井森美幸
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
井森 美幸(いもり みゆき、1968年10月26日 - )は、日本の歌手、女性タレント。バラエティーアイドルとして紹介されることもある。
群馬県甘楽郡下仁田町出身。堀越高校(堀越学園)卒業。ホリプロ所属。
身長160cm。血液型はA型。
目次 |
[編集] 来歴・人物
- 1984年の第9回ホリプロタレントスカウトキャラバンのグランプリを獲得し、1985年の春にアイドル歌手としてデビュー。デビュー曲は『瞳の誓い』。当時のキャッチフレーズは「美幸16歳、まだ誰のものでもありません」。同期には本田美奈子.(故人)、中山美穂、佐野量子、芳本美代子、松本典子、南野陽子、おニャン子クラブなどがいる。テレビドラマ『遊びじゃないのよ、この恋は』(1986年、TBS)の主演など、大手ホリプロのアイドルとして強くプロモートされたが、アイドル歌手としては芽が出なかった。
- デビューの2、3年後に元祖バラエティーアイドル(バラドル)の一人として松本明子・森口博子・山瀬まみらと共にクローズアップされた。いわゆる天然ボケ系のキャラクターにより全国的な人気と知名度を得て、現在に至る。
- 2007年04月現在も独身。デビュー当初から和田アキ子と同様に黒髪を維持している。
- 山口百恵から現在の堀北真希まで続く、富士写真フイルムの歴代イメージガールのひとり。
- 今でも東京での仕事には群馬(下仁田)から通っているらしく、井森の運転する車も「群馬ナンバー」らしい。
- バラエティ番組では典型的な三枚目キャラであることから、女性らしさに欠けると評されることもあるが、評判に反して健康的で引き締まった肢体が美しく、スタイルは悪くない。ただしデビュー当時は「脚が太い」と指摘されることも多かった。
- スカウトキャラバンの予選時に踊ったレオタード姿のダンス映像が現在も残っており、そのダンスが体操のような妙な振り付けをしていることからしばしばバラエティ番組のネタとして使われている。
- 身体をよく鍛えているようで、肩や腕にはアスリートばりの筋肉を付けていることもあり、腕力が人並み外れて強い。特技は電話帳破りで、実際にぶ厚い電話帳を引き裂いてみせたこともある。ある深夜番組ではパワーリフティングの現役王者だった頃のなべやかんと腕相撲をして圧勝したこともある(ただし両腕で)。本人曰く「スポーツウーマン」。一方でかなりの運動オンチでもあり、敏捷性を要求されるゲームでは散々な成績に終わってしまうこともある。
- 2006年10月26日に出場した『クイズ$ミリオネア』で予選筆記試験10位ながらも、第6ピリオドにて挑戦権獲得。
Q01 TRIAL ¥10,000
|
答え:D |
上記の問題で井森は、「手」と間違えてしまい(諺「のどから手が出る程欲しい」の印象が強かったためと思われる)、ミリオネア史上最短記録という大失態を演じてしまった。しかも直前の挑戦者のデヴィ・スカルノが1000万円を獲得なのでそれが益々印象付けられた。余談だが放送日が丁度井森の38歳の誕生日だった。
[編集] クイズダービーの出演
- 『クイズダービー』では、タレントで元新体操五輪代表選手だった山崎浩子が2枠レギュラーを降板後、井森美幸は1988年2月20日に9代目2枠レギュラー解答者として初めて出演となる。その日以降井森は多大な珍解答ぶりで人気を博していた。以後1992年7月に週代わりの準レギュラー制になるまで、約4年4ヶ月の間レギュラーを務めたが、入れ代わりが多いこの枠としては最長記録である。その珍解答ぶりは、1992年12月19日の最終回、大橋巨泉が司会に復帰したときの最終問題で、巨泉は「もし俺がこの番組もう一度やるならば、お前は絶対レギュラーだ!」と言ったほどである。しかし当時井森の出演年齢は19歳~23歳と若過ぎたこともあり、2割0分8厘(平均1勝7敗~2勝6敗ペース)と過去の2枠レギュラーでは最低の正答率である。特にジョークや笑い話の問題ではそれに対する知識があまりなくて、理解不能の解答をよく書いたことも有り(長くだらだらと答えを書くことが多い)、井森の左隣に座る3枠レギュラーのはらたいらでさえ呆れた表情を見せていた。
- 滅多に無いが一般問題で井森の書いた解答が、はらたいら又は竹下景子と一緒だった場合井森は喜ぶものの、はらは「ちょっと待って下さい!冗談でしょ?」と困惑し、竹下は「アー、ダメだ……」と嘆き哀しんだ事があった。巨泉はその度に、はら・竹下に対して「それは井森に対して失礼ですよ!」と苦笑しつつ井森をフォローしていたが、結局ほとんど不正解だった。たまに正解だったとしても巨泉から「井森と同じ感覚ですね」と突っ込まれたら、はらは「嫌ですねえ~」と嘆いており、それに対して彼女ははらに対して怒ったという。また井森は、クイズダービーにおいては史上第1位となる、27連敗という記録を残し、また2回も23連敗している(歴代2位は同じ2枠レギュラーだった斉藤慶子の24連敗)。
