原恵一
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
原 恵一(はら けいいち、1959年7月24日 - )は、群馬県館林市出身の日本のアニメーション監督。シンエイ動画所属。
論理よりも情緒に訴える作品作りをし、家庭を舞台にする作品の傾向から、松竹映画の木下恵介や小津安二郎といった監督の後継者と東京大学大学院教授の浜野保樹から評された。自らが作品を起し、絵コンテや脚本を手がけることが多い。
目次 |
[編集] 略歴
[編集] 生まれ
父は駄菓子の卸業で、群馬県の駄菓子屋を営む家庭に生まれる。4人家族で妹が1人。「死んだ魚のような目をしている」と評される子だった。中学生時代には水泳部に所属。深夜放送やフォークギターに熱中し、志望校の公立高校には落ちて、滑り止めの私立高校へ進学。原によると学力の低い不良がかかった生徒が多い学校のために学校生活に馴染めず、高校時代の思い出が殆どなかったという。子供の頃から夢だった絵を描く仕事に就くため、美術大学には学力不足で進学できなかったものの、アニメーションの専門学校である東京デザイナー学院へ進学。専門学校時代も『ぴあ』を片手に名画座に通いつめる。実写映画では小津安二郎、木下恵介、デヴィッド・リーンの作品を始めとするさまざまな作品を見て来たが、アニメ作品は殆ど見なかった。アニメ好きが好んで見るようなアニメとは距離を置き、アニメファンの同級生から「原はどんなアニメが好きなんだ?」と聞かれ、原作も好きだった『サザエさん』を挙げると否定されるなど、専門学校時代も周囲とは趣味が合わない生活を送る。
[編集] アニメーター
東京デザイナー学院卒業後、就職活動で東京ムービーの見学コースから勝手に抜け出し、『ルパン三世』演出の御厨恭輔に入社を頼む。絵コンテを描いてくるようにと言われ、『ルパン三世』の完成台本を渡される。数日した後に絵コンテを持参し、紹介されたCM制作会社アドックシステムズへ入社する。1年半ほどして黒川慶二郎社長からの紹介でシンエイ動画に入社。最初は『怪物くん』で制作進行を務め、その後、『フクちゃん』の途中で『ドラえもん』に異動し、演出助手に昇格する。そして『ドラえもん』の演出としてデビュー。『ドラえもん』での演出を通じて、チーフディレクターだった芝山努から絵コンテの面で影響を受けた。
藤子・F・不二雄の漫画が好きで、シンエイ動画に入る前はアニメの『ドラえもん』よりも原作の方が面白いと思っていた原は、『ドラえもん』の演出となると一日中絵コンテを考える生活になる。原が担当した『ドラえもん』のいつもより凝った構図は早くも注目され、アニメ雑誌『アニメージュ』1987年2月号に半ページの扱いで、傑作を続出させる若手演出家として紹介を受けた。
『オバケのQ太郎』の絵コンテを何本かやった以外は数年『ドラえもん』に専念したのち、1987年に『エスパー魔美』のチーフディレクターとして抜擢され、2年半の長きに渡る仕事を務め上げた。しかし、若さ故の信頼度の低さが災いしてあちこちからクレームの嵐が来た(今でこそ20代の監督は珍しくないが、当時は異例だった)ため、ひどくストレスが溜まった。制作終了後、『チンプイ』のチーフディレクターを本郷みつるに明け渡して10ヶ月休職する。内7ヶ月は東南アジアへ旅行に出かけた。
帰国後『21エモン』を手掛け、1992年には『クレヨンしんちゃん』が開始。テレビ版・劇場版の両者で絵コンテや演出などを担当し、本郷の監督降板に伴い1996年10月に監督に就任。2001年の『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲』は各方面で話題となり、その知名度を高めた。さらに翌年2002年の『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ アッパレ!戦国大合戦』ではまたもや各方面で絶賛され、特に日本PTA全国協議会の子供に見せたくない番組ランキング常連でもある『クレヨンしんちゃん』で文化庁から評価を受けたことは話題となった。
[編集] クレヨンしんちゃん以降
一連の『クレヨンしんちゃん』の劇場版については、本郷がファンタジー・SF志向であるのに対し、原は日常を淡々と描くリアル志向であると劇作家の中島かずきから評された。2003年に映画版の監督を水島努と交代してからは徐々に関わりを薄くし、2005年『クレヨンしんちゃん 伝説を呼ぶブリブリ 3分ポッキリ大進撃』(ムトウユージ監督)では絵コンテに多少関わっている程度となった。2003年に映画監督の曽利文彦と知り合い、曽利のCGアニメ映画の脚本に抜擢され、実際に脚本も執筆したが、その企画は流れてしまった。2004年7月には完全に監督をムトウに引き継がせて降板。現在は、盟友・茂木仁史(シンエイ動画チーフプロデューサー)と長年温めた企画である、劇場映画『河童のクゥと夏休み』(2007年松竹系で公開予定)の制作が進行中。
