ミカ・サロ
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F1での経歴 | |
国籍 | ![]() |
活動年数 | 1994 - 2000 , 2002 |
所属チーム | ロータス, ティレル, アロウズ, BAR, フェラーリ, ザウバー, トヨタ |
出走回数 | 109 |
タイトル | 0 |
優勝回数 | 0 |
通算獲得ポイント | 33 |
表彰台(3位以内)回数 | 2 |
ポールポジション | 0 |
ファステストラップ | 0 |
F1デビュー戦 | 1994年日本GP |
初勝利 | - |
最終勝利 | - |
最終戦 | 2002年日本GP |
ミカ・サロ(Mika Salo, 1966年11月30日 - )は、フィンランド出身の元F1ドライバー。
[編集] プロフィール
1990年にイギリスフォーミュラ3に参戦。同郷のミカ・ハッキネンと最後までタイトルを争う。
1991年から全日本F3000選手権に活躍の場を移した。
1994年シーズンの終盤戦に、財政難に陥ったロータス・無限ホンダは、ヨーロッパGPを前に、ジョニー・ハーバートをリジェチームへ移籍させ、交換の形でエリック・ベルナールを加入させたが、わずか1戦のみでそのシートに収まり、日本GPからF1デビューを果たしたのが全日本F3000で好成績を収めていたミカ・サロであった。
サロは翌1995年に、母国の通信会社ノキアを持ち込み、前年大活躍を見せたティレルへ移籍。チームメイトの片山右京を圧倒する成績をマークするようになる。
1998年にアロウズへ移籍するが、翌シーズンを前に、自らシート争奪戦から身を引いてレギュラーシートを失っていた。
しかし、この1999年はサロのF1キャリアの中で最も注目を浴びるシーズンとなった。
まず、ブラジルGPでクラッシュして欠場を余儀なくされたリカルド・ゾンタの代役として3レースに出場し、このシーズン全くの不振に終わったBARチームのシーズン最高位(7位)を記録。
そして、イギリスGPでミハエル・シューマッハが負傷すると、またしても代役としてフェラーリのシートを得ることになった。ドイツGPではレース中盤にキャリア初の首位走行を果たすも、チャンピオン争い中のエディ・アーバインにチームオーダーでその座を譲った為に初優勝の夢は消えてしまうが、自己最高位の2位を得た。その後、イタリアGPでも3位で表彰台を獲得。
翌2000年は、フェラーリとのコネクションを継続させることを意図し、ザウバーチームに移籍するが、チャンスが少ないと見るや、2001年には翌2002年から参戦することを発表したトヨタの為に、1年間アラン・マクニッシュとともにテストを担当した。ミカ・サロは日本在住の経験があり、日本人女性と結婚していたことから日本語でのコミュニケーション能力が非常に高かった。(少なくともヒアリングについては全く問題ないという証言が多数を占める)。このためF1に参戦したばかりであり、少なくない日本人スタッフが混じっていたトヨタにとっては非常にありがたい存在であった。
満を持してF1復帰を果たした2002年は開幕戦のオーストラリアGPでいきなり6位入賞し、デビュー戦でトヨタに初ポイントをもたらす活躍を見せたが、翌年のシートを得ることはできず、F1から引退することとなった。
同郷で年齢の近いミカ・ハッキネンは、生家も近く、若い頃からライバルとしてしのぎを削っていたが、2度のチャンピオンに輝いたハッキネンとF1でのキャリアに大きな差がついてしまったのは、F1キャリアにおいて適切なタイミングで適切なシートを得ることがいかに重要であるかということを示している。
F1引退後の2003年にはCARTで4レースに参戦し、マイアミで3位を記録している。
2005年WRCフィンランドラリーでは、コースの試走を行うドライバーとして走行した。試走行車両にもかかわらずかなりのハイペースで走行していたため地元ファンから大きな声援を浴びている。フィンランドでは元レーシングドライバーがラリー走行をするのはまれなことではなく、過去にはケケ・ロズベルグやミカ・ハッキネンらもグラベルを走行したことがある。