ロベルト・モレノ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
F1での経歴 | |
国籍 | ![]() |
活動年数 | 1987, 1989 - 1992, 1995 |
所属チーム | AGS, コローニ, ユーロブルン, ベネトン, ジョーダン, ミナルディ, アンドレア・モーダ, フォルティ |
出走回数 | 41 |
タイトル | 0 |
優勝回数 | 0 |
通算獲得ポイント | 15 |
表彰台(3位以内)回数 | 1 |
ポールポジション | 0 |
ファステストラップ | 1 |
F1デビュー戦 | 1987年日本GP |
初勝利 | - |
最終勝利 | - |
最終戦 | 1995年オーストラリアGP |
ロベルト・モレノ(Roberto Moreno、1959年2月11日 - )は、ブラジル・リオデジャネイロ出身の元F1ドライバー。1988年には国際F3000のシリーズチャンピオンを獲得するなど実力には定評があるものの、スポンサーや運に恵まれず、F1においては多くの弱小チームを転々としたことで知られる。
年齢の割には頭髪が薄く、1990年日本GPでネルソン・ピケとベネトン&ブラジリアン1-2フィニッシュを決めた際の2人の抱擁シーンでは「どちらが年上かわからない」とスポーツ誌に茶化されたこともある。
目次 |
[編集] 略歴
1974年にカートレースを始め、1979年にはイギリスに渡りフォーミュラ・フォードに挑戦。1981年にはイギリス国内のフォーミュラ・フォード選手権チャンピオンとなり、翌1982年にイギリスF3にステップアップ。同年のオランダGPでロータスからF1参戦を果たすもののあえなく予選落ちする。以後しばらくの間F2やCART、F3000など様々なカテゴリーを掛け持ちする生活が続く。1985年には来日して全日本F2選手権にシーズン途中から参戦したこともある。
1987年の日本GPでAGSよりF1に復帰(記録上はこれが初の予選通過である為、「F1デビュー」となる)。翌1988年にはフェラーリのテストドライバーとなり、翌年より全面施行される3.5リッター・NAエンジン規定に向けた先行開発マシン・フェラーリ639の開発を任される。ジョン・バーナードがデザインした同マシンは、現在ではF1界のスタンダードとなっているセミオートマチックトランスミッション(パドルシフト)を搭載するなど、多くの新機軸が盛り込まれたマシンだった。その際、モレノはプレスに一言もリップサービスすることなく、黙々と仕事をし、これがバーナードが信頼を寄せるきっかけとなったと言われている。モレノは同マシンの開発を行う傍ら並行して国際F3000選手権に参戦し、独走で同シリーズのチャンピオンを獲得する(シリーズ2位がオリビエ・グルイヤール)。
そして1989年コローニから初めてのF1フル参戦、しかしマシンは速さが決定的に欠けており、シーズン後半は予備予選組に転落、結局予選を通過したのはこの年4回のみだった(完走ゼロ)。翌1990年にはユーロブルンに移籍するが、予備予選を通過するのにも四苦八苦するという状態は変わらず、チームも資金不足のため日本GPを含む終盤2戦の参戦を断念。モレノはF1のシートを失った。
ところが日本GP直前、ベネトンのアレッサンドロ・ナニーニがヘリコプターの墜落事故で右腕を切断するというアクシデントが発生。急遽ベネトンは代わりのドライバー探しを余儀なくされるが、この頃フェラーリからベネトンに移籍していたジョン・バーナードが旧知の仲のモレノに白羽の矢を立て、モレノはベネトンのシートを獲得。モレノはその期待に応え、日本GPでネルソン・ピケに次ぐ2位に入り、ベネトンは1-2フィニッシュを達成した。
ちなみに日本GPの決勝終了後の記者会見では、日本人として初めてF1の表彰台に上った鈴木亜久里が「僕は前の年、毎レース金曜の朝8時から9時まででレースが終わってしまってばかりで…」と語っているところに、自らも予備予選落ちを繰り返していた経験を踏まえ「I know this feeling!」と合いの手を入れて、報道陣を大爆笑の渦に巻き込んだ。
