エディ・アーバイン
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F1での経歴 | |
国籍 | ![]() ![]() |
活動年数 | 1993 - 2002 |
所属チーム | ジョーダン, フェラーリ, ジャガー |
出走回数 | 146 |
タイトル | 0 |
優勝回数 | 4 |
通算獲得ポイント | 191 |
表彰台(3位以内)回数 | 26 |
ポールポジション | 0 |
ファステストラップ | 1 |
F1デビュー戦 | 1993年日本GP |
初勝利 | 1999年オーストラリアGP |
最終勝利 | 1999年マレーシアGP |
最終戦 | 2002年日本GP |
エディ・アーバイン(Edmund "Eddie" Irvine, 1965年11月10日 - )は、イギリス出身の元F1レーサー。
目次 |
[編集] 略歴
[編集] 全日本F3000
北アイルランド生まれ。イギリスF3選手権などで活躍した後、1989年に国際F3000でパシフィックレーシングから参戦し、1990年にEJR(エディー・ジョーダン・レーシング)へ移籍して活躍した後に1991年に全日本F3000へ参戦する。
[編集] F1へ
外国人ドライバーが悩む「タイヤ」の使い方をマスターして1993年に星野一義と壮絶なチャンピオン争いをしたその走りが評価され、1993年F1日本グランプリでジョーダンのシートを与えられる。そのデビュー戦で6位入賞を果たし、実力を世界に知らしめる。
前述の1993年日本グランプリ決勝直後、レース中に周回遅れのアーバインがラップリーダーのアイルトン・セナに対し道を譲らなかったこと(ただし、このときアーバインは6位争いをしておりデイモン・ヒルを激しく攻め立て攻略寸前という状況であり、スポット参戦のデビュードライバーとしては情状酌量の余地がある)、およびファイナルラップに勝利を確信しクルージングラップ中にパッシングされたことにクレームを付けに来た(これについても、同一周回にする事で順位を上げる可能性が増える事もあり、またセナが一方的にペースを落としていた事から、本来非難されるいわれはない)セナに殴打されかかるという事件があった。なお、この事件は周囲の懸命な制止により未遂であるにもかかわらず、アーバインは「セナに殴られた」と触れ回ったため、新聞には「セナ、アーバインにパンチ」という見出しなどで掲載された。かつてはセナに憧れ、自らのヘルメットもセナのデザイン(ブラジル国旗をモチーフとしたもの)を真似ていたが、この事件以前にセナから「意匠権の侵害である」とクレームを付けられたこともあり、関係が悪化していた。
翌年からジョーダンのレギュラードライバーとなるが、ブラジルGPでの多重クラッシュの原因となったとされ3レースの出場停止を言い渡される(この処分は他の同様の例に比べると重いものだったため、前年にセナとの問題でFIA法廷に被害者として出廷した際のアーバインの態度がきわめて不遜かつ無礼なものであった事に対し、FIAが灸を据えたのではないかとも言われている)。若手のホープとして嘱望されていたルーベンス・バリチェロを上回ることも多く、速いことは認められていたものの、歯に衣着せぬ物言いで他のドライバーの悪口をうっかり口にしてしまうなど悪い癖もあり、当初は危険なドライビングをするドライバーという印象が定着していた。
[編集] フェラーリへ
1995年後半ジョーダンはアーバインの来季残留の契約がまとまったことを早々に明らかにしていたが、金銭トレードの形で翌年はフェラーリに移籍することが急遽発表され、関係者とファンを驚かせる。1996年以降、ミハエル・シューマッハのチームメイトとなり、サポート役に徹する。1997年にはシューマッハとジャック・ヴィルヌーヴのチャンピオン争いにおいて、ヴィルヌーヴを牽制する汚れ役をこなし、その仕事師ぶりから「ベスト・セカンドドライバー」と称された(ヴィルヌーヴは日本での活動時に六本木で遊んで以来の友人でもあった)。
1999年には開幕戦でF1初優勝を遂げたが、立場的にナンバー2扱いは変わらなかった。しかし、イギリスGPでシューマッハが大クラッシュを起こし長期戦線離脱を余儀なくされると、エースの代役としてチームのサポートを受けチャンピオン争いに加わることになる。翌オーストリアGPで優勝し、続くドイツGPではシューマッハの代役として参戦していたミカ・サロからチーム・オーダーにより優勝を譲られたことで連勝を果たし、ポイントリーダーだったミカ・ハッキネンを抜きタイトル争いをリードする。最終戦を残した時点で獲得ポイントでトップに立っていたが、第15戦マレーシアGPより復帰したミハエル・シューマッハの露骨な援護にもかかわらず、結局最終戦日本GPにてハッキネンに逆転を許し、ランキング2位に終わる。あわや、ポールポジション獲得の無いチャンピオンが誕生しかけたシーズンだった。この年限りでフェラーリを離脱するが、ミハエル・シューマッハ中心主義の体制に不満があったとのちに公言している。
[編集] ジャガー
2000年からはジャガーと3年契約を結び参戦する。チームにちなみヘルメットをジャガーのデザインに変えるなど意気込みを見せたが、マシンの開発が進まず低迷。思うような走りは出来なかったが、2001年のモナコGP、2002年のイタリアGPで3位入賞。このレースではフェラーリが1-2フィニッシュを達成しており、元フェラーリであるアーバインが共に表彰台に上ったことで、イタリアのファンは更に盛り上がった。 3年契約の最終年の2002年をもってチームを放出される。シーズン終了後、一時「来期はジョーダンで走る」と言われたが契約が破談し、2002年限りで引退した。
[編集] 引退後
引退後、アメリカ・マイアミに住居を構える。現役時代より不動産などの投資に長けており、現時も投資を続けている。その資産は、日本円で180億円とも言われる。また、映画の脇役で銀幕デビューも果たしている。
2003年にはイギリス国内でスクーターによるスピード違反で検挙されるも警察に出頭せず、逮捕されたとの噂も広まった。2005年には、F1への新規参入チームを巡るニュースでアーバインの名が取り上げられたが、実現はしなかった。
[編集] アイルランド国旗問題
アーバインはイギリス(連合王国)に属する北アイルランドの出身であるが、自らはアイルランド人であるというアイデンティティが強く、1995年カナダGPで初めてF1の表彰台に登ったときにアイルランド国旗を掲揚した(これは主催者側が用意したものではなくアーバイン自身が持参もしくはアイルランド人オーナーのエディ・ジョーダン側が用意したものと言われている)。
これがユニオニスト(プロテスタント派の過激組織。ロイヤリストとも)の逆鱗に触れ、殺害予告をされるほどの問題になった。この時以来、アーバインは自らがイギリス国民であると公称し、表彰式の際もイギリス国旗を掲揚するようになった。