日本の交通
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日本の交通(にほんのこうつう)では、日本の交通の歴史や状況などを述べる。
蒸気機関や内燃機関が導入される以前において、日本の道路は鋪装される事が殆どなく、車輪を用いた車は大八車といった荷物運搬用以外に用いられる事は、牛車などしかなかった。又、馬の使用についても制限が加えられていた。物資の輸送には船が用いられており、大都市では水路が発達していた。
目次 |
[編集] 交通の歴史
[編集] 律令時代から中世まで
- 律令時代
古代は律令制度の整備に伴い、駅制が敷かれて都(畿内)と地方の間に道路が整備され、駅家が置かれた。
又、地形に基づいて五畿七道という広域行政区分が設けられ、これに沿って交通網が整備された。
- 戦国時代まで
中世には都市の発達に伴い、年貢や物資の輸送の必要性から陸上交通が整備され、定期市なども開かれた。これに伴い、港や廻船も整備され、海上交通や海上輸送も行われるようになる。交通の要所には、幕府や戦国大名や有力寺社などが関を設置して、関銭が徴収された。
[編集] 江戸時代
[編集] 明治から第二次大戦まで
明治時代に入ると鉄道が建設された。鉄道の建設には多くの問題や妨碍が為されたが、品川・横浜間で仮営業が始められた後、新橋・横浜間の営業が始められた。これを契機として、官民両者による鉄道の建設が進められた。
[編集] 第二次大戦後
- 昭和後期
第二次世界大戦中まで自動車用の道路の整備があまり進まなかったが、戦後に本格的な整備が始まった。高度経済成長期には本格的な自動車専用道路である高速道路が、日本で初めて登場した(名神高速道路)。
1964年の東京オリンピックまでが一つの契機となった。東京オリンピックに合わせて、東名高速道路の建設や新幹線の開通などが相次いだ。又、東京の首都高速道路も1962年に一部開通し、これは日本初のハイウェイでもあった。
1960年代後半頃からマイカーの普及が本格化し、自動車の台数が大幅に増加した(モータリゼーション)。その一方で、道路や自動車の利用環境の整備の遅れなどから交通事故も激増し、いわゆる交通戦争が起こった。
1950年代までは自動車は殆ど普及していなかったが、1960年代(昭和30年代後半)になると台数が伸び始める。1971年(昭和46年)に乗用車の保有台数が一千万台に達した。
又、戦後になると、鉄道では、蒸気機関車から気動車(ディーゼルカー)や電化された鉄道への転換が進められた。
在来鉄道が自動車の普及に伴ういわゆるモータリゼーションの波に押されて停滞する一方で、高速旅客鉄道である新幹線が登場した。自動車と航空旅客輸送の間を埋める新幹線の登場は、停滞傾向にあった鉄道の見直し機運を与え、ヨーロッパや台湾にも高速旅客鉄道を登場させる動機となった。
資源の多くを海外に頼る日本では、戦前から造船技術が発達し、戦後も大型タンカーなどの建造が活発に行われ、鉄鋼業とともに日本の経済と物流の一翼を担った。
戦後、航空機の開発を制限された日本では航空機製造の分野では振るわなかったが、空港の整備が進められ、航空輸送が徐々に拡大した。円の価値が一段と上昇した1980年代以降は、海外へのビジネスや旅行の渡航も活発になった。
- 平成期の交通問題
[編集] 交通体系を基準にした地方区分
交通体系や道路地図などでは地形的条件に則り、律令時代の五畿七道や、江戸時代の五街道などを目安として、地方を区分することが多い。
日本海側 | 内陸 | 瀬戸内海側 | 太平洋側 | ||
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北海道 | 西岸(函館本線) | 北岸(宗谷本線) | 東岸(根室本線) | ||
本州・四国 | 東北地方 | 出羽国 | 陸奥国 | ||
関東地方 | 中山道(上信) 甲信(甲州街道) |
陸奥国 東海道 |
|||
中部地方 | 北陸道 上信 |
中山道(甲信) | 東海道 | ||
近畿地方 | 北陸道 山陰道 |
中山道(甲信) | 山陽道 四国北岸 |
東海道 南紀 |
|
中国・四国地方 | 山陰道 | 山陽道 四国北岸 |
四国南岸 | ||
南日本 | 九州地方 | 筑肥(鹿児島本線) | 日豊(日豊本線) | ||
南西諸島 |
[編集] 関連項目
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