前年の助っ人から翌1991年はベネトンのレギュラーシートに座り、ようやく実力に見合ったシートを得たと思われたが、シーズン半ばでモレノの後ろ盾だったジョン・バーナードがベネトンを離脱した影響もあってか、ベルギーGPでミハエル・シューマッハがジョーダンで鮮烈なデビューを飾ると、ベネトンはシューマッハを強引に引き抜き、モレノを放出。モレノはベネトンチームからの違約金を持ち込んでジョーダンに移るが、そのシートもたった2戦でアレッサンドロ・ザナルディに奪われてしまう。最終戦オーストラリアGPでは、度重なるチーム批判の結果フェラーリを解雇されたアラン・プロストの代役を、当時フェラーリのテストドライバーを兼務していたミナルディのジャンニ・モルビデッリが務めることとなった為、その代役としてモレノは1戦のみミナルディのシートを得たが、またしても元の流浪のドライバー生活に戻ってしまった。
F1浪人となった1992年だが、アレックス・カフィ、エンリコ・ベルタッジアというレギュラードライバーを1戦も走らせず解雇したアンドレア・モーダ(旧コローニ)に加入、しかし予選通過はモナコGPの1回のみに終わった(とは言え、アンドレア・モーダは予選通過はおろか予備予選通過も不可能といわれていたマシン/チームで、この予選通過は奇跡と言われた)。そのアンドレア・モーダはイタリアGPにおいてFISA(国際自動車スポーツ連盟、現在は国際自動車連盟(FIA)に吸収される)より参戦禁止処分を受けF1から追放、モレノもそれによりまたF1シートを失う。
その後はイタリアやフランスでツーリングカーレースに参戦しながらF1復帰のチャンスをうかがい、1995年には経験を買われてこの年から新規参戦したフォルティコルセより3年ぶりにF1に復帰。関係者から多いに祝福されたが、例によって弱小チーム故マシンも遅く、参戦チーム数の減少により予選落ちこそなくなったものの、チームメイトのペドロ・ディニスの裏方に徹し目立たない1年となった(最高位はオーストラリアGPの8位)。結局モレノはこの年を最後にF1引退を表明した。
余談であるが、1995年の日本GPの予選中にヘアピンカーブでマシンが止まった際、「ロベルトー!」「モレノー!」と観客から数多くの黄色い声援が飛んだ。モレノもそれに応じ、にこやかに手を振った。彼がいかに日本のファンに愛されていたかを物語るエピソードである。
[編集] カーナンバー(F1)
- 12(1982年第9戦)
- 14 (1987年第15.16戦)
- 31 (1989年)
- 33(1990年第1~14戦)
- 19 (1990年第15戦~1991年第11戦)
- 32(1991年第12.13戦)
- 24 (1991年第16戦)
- 34(1992年第3~7.9~12戦)
- 22(1995年)
[編集] F1後
モレノは翌1996年より本格的にアメリカに活動拠点を移し、ペイトン・コインよりCARTへ参戦する。しかし翌1997年以降はなかなか安定したシートは得られず、専ら「スーパーサブ」として、ドライバーの怪我などでシートに空きの出たチームからレースに出走することが多かった。2000年には久々にパトリック・レーシングよりレギュラー参戦を果たし、クリーブランドで優勝。2001年はバンクーバーで優勝を飾っている。ただその後は成績は低迷し、2003年シーズンを最後にチャンプカー(CARTより改称)から撤退した。
その後2005年よりアメリカのスポーツカーレースであるグラン・ダムシリーズに参戦する一方、インディ・レーシング・リーグ(IRL)に参戦するエド・カーペンターのコーチを務めていたが、2006年3月にマイアミで行われたIRLの開幕戦でカーペンターとポール・ダナが接触し、ダナが死亡、カーペンターが怪我を負ったことから、次戦では急遽モレノがカーペンターの代役としてIRLに参戦することになった。急なスポット参戦だったが予選11位、決勝10位の結果を残し、「まだまだやれる」との評価を受けている。
[編集] 関連項目
- ガブリエル・タルキーニ(モレノ同様、実力が評価されながらF1ではチームに恵まれなかった例として挙がることが多い)
- モータースポーツ
- ドライバー一覧
- F1ドライバーの一覧