マウリシオ・グージェルミン
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F1での経歴 | |
国籍 | ![]() |
活動年数 | 1988 - 1992 |
所属チーム | マーチ, レイトンハウス, ジョーダン |
出走回数 | 80 |
タイトル | 0 |
優勝回数 | 0 |
通算獲得ポイント | 10 |
表彰台(3位以内)回数 | 1 |
ポールポジション | 0 |
ファステストラップ | 1 |
F1デビュー戦 | 1988年ブラジルGP |
初勝利 | - |
最終勝利 | - |
最終戦 | 1992年オーストラリアGP |
マウリシオ・グージェルミン(Mauricio Gugelmin, 1963年4月20日 - )はブラジル出身の元F1ドライバー。サンタ・カタリナ州ジョインヴィレに生まれ、パラナ州クリチバ市にて、同州でスーパーマーケットのチェーンを経営する実業家の父の下、裕福な家庭で育った。
現在はアメリカに住み、植林事業を営んでいる。
目次 |
[編集] F1時代
1988年のブラジルGPでマーチからデビューし、80レースに出走した。マーチのマシンは多くの場合「速いが脆い」特性を持っていたため、彼とチームメイトのイヴァン・カペリは予選では上位につけたが、決勝ではしばしば問題を抱えた。
1989年、フランスGP、このレースではスタート直後に大クラッシュが発生し、これに巻き込まれたグージェルミンの車体は宙を舞って横転して しまう。再スタートとなったレースでは快走を見せ、結果的にはリタイアとなったが、自身にとってF1で唯一のファステストラップを記録した。
1990年、マーチのメインスポンサーであったレイトンハウスが前年にチームを買収したことで、この年よりコンストラクター名がレイトンハウスとなる。
この年もフランスGPで事件が起きた。当初レースはほぼスタート時のグリッド通りに順当に推移したが、他チームがタイヤ交換のためピットインする中、レイトンハウスはタイヤ無交換作戦という奇策に打って出た。これにより、グージェルミンは2位を走行し、フェラーリのアラン・プロスト、マクラーレンのゲルハルト・ベルガーらの追撃をしのいだ。最終的に、元々信頼性にやや難があったジャッドエンジンが限界となり、プロストに抜かれたところでエンジンが壊れリタイアした。
グージェルミンは翌年まで在籍したが、レイトンハウスチームでの入賞は1990年のベルギーGPのみにとどまった。
1992年にはジョーダンに移籍し、結局それが彼の最後のF1シーズンとなった。F1においては、1989年に母国ブラジルで記録した1回の3位表彰台を最高位に4回の入賞を果たし、通算10ポイントを獲得した。
[編集] CART時代
グージェルミンは、1993年から2001年までチャンプカー(CART)に出走した。 主にブルース・マッコウのパックウエストチームに所属し、同じく元F1ドライバーのマーク・ブランデルをチームメイトとした。 1997年のバンクーバーで唯一の勝利を記録し、その年の選手権では最終的に総合4位となった。
この間、グージェルミンは1997年のカリフォルニア・スピードウェイで行われたレースの予選で、1周の平均時速で240.942マイル(387.7586km)を記録し、公式な自動車レースの中の1周における最高速度記録を樹立した。この記録は2000年に同じカリフォルニアで241.428マイル(388.5407km)という新記録を樹立したジル・ド・フェランによって破られたものの、グージェルミンは一時的に「世界最速のカーレーサー」となった。
2001年、この年グージェルミンは長年病魔と闘っていた息子の死というショッキングな出来事に会い、翌年、チャンプカーの開幕を前にその年の選手権に出場しない旨を表明し、レース活動からも引退した。
[編集] 成績
[編集] F1
太字は選手権ポイントを獲得したレースを表す。
年 | 所属チーム | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1988年 | マーチ | BRA | SAN | MON | MEX | CAN | USAE | FRA | GBR | DEU | HUN | BEL | ITA | POR | SPA | JPN | AUS |
1989年 | マーチ | BRA | SAN | MON | MEX | USA | CAN | FRA | GBR | DEU | HUN | BEL | ITA | POR | SPA | JPN | AUS |
1990年 | レイトンハウス | USA | BRA | SAN | MON | CAN | MEX | FRA | GBR | DEU | HUN | BEL | ITA | POR | SPA | JPN | AUS |
1991年 | レイトンハウス | USA | BRA | SAN | MON | CAN | MEX | FRA | GBR | DEU | HUN | BEL | ITA | POR | SPA | JPN | AUS |
1992年 | ジョーダン | SAF | MEX | BRA | SPA | SAN | MON | CAN | FRA | GBR | DEU | HUN | BEL | ITA | POR | JPN | AUS |
[編集] CART
年 | 所属チーム | ランキング | 獲得ポイント | 最高位 |
---|---|---|---|---|
1993年 | ディック・シモン・レーシング | - | 0pt | 13位(ラグナセカ) |
1994年 | チップ・ガナッシ・レーシング | 16位 | 39pt | 5位(バンクーバー) |
1995年 | パックウエスト・レーシング | 10位 | 80pt | 2位(マイアミ) |
1996年 | パックウエスト・レーシング | 14位 | 53pt | 2位(ミシガン) |
1997年 | パックウエスト・レーシング | 4位 | 132pt | 優勝(バンクーバー) |
1998年 | パックウエスト・レーシング | 15位 | 49pt | 4位(ミドオハイオ) |
1999年 | パックウエスト・レーシング | 16位 | 44pt | 4位(バンクーバー) |
2000年 | パックウエスト・レーシング | 17位 | 39pt | 2位(ナザレス) |
2001年 | パックウエスト・レーシング | - | 17pt | 7位(トロント) |
[編集] グージェルミン一家
グージェルミンの家系はマウリシオの曽祖父の代から車好きの一族を成しており、マウリシオ・グージェルミンの父、アルセウ・グージェルミン(Alceu Gugelmin)は地元ではクラシックカーのコレクターとして有名な人物の一人である。
その3人の息子たちも、幼い頃からそんな家庭で育ったために早くから車に興味を示すようになり、末っ子だったマウリシオは特に車への関心が高く8歳の時にすでに車の運転を覚えていた、と、後にマウリシオ本人やアルセウらが語っている。
レースから引退して後、出身地であるクリチバ市内にある自動車博物館に、マウリシオ・グージェルミンについての常設展示としてCART時代の写真や最高速度記録を樹立した時の写真パネルなどが展示されるようになった。この博物館には設立当時、グージェルミンの一家が所蔵していた15台のコレクションからその内の14台が寄付されている。
[編集] グージェルミン、語る
自身の公式サイトで、自身にとって最も印象に残っているレースとして、1997年のバンクーバーでの優勝と同年のフォンタナにおける最高速度の世界記録の樹立を、最も驚いた瞬間として1989年フランスGPの事故を挙げている。