大阪湾
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大阪湾(おおさかわん)は、大阪と淡路島の間に位置する楕円形の湾。瀬戸内海の一部であり、西の明石海峡を経て播磨灘へと繋がる。もう一方は南の紀淡海峡を経て紀伊水道へと通じ、太平洋へと繋がる。日本有数の工業地帯・港湾であり、海岸線のほとんどは埋立地などの人工海岸であるが、西宮市や貝塚市(二色浜)ほか、淡路島や大阪南部など一部に自然の海岸が残っている。
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[編集] 概説
「大阪湾再生行動計画」(大阪湾再生推進会議:内閣官房都市再生本部事務局、国土交通省、農林水産省、経済産業省、環境省、大阪府などの沿岸自治体)では大阪湾を、田倉崎(和歌山市)と生石鼻(淡路島)を結ぶ線(紀淡海峡)、松帆崎(淡路島)と朝霧川河口左岸(明石市)を結ぶ線(明石海峡)及び陸地によって囲まれた海域、と定義している。
湾内には神戸港や大阪港などの港湾がある。また大阪沖の咲洲(南港)や神戸沖のポートアイランド、六甲アイランドなど多くの人工島があるほか、南東部には関西国際空港が、神戸沖には神戸空港がある。湾岸は阪神工業地帯を形成して、コンビナートや重工業の工場なども数多くある。
2006年8月2日の、「大阪湾再生行動計画」(大阪湾再生推進会議)による水質一斉調査では、”湾中央部の溶存酸素量 ( DO )が著しく減少、生物が生きられない状態”と発表 [1]
[編集] 歴史
[編集] 交易の海
古名を「茅渟の海(ちぬのうみ)」と称した。
天皇が即位した時に行われる浄めの儀式とされる八十嶋祭の場で、天皇は大阪湾の澄ノ江(住江、住吉の浜)で身を清め、八十嶋の御霊を付着させる祭事を行った。
淀川・大和川など多くの河川が栄養を運ぶほか明石海峡の海流の早さなどから身のしまった魚が多く獲れ、古くから沿岸漁業が盛んだった。瀬戸内海の東端に位置する淀川河口には、住吉津や難波津などの国際港が置かれ、シルクロードの日本の玄関口となり、遣隋使や遣唐使の出発地であり、また中国や朝鮮からの船を迎えて栄え、飛鳥・平城京・平安京へ水運でつながりさらに陸路で東日本へつながっていた。また国が対外的に開かれた時は難波宮や難波京、福原京などの首都が置かれた。
平安時代後期においては、渡辺綱(源綱)を祖とする渡辺氏が、滝口武者(天皇を護衛する武者)の一族として天皇の清めの儀式(八十嶋祭)に携わることから、大阪湾を支配する水軍系の武家として、瀬戸内海の水軍系武士の棟梁となる。渡辺氏の分流が九州の水軍棟梁の松浦氏である。平安時代末期には平清盛が大輪田泊(神戸港)を修築拡大して日宋貿易の拠点とした。
戦国時代には堺が外国貿易で繁栄、江戸時代には大坂や兵庫津などの港が繁栄して北前船・樽廻船・菱垣廻船などが経済の中心地となった大坂と全国とを結んだ。
[編集] 景勝地
淀川や神崎川などの河口は多数の支流に分かれたデルタ地帯で、八十島(やそしま)とよばれる州が多数ひろがる湿地帯であったが、江戸時代以降は新田開発が進んだ。湾岸には住吉の浜や高師浜など白砂青松の砂浜海岸が延々と続き、景勝地として多くの和歌などに詠われた。天智天皇の子の長皇子が住吉の浜の霰松原の美景を歌った和歌があり、風光明媚の典型図柄の一つとされる「住吉模様」は、住吉大社の社前の景色を図案化したものである。また羽衣は、明治以降は海水浴場となったが、昭和初期から高度成長期にかけて工業化にともなう水質悪化や埋め立てなどでほとんど姿を消した。
現在の景勝地としては大阪湾を俯瞰できる六甲山地の掬星台が日本三大夜景の一つとして広く知られる存在である。
[編集] 工業地帯と将来
大阪や神戸周辺の湾岸は第二次大戦前からの工業地帯で永らく日本最大の重工業集積地であったが、多くの工場が老朽化などで拠点工場としての地位を各地の新しいコンビナートに譲っている。また堺泉北臨海工業地帯などの比較的新しい重厚長大型コンビナートも1980年代以降の産業構造の変化に対応しきれない状態がある。そのため官民協力で湾岸の再生が構想されている。
[編集] 環境問題
大阪湾では70~80年代にかけて埋め立てなどの理由で海底の土砂が大量に削られ、海底に窪地ができているが、近年、これが原因となって青潮の被害が発生している。