月の岬
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月の岬(つきのみさき)は、東京都港区三田4丁目に付近の台地を指した名称である。現在は公式には地域名称としての「月の岬」の番地名は存在しないが、歴史的に由縁のある名称であり[1]地域住民にもこの名を親しむものもいる。台地全体を「高縄手」と呼んだとする説[2]もある。
目次 |
[編集] 地形
東京湾に沿って細長く台地が広がり、その尾根上を聖坂が通り、坂から海側に済海寺、亀塚公園、御田八幡神社、三田台公園が、内陸側に港区立御田小学校が存在する。田町側から聖坂を上りると潮見坂、幽霊坂が内陸側から注ぎ込む形で交差し、そのまま進むと伊皿子坂、魚籃坂が連なる広道と交差し高輪1丁目に入る。二本榎通りつたいに、高松宮邸、東海大学付属高輪台高等学校、高輪消防署二本榎出張所、高輪警察署、高輪協会、衆議院高輪議員宿舎(北白川宮邸)を抜け柘榴坂を下り品川駅に至る。
以前は御田八幡神社内に海側の斜面を下りる通(亀塚公園の円墳裏に入り口があり、尾根の上から芝浦側に出ることが可能)が通り住民に開放されていたが、現在は治安上の問題から閉鎖されている。つい最近まで尾根の海側には札の辻から、泉岳寺まで下る通が存在せず、1キロ弱に渡って、港区内を芝浦側と麻布側を遮断することになっていたが2006年に住友不動産三田ツインビル西館の裏に国道1号と聖坂を結ぶ通路が設置され一般市民でも通行可能である。
[編集] 歴史
[編集] 太古
台地上に縄文時代の住居跡が発掘され、太古から人々が居住していたものと考えられる。亀塚公園内に巨大な古墳状の盛り土が存在するが発掘調査が行われたが副葬品などは発見できず、古墳であることは同定出来ていない[3]。
[編集] 名称の由来
かつては東京湾を一望に見渡せる場所であり、特に夜になると海から上る月がまことに美しく月の名所として名高かった。江戸時代、徳川家康により「月の岬」と称される。ただし江戸時代は大名屋敷や寺社が立ち並び庶民が立ち入ることは出来なかった。したがって庶民が遠望を楽しめるのは、潮見坂、伊皿子坂辺りに限られたと考えられる[4]。
現在では台地一面に建物が立ち並び、上代の縁を偲ぶことは困難である。
- 「秋ならば 月のみさきや いかならん 名は夏山の しげみのみして」
と詠われた。
[編集] 地名の示す範囲
文政町方書(文政11年)からは「月の岬」の示す範疇は現在の三田四丁目当たりに限定されると解釈される。
[編集] ロケーション
紙幅の関係上、個々の事項の説明を全て記すことは出来ないので、詳細は写真のリンク先を参照のこと。
[編集] 斜面に掛かる坂(E)
斜面には様々な坂が存在する。上代の東海道が聖坂であり、伊皿子坂上より名称が二本榎通りに変わる。その枝道として様々な細い坂が斜面に掛かっている。個々の坂に歴史的な謂れがあり、現在それが記されている木製の標柱が建っている。
[編集] 岡の麓を走る通り
江戸時代に整備された東海道は国道15号線と一致し、史跡として高輪大木戸跡が存在する。国道1号線は江戸時代の旧道とほぼ一致するが、大幅に東側に拡張されている。
[編集] 寺院・宗教施設
江戸時代初期、江戸城周辺の寺院が城の拡張に伴い幕府より同地に移転を命じられたため丘陵全体に寺院が多々点在する。「寺町」と言われた(三田四丁目)付近は取り分け寺院が集中し、新陳代謝の激しい東京において変わらぬ風情を残している。
神社についてはその謂れが飛鳥、平安時代に遡る由緒あるものもある。
[編集] 丘の上に存在する寺院・宗教施設
- 阿含宗関東別院
- 蓮乗院 日蓮宗
- 成覚寺 浄土宗
- 済海寺 浄土宗
- 長運寺 栄松山 日蓮宗
- 大聖院 明王山 真言宗智山派
- 宝生院 真言宗智山派
- 長延寺 太元山宇賀院 真言宗豊山派
- 西蔵院 天台宗
- 幸福寺 天台宗
- 願海寺 浄土宗
- 林泉寺 郭然山 浄土宗
- 慈眼寺 普門山 曹洞宗
- 随応寺 浄土宗
- 明福寺 真宗大谷派
- 明王院 真言宗豊山派
- 常林寺 曹洞宗
- 仙翁寺 桃源山 曹洞宗
- 長松寺 浄土宗
- 忍願寺 銀谷山 浄土真宗
- 正山寺 曹洞宗
- 薬王寺 妙荘山 日蓮宗
- 魚藍寺 三田山 浄土宗
- 徳玄寺 高輪山 真宗大谷派
- 南台寺 曹洞宗
- 正覚院 臨済宗円覚寺派
- 荘厳寺 由良山 浄土真宗本願寺派
- 常教寺 浄土真宗本願寺派
- 大増寺 浄土宗
- 実相寺 浄土宗
- 竜源寺 臨済宗妙心寺派
大増寺 |
[編集] 岡の麓に存在する寺院・宗教施設
[編集] 岡の上に存在する主要な建築物
高輪台は平たい台地が拡がり、高松宮邸に代表されるような規模の大きな建物が存在する。台地の最南端に伊藤博文邸、その後三菱総帥の岩崎家住居であった開東閣が広大な敷地を占めている。それら御屋敷を顧客とする老舗の製菓店などが発達した。
- 香川育英会・東京学生寮
ユニセフハウス |
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せんぽ東京高輪病院 |
[編集] 岡の下に存在する主要な建築物
高地価を有効利用するために近年は超高層の住宅が建設されている。
[編集] 岡の上に存在する教育機関
文教地区でもある。ただし敷地面積を大きく取れないので、小さな規模の短大以下が主である。
枝光会付属三田幼稚園 |
[編集] 岡の麓に存在する教育機関
- 慶應義塾大学三田校舎(三田二丁目)
- 慶應義塾中等部(三田二丁目)
- 慶應義塾外国語学校
明治学院大学 |
明治学院高等学校 |
慶應義塾女子高等学校 |
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清泉女子大学 |
[編集] 公園・児童遊園
[編集] 岡の上に存在する公園
江戸時代丘陵全体に大名屋敷(主に外様大名)が立ち並び、その屋敷は明治時代に皇族、華族、政府の顕官の屋敷として払い下げられ、現在、その跡地が公園として市民に開放されている。そのような歴史的経緯により敷地面積が大きく、風光明媚な場所が多い。
[編集] 岡の麓に存在する公園
岡の下には江戸時代、下級御家人の住居、町人街が存在し、区画整理により残された飛地、御家人の長屋跡が変遷を経て公園として整備されている。このような歴史駅経過から敷地面積は岡の上のそれに比べ狭いものが多い。
[編集] 名所・旧跡
[編集] 岡の上に存在する名所・旧跡
「最初のフランス公使宿館跡」 |
「歯科医学教育発祥之地の碑」 |
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[編集] 岡の麓に存在する名所・旧跡
- 品川宿本陣跡
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「最初のイギリス公使宿館跡」 |
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「荻生徂徠墓」 |
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[編集] 岡の麓に存在する駅
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