[編集] 受賞歴
- 2002年 第7回アニメーション神戸個人賞
- 2002年度文化庁メディア芸術祭アニメーション部門大賞
- 2002年度ニフティ映画大賞・邦画部門賞
- 第57回毎日映画コンクール・アニメーション映画賞
- 東京国際アニメフェア2003・劇場部門優秀作品賞
- 東京国際アニメフェア2003・個人賞部門監督賞
- 第22回藤本激励賞
[編集] 作品リスト
[編集] テレビアニメ
- ドラえもん(1983年~1986年)演出助手・演出
- エスパー魔美(1987年~1989年)チーフディレクター
- チンプイ(1989年)絵コンテ
- 八百八町表裏 化粧師(1990年)絵コンテ
- 21エモン(1991年)チーフディレクター
- クレヨンしんちゃん(1992年~2005年)絵コンテ・演出・監督(1996年から)
- 景山民夫のダブルファンタジー(1994年)絵コンテ
[編集] 劇場アニメ
- ドラえもん のび太の魔界大冒険(1984年)演出助手
- ドラえもん のび太の宇宙小戦争(1985年)演出助手
- ドラえもん のび太と鉄人兵団(1986年)演出助手
- ドラえもん のび太と竜の騎士(1987年)演出助手
- エスパー魔美 星空のダンシングドール(1988年)監督
- ドラミちゃん アララ♥少年山賊団!(1991年)監督
- ドラミちゃん ハロー恐竜キッズ!!(1993年)監督
- クレヨンしんちゃん アクション仮面VSハイグレ魔王(1993年)絵コンテ・演出
- クレヨンしんちゃん ブリブリ王国の秘宝(1994年)脚本・絵コンテ・演出
- クレヨンしんちゃん 雲黒斎の野望(1995年)脚本・絵コンテ・演出
- クレヨンしんちゃん ヘンダーランドの大冒険(1996年)脚本・絵コンテ・演出
- クレヨンしんちゃん 暗黒タマタマ大追跡(1997年)監督・脚本・絵コンテ
- クレヨンしんちゃん 電撃!ブタのヒヅメ大作戦(1998年)監督・脚本・絵コンテ
- クレヨンしんちゃん 爆発!温泉わくわく大決戦(1999年)監督・脚本・絵コンテ
- クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶジャングル(2000年)監督・脚本・絵コンテ
- クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲(2001年)監督・脚本・絵コンテ
- クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ アッパレ!戦国大合戦(2002年)監督・脚本・絵コンテ
- クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ 栄光のヤキニクロード(2003年)脚本・絵コンテ
- クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ!夕陽のカスカベボーイズ(2004年)絵コンテ
- クレヨンしんちゃん 伝説を呼ぶブリブリ 3分ポッキリ大進撃 (2005年)絵コンテ
- 河童のクゥと夏休み(2007年公開予定)企画・監督・脚本
[編集] 人物像
- 本人曰く、アニメ界では友達が殆どいない。
- 近年のアニメーション作品では『マインド・ゲーム』(湯浅政明監督)と『人狼 JIN-ROH』(沖浦啓之監督)だけしか名作とあげていない。理由としては「最近のアニメは見ていてウンザリする」とのこと。
- たまに会社を休んでは東南アジアやヨーロッパへ出かける旅行好きでもある。
- 携帯電話・パソコン・ファックスなどといった新鋭の通信機器は一切所持しない主義である。
- 今でこそ『ドラえもん』の担当演出作品はファンから絶大な支持を受けているが、当時のスタッフの中には彼の演出の手腕に難色を示した者も少なからず存在し、作画スタッフと対立を起こしたこともあった。その時に仲裁したのが作画監督の中村英一であった。
- ブルーハーツのファン。自ら脚本まで手がけたアニメ『エスパー魔美』の第96話「俺たちTONBI」では、ブルーハーツのポスターが登場する。原はBGMにブルーハーツの曲を使いたいと思っていたが、版権の都合で実現しなかった。エスパー魔美のイベントでは、曲を使えなかった悔しさから、シーンを無音にして、自分で曲を掛けながら鑑賞したことを語った。この他にも、井上陽水などのフォークや洋楽も愛好している。
[編集] 参考文献
[編集] 関連項目
|
|
|