界大戦の結果、ポーランドの東側領土は大幅に縮小し、一次大戦後に得た領土はすべてソ連領(ウクライナ・ソビエト社会主義共和国及び白ロシア・ソビエト社会主義共和国領)となり、ソ連崩壊後は独立したベラルーシやウクライナ領となっている。しかしながら、ポーランドとロシアによる分割統治により、ウクライナには2005年現在も旧ポーランド領の西ウクライナの独立主義や民族主義などの問題が残されている。また、一次大戦後は独立を得たリトアニア、ラトヴィア、エストニアも二次大戦時にソ連に併合され、約60年後に他共和国に先駆けてソ連より独立するまでソ連政府の支配を受けることとなった。
[編集] 関連項目
- ポーランド・ソビエト・リガ平和条約
- 第一次世界大戦
- ロシア革命
- ロシア内戦
- ウクライナ内戦
- ウクライナ・ソビエト戦争
- ウクライナ・ポーランド戦争
[編集] 外部リンク