九七式中戦車
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靖国神社でのチハ |
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九七式中戦車 | |
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性能諸元 | |
全長 | 5.55 m |
車体長 | m |
全幅 | 2.33 m |
全高 | 2.23 m |
重量 | 15 t |
懸架方式 | 独立懸架および シーソー式連動懸架 |
速度 | 38 km/h |
行動距離 | 210 km |
主砲 | 九七式57㎜18.5口径戦車砲 |
副武装 | 7.7㎜九七式車載重機関銃×3 |
装甲 | 25 mm |
エンジン | 4ストロークV型12気筒 空冷ディーゼル 170 馬力 |
乗員 | 4 名 |
九七式中戦車チハは日本陸軍が使用していた戦車。八九式中戦車にかわる新たな主力戦車として、三菱重工業が開発したものである。「チハ」とは、中戦車(「チ」)として3番目(イ、ロ、「ハ」)に開発されたことを示している。1939年のノモンハン事件で初陣を飾った。
目次 |
[編集] 概要
1936年から開発が開始され、競争試作のチニ車を破って1937年に制式採用された。車体の前部に砲塔を持ち、砲塔搭載の主砲と機銃が反対方向に付けられている。
ガソリンエンジンが主流だった当時に空冷ディーゼルエンジンを搭載していることが大きな特徴である。ディーゼルエンジンは燃料に揮発性の高いガソリンを使用しないため、燃料に引火し火災を発生させる危険が少ない。(火災の熱による装甲板及び機関部の変質を防ぎ、損傷戦車を再修理し易い点を重視した為)また、燃料事情が悪い当時としては、ガソリンを必要としないことは燃料調達の上で非常に有利であった。また空冷方式は、水の確保が難しい大陸の戦線での運用に適していると考えられていた。同時に、当時の日本の工作技術では、技術的に複雑な水冷エンジンの量産が難しかったという事情もあった。
しかし、ディーゼル方式でガソリンエンジンと同じだけの出力を得るにはエンジンを大型化せざるを得ず、エンジン部分の車体に占める割合が大きくなる欠点を持っていた。特に自動車産業の発展に出遅れていた当時の日本の技術では、エンジン系統の開発に弱点があり、これが後の戦況に深く影響をあたえる。
登場当時は他国の戦車(初期のIII号戦車や、BT-5など)と比較しても同程度の性能を示したが、もともと当時の仮想敵国であるソ連のBT系列に対抗することを想定した戦車であったため、その後の重装甲・重武装化した新型戦車には対応することが難しかった。歩兵支援用戦車として開発されたことから、搭載する九七式57mm戦車砲の装甲貫通力があまりにも貧弱(初速420m/s)であることに加えて、装甲も薄かったため(最大25mm)、すでにノモンハン事件のときから対戦車戦闘における問題点が指摘されていた。この対戦車戦での致命的弱点は、太平洋戦争開戦後、連合軍の強力な戦車と遭遇して非常な苦戦を強いられたことで、ますます深刻な問題となった。ノモンハンの戦訓から、主砲を長砲身47ミリ戦車砲に換装した九七式中戦車 新砲塔チハがもともと計画されていたが、太平洋戦争開戦により急遽その配備が急がれた。しかし、戦争中ごろからは、M4中戦車の登場により、さらなる苦戦を強いられることになった。
この後も後継車両の遅れから、九七式中戦車チハは戦争終結まで主力戦車として苦しい戦いを強いられた。
一般的に日本の戦車は他国より劣勢といわれるが、原因として以下の理由が考えられる。
- 太平洋戦線はヨーロッパ戦線とは違って海戦・空戦が主体であり、さらに地上戦も島嶼部といった狭い作戦領域で展開された。したがって、資源に乏しかった日本では軍需品の生産に必要な物資は艦船や航空機へと優先的に配分され、大型装甲車両を含む陸戦兵器の開発及び生産の優先順位が下げられた。
- 国内の橋梁は鉄道橋を除けば、当時20トンに耐えられるものは極めて少なかった。また船も18トン以上を荷役できるものが少なく、さらに中国や東南アジアの港にはそうした港湾設備がいくらもないため、大きな車体が作れなかった。
- 当時の日本の国家予算は他列強諸国に比べ少なく、重装備、重装甲の車両は高価になることから必要量を確保することは難しかった。少数の重戦車を配備した軍よりは、歩兵主体でその歩兵を支援する戦車をそこそこ配置したほうが有利なことから、必然的に歩兵支援の戦車開発が続き、相対的に対戦車戦闘に主眼を置いた戦車の開発が遅れた。
陸軍は、重戦車の試作、開発もおこなった(九五式重戦車、大型イ号車(1940年)など)が、上記の事情により開戦後の重装甲・重武装の戦車の量産は遅れ、強力な連合軍戦車と互角に対戦車戦を展開できるようになることは一度も訪れなかったのである。
