中安閑一
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中安 閑一(なかやす かんいち、1895年4月5日 - 1984年1月31日)は、山口県宇部市生まれ。朝鮮セメント常務、産業機械統制会理事技術部長、宇部興産会長等を歴任し、日本財界の雄として活躍した日本の実業家。戦後日本を代表する経済人の一人。勲一等旭日大綬章。宇部小学校―山口中学校(現・山口県立山口高等学校)―東京高等工業学校(現在東京工業大学)卒業。
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[編集] 略歴
- 1885年 山口県宇部市に生まれる。
- 1909年 宇部尋常高等小学校卒業
- 1914年 山口中学校卒業。
- 1915年 東京高等工業学校入学。
- 1918年 東京高等工業学校機械科卒業、三菱重工神戸造船所(現在三菱重工業)入社。
- 1923年 宇部セメント製造(株)(現在宇部興産)に転じる。
- 1934年 宇部セメント製造(株)(現在宇部興産)専務取締役就任。
- 1936年 朝鮮に進出。朝鮮セメント(株)常務取締役に就任。
- 1942年 産業機械統制会理事技術部長に就任。
- 1944年 宇部興産(株)専務取締役就任。
- 1944年 宇部船渠(株)取締役就任。
- 1949年 日興石油(株)取締役就任。
- 1950年 サンデン交通(株)取締役就任。
- 1950年 宇部スレート工業(株)取締役就任。
- 1950年 宇部貿易(株)取締役就任。
- 1952年 宇部商工会議所会頭就任。
- 1952年 宇部興産(株)代表取締役副社長就任。
- 1952年 宇部化学工業(株)取締役就任。
- 1955年 日本商工会議所常議員就任。
- 1955年 経済審議会専門委員就任。
- 1958年 宇部興産社長に就任。
- 1958年 日本経営者団体連盟常任理事就任。
- 1958年 山口放送(株)取締役就任。
- 1958年 経済団体連合会理事就任。
- 1958年 石炭鉱業審議会委員就任。
- 1959年 日本国有鉄道中国支社評議員会委員就任。
- 1959年 九州地方開発審議会委員就任。
- 1959年 藍綬褒章受賞。
- 1959年 宇部ゴルフ観光(株)代表取締役社長就任。
- 1959年 笠戸船渠(株)相談役就任。
- 1961年 中国地方開発審議会委員就任。
- 1963年 宇部興産飲料(株)取締役就任。
- 1963年 宇部サイコン(株)代表取締役社長就任。
- 1963年 (株)毎日西部会館取締役就任。
- 1964年 丸善石油化学(株)取締役就任。
- 1964年 日本硫安工業協会会長就任。
- 1964年 日本硫安輸出(株)社長就任。
- 1964年 関西石油化学(株)社長就任。
- 1965年 大阪石油化学(株)社長就任。
- 1965年 勲二等瑞宝章受賞。
- 1965年 富士車輌(株)代表取締役会長就任。
- 1965年 山口空港ビル(株)取締役就任。
- 1966年 宇部日東化成(株)代表取締役社長就任。
- 1966年 宇部不動産(株)代表取締役社長就任。
- 1967年 西部石油(株)取締役会長就任。
- 1968年 東洋ホテル(株)取締役就任。
- 1969年 テレビ山口(株)代表取締役社長就任。
- 1969年 宇部アンモニア工業(株)代表取締役社長就任。
- 1969年 千葉ブタジエン工業(株)代表取締役会長就任。
- 1970年 宇部電気化学(株)代表取締役社長就任。
- 1970年 (株)みどり会取締役就任。
- 1971年 宇部合成ゴム(株)代表取締役社長就任。
- 1972年 勲一等瑞宝章叙勲
- 1973年 宇部製鋼(株)代表取締役社長就任。
- 1973年 東洋石油開発(株)取締役就任。
- 1976年 琉球セメント(株)代表取締役会長就任。
