八九式中戦車
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
八九式中戦車(89しきちゅうせんしゃ)とは大日本帝国陸軍初の国産制式戦車である。イ号、チイ(「チ」は中戦車、「イ」はイロハ順で、「1」を表す)とも。輸入したイギリスのビッカースC型中戦車を模倣・改良し、大阪工廠にて試作車が完成した1929年(昭和4年)、すなわち皇紀2589年から取って八九式と命名された。
目次 |
[編集] 概要
最初は9t 程度の重量しかなかったため軽戦車と分類されたが、部隊の運用経験から改良が施され、車体重量は約12t となり中戦車に分類された。しかし、改修によって機動性は悪化してしまっている。当初ガソリンエンジンを搭載していたが、ガソリン節約などのため、途中から空冷ディーゼルエンジンに換装して生産された。後にガソリンエンジン搭載型を甲型、ディーゼルエンジン搭載型を乙型と分類され、形状もかなり違った物となっている。
ディーゼルエンジンは航続力があり、また攻撃を受けた際や事故の際に燃えにくい(実際にノモンハン事件では火炎瓶攻撃により炎上するガソリンエンジン装備のソ連軍戦車が続出した)のが利点だったが、反面、始動が難しく、冬の満州では車体の下に穴を掘り、そこで焚き火をしてエンジンを温めて始動させていた。またオイルの消費、排煙、騒音なども酷かった。水冷ガソリンエンジンに対して空冷ディーゼルエンジンは巨大で、居住性、装甲、重量増加で走行性能の悪化など、様々な面で制約を受けた。実戦経験に基づいた改修を求める意見に対しても、改修の余裕の無い設計のために僅かな改善しかできなかった。
溶接技術の発達していない当時、本車の装甲板はリベットで接合されていたが、これは装甲板をリベットによって接合する各国の戦車に共通の問題として防御上好ましいものではなかった。これはリベットの頭に被弾すると残りの部分が弾け飛び、車内を跳ね回るからである。
本車の車体後部にはルノー FTに見られるようなソリがついている。これは車体の全長を長くすることで塹壕を越える際に落ち込むことを防ぐ意味がある。
初期型と後期型ではいくつかの違いがある。その最大の違いが搭載するエンジンにあることは既に述べたが、他にも砲塔の形状が円筒形からやや角ばったものになり、車体前面に設けられていたハッチが廃止されたり、キューポラがより大型のものになった。また初期の車輛では操縦手が外部視察時、細かい穴の開いた2枚の円形の板を回す方式だったが、よく見えないということで結局廃止されている。
1931年(昭和6年)の満州事変にて初陣を踏んだ八九式は、日中戦争やノモンハン事件、太平洋戦争初期の南方戦線でも使用されたが、本車は歩兵直協用途に開発され、機関銃陣地撲滅を目標としていたため、搭載砲は対戦車戦闘など想定しておらず、照準は500mまでで固定目標限定であった。また貫徹力が弱かった(装甲貫通力20mm以下)。
ただし満州事変以降の中国大陸に於ける戦いでは深刻な脅威にぶつかることはなかった。むしろ中国大陸に於ける本車への最大の不満はその低い機動力である。これは、大陸に於けるほとんどの戦いが「追撃戦」の様相を呈していたからである。
[編集] 戦歴
本車は満州事変で百武俊吉大尉率いる臨時派遣第1戦車隊にルノー FT-17軽戦車やルノーNC型戦車の置き換えとしてデビューした。
昭和7年に勃発した第1次上海事変では重見伊三雄大尉率いる独立戦車第2中隊に本車5輛が配備された。また同隊にはルノーNC型戦車10輛も配備され、実戦比較された結果、八九式に軍配が上がった。この戦いでは戦車部隊が注目を集め、「鉄牛部隊」として活躍が報じられた(が、当の戦車兵はこの名称を好まず、のちの戦いでは「鉄獅子」と報じられるようになる)。しかし戦い自体は精鋭第19路軍の激しい抵抗と網のようなクリークに妨げられ、必ずしも楽な戦いではなかった。
昭和8年に発動された熱河作戦に於ける承徳攻略戦で、臨時派遣第1戦車隊は日本初となる機械化部隊である川原挺身隊に加わったが、ここで本車は悪路に起因する足回りの故障が多発し、活躍の主役はより高速で動ける九二式重装甲車に奪われた。ここでは日本初の戦車単独での夜襲攻撃なども行われている。
初めて本格的な対戦車戦闘を経験した1939年のノモンハン事件において日本軍戦車の対戦車戦闘における攻撃、防御両面での深刻な問題点が露呈した。にもかかわらず、後継の九七式中戦車を含め、問題点が抜本的に改善されることはなかった。この怠慢が、太平洋戦争における日本軍戦車の強力な連合軍戦車に対する絶望的な劣勢を生むことになった。
太平洋戦争では、フィリピンの戦い (1941-1942年) (フィリピン攻略戦)に参加したが、同地にあったM3軽戦車には歯も立たなかった。因みに本車は「中戦車」と呼ばれるものの、M3「軽戦車」より軽く(M3は12.4t)、装甲防御力は雲泥の差がある(M3は正面44mm、本車は17mm)。なお戦争末期のフィリピン戦の際には、既に引退していた本車も戦車不足のためかき集められ、戦闘に参加している。
なお一部の八九式は短砲身 57 mm 砲から 37 mm 狙撃砲に換装されている。生産数184輛。
[編集] 西住戦車長
本車を語る上で外せないのは「軍神」西住小次郎中尉であろう。彼は戦車第5大隊配下の戦車小隊長として1937年(昭和12年)の第二次上海事変から徐州会戦中の昭和13年5月17日に流れ弾に当たって戦死するまでの間、実に30回以上の戦闘に参加した。その中には上海に於ける中国軍の拠点(赤屋根、白壁の家)に対する攻撃や敵前数十mでの9時間にも及ぶ戦闘なども含まれる。彼の死後、1300発にも及ぶ被弾痕の残る戦車は内地で展示された。また1940年(昭和15年)には松竹により「西住戦車長伝」なる映画も公開された。