[編集] バリエーション
[編集] 九七式中戦車 新砲塔チハ
対戦車戦闘力を上げるため。貫徹力が不十分だった九七式57mm戦車砲を、貫徹力が(比較的)優れた一式47mm戦車砲に換装されている。
日本陸軍の主力中戦車である八九式中戦車、九七式中戦車は、歩兵支援重視の考え方から装甲貫徹力が弱い歩兵砲ベースの搭載砲を装備していた。当時は世界的にも戦車の目的は歩兵支援で、対戦車戦闘は歩兵の持つ対戦車砲とされてはいたものの、ノモンハン事件で本格的な戦車戦を体験し、長砲身45mm砲を主体としていたソ連軍戦車、装甲車との不利な戦闘経験から、対戦車性能の向上が望まれていた。
この戦闘では比較的装甲貫徹力が高い九四式37mm速射砲や九四式37mm戦車砲を装備した九五式軽戦車などの活躍が目立ったことから、この戦訓を生かして1939年から新型速射砲や搭載する新型砲塔の開発が始まり、1942年に一式47mm戦車砲[1]として制式化された。なお光人社から出版された佐山二郎氏著作の『機甲入門』と『大砲入門』によれば、49口径57mm戦車砲(初速810~830m/s)の採用も検討されていたが、一式機動47mm速射砲との砲弾共用が不可能なため断念された模様である。九七式中戦車の車体は、もともとより威力の高い砲塔への換装ができるように設計されていたため、新型砲塔は従来の砲塔よりかなり大型化している。
だが、砲と砲塔を換装しただけで他は変わりなく、この戦車の弱点である装甲の薄さは全く改善されていなかった(注:戦車第二師団に配備された一部の戦車で、要部を50mmに強化したものも存在した)。しかも連合軍は大戦後半になると、従来のM3軽戦車、M3中戦車よりもさらに強力なM4中戦車を太平洋戦線に本格的に投入したことから、日本軍戦車は依然として非常に劣勢な戦いを強いられることとなった。
- ^ 初速は810m/sで、概ね1000mにおいて30mmの装甲板を貫通できる。RHAより15~20%耐弾力が劣る鋳鋼製のM3軽戦車に対しては、射距離が800mと1000mの射撃試験でそれぞれ9発中6発と6発中3発貫通の成績を残した。
[編集] 司馬遼太郎とチハ車
太平洋戦争中に戦車部隊に配属された司馬遼太郎がこれに乗車している。この戦車が敵国の戦車と比べあまりに装甲が弱く、性能が劣ることから、当時の軍部への不信感を強くしたことを、後年に小説家となった後、小説やエッセイなどにたびたび書いている。ただし、その技術的な内容については議論がある。
チハ車に対して愛着を持つ者は、その気持ちから、太平洋戦争中に関して言うならばチハ車が連合国側の戦車と比べて劣っていた事は否定できないが、登場当時においては世界的に見ても標準的な性能を持っており、司馬遼太郎の言葉のみを持ってしてチハ車に否定的な評価を下すことはチハ車の軍事史的および技術史的な意義を不当に過小評価することになりかねない、と主張することが多い。確かに、歩兵以外の戦力をほとんど持たなかった中国軍に対しては、かなりの戦果を上げている。一方、同時期のノモンハン事件では、ソ連のBT-7に全くかなわず対装甲性能は芳しくなかった。司馬遼太郎の記述は、これによるところが大きい。
[編集] 保存車輌
なお、現存する九七式中戦車の実車は、戦後サイパン島より還送された戦車第九連隊所属の実車が靖国神社の遊就館及び静岡県富士宮市の若獅子神社に展示されている(遊就館の車両が日本に還送されるまでの経緯については、下田四郎著『慟哭のキャタピラ』に詳しい)。 また「チハ改」の実車は、米国メリーランド州のアバディーン兵器試験場に硫黄島でほぼ無傷で鹵獲された一両が、中国・北京市の中国人民革命軍事博物館に国共内戦でも使用された保存状態良好の一両が、それぞれ保存・展示されている(終戦後、中国大陸にあったチハ改は、ソ連軍や中国軍に接収された。それらの一部は、朝鮮戦争および中印国境紛争でも実戦に投入された)。
[編集] 関連項目
[編集] 参考
(書籍)
「戦車戦入門 <日本篇>」(木俣滋朗著 光人社NF文庫) 旧軍の戦車の開発~実戦運用まで詳しく解説。
「激闘戦車戦」(土門周平/入江忠国著 光人社NF文庫) 旧軍機甲部隊の戦史が豊富。九七式中戦車については開戦時の栄光から戦争末期の悲劇まで知ることができる。
(プラモデル)
1/35スケール
「帝国陸軍九七式中戦車 チハ」(株式会社田宮模型製 ) タミヤらしく、古いキットだが現在でも通用するディテールと組みやすさは逸品に値する。バリエーションとして、「一式砲戦車 ホニ」もラインアップされている。また、比較的最近のキットでは、有限会社ファインモールドから、47ミリ砲搭載の「新砲塔チハ」と75ミリ砲搭載の「三式砲戦車 ホニIII」および「一式中戦車 チヘ」、同じく75ミリ砲搭載の「三式中戦車 チヌ」が入手可能。
1/76スケール
やや古いキットであるが、フジミ模型株式会社から「97式中戦車」、「97式中戦車改」「1式砲戦車」が出ている。小粒ながらよくできたキットである。