加藤六月
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加藤 六月(かとう むつき、1926年6月17日 - 2006年2月28日)は、日本の政治家。国土庁長官、北海道開発庁長官、農林水産大臣。
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[編集] 生涯
岡山県笠岡市出身。陸軍士官学校を経て1947年に旧制姫路高等学校(現 ・神戸大学)卒業。
姫路高卒業後は笠岡市内の中学校、高等学校の教諭となる。日教組活動に熱中し、1949年には岡山県教組小田郡支部書記長に就任している。また青年団運動にも取り組んでいたが、国民協同党への接触を深める中で、1950年、のちに衆議院議長となる星島二郎と知り合い、秘書として仕えるようになる。
1967年に自由民主党公認で旧岡山2区から出馬し初当選。田中角栄内閣では橋本登美三郎運輸大臣下の運輸政務次官に就任するが、この期間に起こったロッキード事件に関与したとされ、後に灰色高官の一人と名指しされる。そのため初入閣は遅れ、1982年に中曽根康弘内閣でようやく国土庁長官兼北海道開発庁長官として入閣を果たした。その後、党税制調査会長に就任し税制改革大綱をまとめ上げ、1986年には第三次中曽根内閣で農林水産大臣として二度目の入閣。運輸、農水、税制関係のエキスパートとして影響力を発揮する。
福田赳夫・安倍晋太郎派に属し、塩川正十郎、森喜朗、三塚博と共に安倍派四天王と称された。中でも安倍の信頼が一番厚かったのが加藤で、安倍の代理として党内各派との調整役なども任されていた。また、三塚とは同じ運輸族であり、事件の影響で加藤が出遅れる間に三塚が力を付けてきたことから、ライバル意識が強かった。
1988年、リクルート事件に関与し一時謹慎するも、1990年に自民党政調会長に就任。この時幹事長の小沢一郎、総務会長の西岡武夫、首相の海部俊樹と個人的な連携を深める。1991年に安倍が死去した後、安倍派の後継を巡って三塚と激しく対立。この内紛は三六戦争と呼ばれた。結果は三塚が後継者となり、しばらくして三塚の総裁選立候補に反対した加藤は三塚派を除名された。同年、田名部匡省、山岡賢次、吹田愰、古賀一成、倉田寛之らと新しく加藤グループ(政眞会)を結成したが、党内最小グループで影響力は保てなかった。
1993年7月の総選挙直後に加藤グループの一部を引き連れて自民党を離党。無所属を経て翌年4月、新生党に参加し、羽田孜内閣では再度農水大臣に就任する。その後は新進党、自由党で小沢一郎と行動を共にするが、2000年の自由党分裂では小沢と離別、保守党結党に参加した。同年の衆院選には出馬せず政界引退。
選挙区では橋本龍太郎と毎回激しい戦いを繰り広げたが、政界から退いた後に氷解。加藤の娘婿で後継者である衆議院議員、加藤勝信は橋本派が代替わりした津島派に属している。
1999年、勲一等旭日大綬章を受章。2006年2月28日、心不全のため死去。享年79。兄は参議院議員、岡山県知事を務めた加藤武徳、甥は元参議院議員の加藤紀文。
[編集] 系譜
┏武徳━━紀文 ┃ ┗六月━━娘 ┃ 勝信
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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