- 1976年 窯業協会功労賞受賞
- 1977年 宇部興産会長に就任。
- 1977年 宇部鋳鍛鋼(株)取締役就任。
- 1977年 中国通信サービス(株)取締役就任。
- 1978年 ウベ・インダストリーズ・アメリカ・インコーポレイテッド取締役会長就任。
- 1978年 宇部中四国ボトリング(株)取締役就任。
- 1979年 防長商事(株)取締役就任。
- 1979年 (株)福島製作所取締役就任。
- 1980年 宇部シー・アンド・エー(株)代表取締役会長就任。
- 1981年 宇部興産相談役に就任。
- 1981年 宇部市特別功労者表彰。
- 1982年 宇部興産ビル(株)代表取締役社長就任。
- 1982年 宇部全日空ホテル(株)取締役会長就任。
- 1982年 燃料協会功績賞受賞。
- 1984年 宇部商工会議所特別功労者表彰。
[編集] エピソード
- 1947年、過度経済力集中排除法が敷かれ、宇部興産は準財閥に指定された。これにより、GHQのアンチトラスト課から分社化の指示を受ける(いわゆる財閥解体)が、俵田明(当時宇部興産社長)と共にこれに抗議。翌1948年、指定を解かれる。その後もGHQにより宇部窒素工場が生産効率の悪さを指摘され、生産中止を命令されるが、業務改善の為のテスト期間を獲得。無事に業務を改善し、生産の継続を認められた(テスト期間に改善出来なければ、巣鴨拘置所へ拘留されることになっていた)。
- 岸信介(農商務官僚、第56、57代内閣総理大臣)は、山口中学時代からの親友。太平洋戦争時には、岸の勧めにより産業機械統制会理事技術部長に就任。戦争終結後、岸がA級戦犯容疑者として巣鴨拘置所に拘留されると、宇部興産の東京支社に岸救援本部を設置し、岸釈放を支援した。また、岸信介の長男、岸信和(当時宇部興産社員、後に西部石油会長、顧問、内閣総理大臣秘書官)の結婚式の際には仲人を務めた。
- 中安は山口中学を卒業した後、岸信介らと上京する。岸は直ぐに養子に行き結婚していた。若い夫婦ではあったが経済的には豊かであったという。独身の中安は金欠になると岸のところに行き、いつもお金を借りていたという。あるとき、例によって岸の家へ金を借りに行くと、めずらしく金がなかった。そこで岸は「ちょっと待て」と言い、奥のタンスから奥さんの綺麗なよそいきの着物を取り出して「これを質屋に持って行け」と中安に手渡した。岸の友情にホロリときて、風呂敷に着物を包んでいるところに、玄関の扉が空き奥さんが帰宅してしまった。「私の着物をどうなさるの」岸がどう弁解するかハラハラした中安。すると岸は「お前は知らんだろうけど、この着物は質屋というところに、持って行き金を借りるんだ。庶民金融の代表みたいなもので、大したものなんだ。貧乏人には有難いところだ。お前、何も言わずこらえてくれ。人助けだ。」と言い、夫人もただ一言「ハイ。」と言ったという。このエピソードからは岸夫妻の人柄、並びに中安との厚い友情が読み取れる。後に中安は顔が火照る思いだったと回顧録の中で回想している。
- 岸信介はその自叙伝『我が青春』の中で中安のことを学生の時は悪戯者と評しており、駆け足の時等に足をからまされて転ばされた記憶が残っていると記している。その後東京で一緒に受験勉強をし、旧制一高から帝国大学にかけての時代で最も親しく往き来したものであり、中安が宇部市に帰ってから今日迄公私共に極めて関係が深かったと回顧している。
- また、岸信介の実弟である佐藤栄作(鉄道官僚、第61、62、63代内閣総理大臣)とも懇意であった。テレビ山口設立の際に、中安に取りまとめ役になるよう求めたのは佐藤であった。その後、中安はテレビ山口の初代社長に就任。
[編集] 栄典・表彰
[編集] 著書・参考文献
[編集] 関連項目
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