- 井森の正答率が低かったせいもあってか、出場者が彼女に賭けてくるパターンは、一般問題には井森が余程正解できそうな問題でない限り稀であり、井森特有の女の勘の良さを期待しての三択問題だけであった。中には三択問題で、「半分捨てたつもりで元アイドルの井森美幸さんに500点」(1988年6月の第646回放送分)という暴言を吐いて賭けた出場者もいたが、それに対して井森は「半分捨てたつもりで500点なんてちょっと甘いと思いますね!」と、嫌な顔をせずに言い返した事があった(ちなみにその時は不正解だった)。それ故、いつも問題では2枠席ということもあり6~10倍(最終問題は殆ど20倍だが、自分より年下の人物がゲストのときは稀に18倍もあった)という高い倍率での設定だったが、たまに井森の得意そうな問題で2~5倍の倍率も表示されていた。
- ごく稀にだが、最初の第1問目で本来は7倍が最高なのだが、井森には8倍がついた時もあった(おそらく巨泉が井森は絶対正解できないという意図でつけたと思われる)。普段はあまり正解しないが、同世代のアイドルに関する問題は比較的正答率が高かった。また、井森が2枠レギュラー初回出演時の1問目(「“女子高生が砲丸投げのポーズをして投げてみて”の格好させた後、何を言う」の問題)では、年齢で一番女子高生に近い井森には本来2倍程度の倍率が賭けられる筈だったが、かつて5枠ゲスト時代の勝率がかなり低かった為(2枠レギュラーになる前)、巨泉は「(ゲスト時代の通算勝星が)わずか2勝の人に2倍は付けられない」と言って7倍をつけた。この問題の答えは「ガチョーン」だったが、井森は知っていたので勿論正解となった。ちなみに、井森がゲスト時代に過去3回登場したときの通算成績は2勝22敗、0割8分3厘と極めて低い正解率であった。
- 初期はそうでもなかったが、長く出演するにつれて「1人を除いてみんな同じ答え」の1人だけ不正解に該当するようになった。時には数週連続で1回は該当することもあった。北野大と共演するようになってからそのような状況になった時、2人で向かい合っては苦笑いを浮かべていた。それで巨泉に「1枠と2枠が向かい合っています」とよく言われた。滅多に無いが北野と井森だけが正解すると、同じく巨泉に「1枠と2枠だけ正解で他は間違いというケースは1年に1回はあるんですよ」と冷やかされていた。
- それでもたまに好調時の井森は、得意げになることも度々あった。特に1枠の北野よりも成績が良かった時は「お友達やめました。もう格が違うので」「こんな問題知らないなんて日本人として失格ですよね」「私には易しすぎましたね」などと言っていた。他にも井森が正解を知っている問題で、ギャンブラーから指名が無かった場合は「私に賭けて欲しかったのに~!」など。ちなみに井森の最高成績は4勝4敗で複数回あり、そのうちの一回である1989年4月の第685回放送では、竹下景子が絶不調で2勝6敗、はらたいら(6勝2敗)に次いで第2位の成績だった。又この回の井森は珍しく、三択問題では一人だけ正解したり、最終問題も当てたりするなど(しかもはらと一緒だった)、巨泉らを驚嘆させている。
- 大橋巨泉は女性解答者を下の名前で呼ぶことが多いが、井森の場合は「イモリ」と名字で呼ぶことが多かった。「美幸」と下の名前でも呼んでいた時もあり。1988年4月の第634回での放送では、一般の出場者チームから「ヤモリ・ミユキさん、じゃなくてイモリ・ミユキさんに500点」と指名させられた事もある。また、三択問題でイモリの問題が出た時、終始TVカメラは井森の表情を映していた(詳しくは別記を参照)。
- 『クイズダービー』と同じく、大橋巨泉の司会で人気クイズ番組だった『世界まるごとHOWマッチ!!』で、井森はゲストとして出場した際、外国のとある屋敷の価格を当てる問題で、「7千兆ドル」という日本円に換算すると天文学的な金額(現在のレートで約83京円・日本の国家予算の約9500倍)となる、無茶苦茶な解答をボードに書いてしまう事件があった。井森の隣に座っていたビートたけしには、巨泉に対し「(井森の解答は)飛ばしましょう!」、また井森に対しては「国家予算よりも高いじゃないか!」と呆れられたらしい。
- その後、井森が『クイズダービー』に5枠ゲストとして2回目の登場時には、巨泉から「恐怖の7000兆ドル、井森美幸ちゃんでーす!」(1987年12月19日、第620回での放送)と紹介された。その時と同じ放送回の3問目の出題時に「如何(いか)にも文明開化らしい事件」と言うのを、井森は「『烏賊(イカ)』(又はタコ)の、『文明開化』って言いましたよね??」と発言するなど、既にこの頃から井森ならではのひょうきんな面を披露していた。
- 井森は小さい頃からプロ野球は巨人ファンだったらしく、現役時代から甘いマスクで女性に人気があった定岡正二投手が大好きだったという。そのため、『クイズダービー』で定岡が5枠ゲストで登場した時には、井森はいつも嬉しそうな表情を浮かべ、しかもこのときばかりは化粧もいつもよりしていた。しかし、竹下景子の指定席である4枠が5枠ゲスト席の左隣だったので、定岡のすぐそばに座る竹下に対して井森は羨ましがっていた。また、竹下が隣の定岡に何か話しかけたりした際、「景子さん!ちょっと定岡さんと話が弾み過ぎですよ!!」等と嫉妬心を露わにしていたが、竹下と定岡の二人はその度に困惑した表情で苦笑していた。その嫉妬心はさらに、当時5枠ゲスト席の右隣に座っていた、問題読み上げ担当の小池達子(元テレビ愛媛アナウンサー)にまで向けられていた事があり、小池も定岡同様に苦笑いを浮かべるばかりであった(蛇足ではあるが、このやりとりで当時30歳の小池が既婚であることが判明している)。また、TBS系の『JNNスポーツチャンネル』でキャスターとして定岡と共演していた出光ケイが5枠ゲスト席で登場した時も、井森は「出光さん、定岡さんと私語は慎んで下さいね!」と苦笑する出光に向かって睨んだりしていた。
- 2004年5月、ロンドンブーツ1号2号とロバートのスペシャル番組内で、『もう時効だョ全員集合史上最強!花の芸能界オフレコトークバトル』内では、『クイズダービー』の復元特番が放送された。井森も『クイズダービー』放送終了から約11年半ぶり久々に登場、かつての指定席だった2枠に座っての解答となった。なお、従来の『クイズダービー』では全部で8問出題だったが、この時は5問だけの出題となっている。この時は一緒に出演していた1枠の篠沢秀夫よりも、2問目の三択問題を除いて倍率が低くなっていた。そんな中、井森は3問目の歌詞問題と4問目の三択問題を正解し、成績は2勝3敗と健闘する。それでも最終問題には井森らしい珍解答が飛び出したため、司会の大橋巨泉等から「井森は30歳を過ぎても(当時井森は35歳)あの頃と全く変わってないな。安心したよ」と苦笑いされていた。
[編集] 出演
[編集] テレビドラマ
- 遊びじゃないのよ、この恋は(1986年、TBS)
- 疑惑の家族(1988年、TBS)
- 夏休み別荘物語(1989年、日本テレビ)
- トップスチュワーデス物語(1990年、TBS)
- ニュースなあいつ(1992年、日本テレビ)
- お兄ちゃんの選択(1994年、TBS)
- 輝く季節の中で(1995年、フジテレビ)
- 幸福の王子(2003年、日本テレビ)
[編集] バラエティ
- 郁恵・井森のデリ×デリキッチン!(フジテレビ)
- 郁恵・井森のお料理BAN!BAN!(フジテレビ)
- パオパオチャンネル(テレビ朝日)
- 世界まるごとHOWマッチ!!(TBS)
- クイズダービー(1988年2月 - 1992年6月、TBS)
- クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!(日本テレビ)
- 新装開店!SHOW by ショーバイ!!
- 新装開店!SHOW by ショーバイ2
- 天才・たけしの元気が出るテレビ!!(日本テレビ)
- 森田一義アワー 笑っていいとも!(フジテレビ)
- いつみても波瀾万丈(2007年3月11日、日本テレビ)
[編集] ラジオ番組
- 井森美幸 夢色飛行船(ニッポン放送)
- 井森美幸の今夜は裁定
- 井森美幸のおしゃべりマークリー(文化放送)
- BAY LINE 7300(bayfm) - 金曜日レギュラー
[編集] CM
[編集] 音楽
[編集] シングル
- 瞳の誓い / 恋人になる100の方法(1985年4月21日)
- 99粒の涙 / 天使のハンカチーフ(1985年)
- 乙女心ウラハラ / 砂に書いた返事(1985年)
- 恋は理解力 / 四月うさぎ(1986年)
- 吐息まじりに恋をして / 孤独のディープ(1986年)
- セピア・あなた・かも / 雨あがりの朝に(1989年)
[編集] アルバム
- 井森美幸(1990年11月21日)
- Myこれ!クション 井森美幸 best(2002年7月17日)
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
|
|
|