木曾氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
木曾氏(きそし)は、平安時代末期は源義仲によって一時期は京都に政権を築いたこともある信濃源氏。戦国時代の木曾氏は、木曾義仲の子孫と称した信濃国木曾谷地域の国人。
目次 |
[編集] 木曾氏
[編集] 木曾義仲
源義仲は源義朝の弟の源義賢の息子で、源頼朝や源義経とは従兄弟に当たる。父の義賢は1155年、源氏の身内同士による勢力争いで、義朝の長男の源義平に殺された。このとき、わずか2歳だった義仲は斉藤実盛に助けられて信濃の豪族の中原兼遠に預けられることとなった。
兼遠のもとで成長した義仲(駒王丸)は、1180年9月、頼朝の挙兵から1ヵ月後に平清盛に対して挙兵した。翌年には平家の命令を受けて信濃に侵攻してきた越後の豪族・城長茂の大軍をわずかな寡兵で撃退したことから、その勇名は瞬く間に全国に伝わり、義仲は信濃から越後、さらには北陸全土に勢力を拡大することとなった。
1183年4月、平家は平維盛(清盛の嫡孫)を総大将とした10万の大軍を北陸に送り込んでくる。最初は平家軍が大軍であることから木曾軍は敗戦を重ねたが、5月の倶利伽羅峠の戦いで義仲は平家軍を撃破・壊滅し、その勢いをもって7月には平家都落ちの後に上洛を果たし、ここに木曾政権が成立したのである。
ところが義仲は軍事的には天才だったが、政治家としては三流だった。配下の武将である今井兼平や樋口兼光らも軍人としては勇将であったが、政治家としては無能だった。このことが災いして、木曾軍は都において兵糧の確保を理由に略奪や暴行を働き、都の人々からの評判を落とした。さらに義仲は後白河法皇とも新帝擁立問題(安徳天皇に代わる天皇問題で、義仲が北陸宮を推挙したのに対し、後白河法皇は後鳥羽天皇を擁立した)から法皇とも対立し、その支持を失い始める。
しかも、都落ちしていた平家も平知盛(清盛の四男)を中心にして軍勢を再建し、再び勢力の巻き返しを図る。このため、義仲は配下の武将の足利義清と海野幸広らを派遣するが、備中水島の戦いで木曾軍は平家軍に大敗してしまう。これにより義仲は完全に法皇の支持を失う。すると義仲は苦し紛れに法皇に対してクーデターを起こして法皇を幽閉し、1184年正月には法皇より征夷大将軍(朝日将軍)に任じられた。
しかしこのような義仲の常軌を逸する行動、都での略奪、平家軍との大敗などは、完全に周囲からの孤立を招いた。そして1184年、弱体化していた木曾軍は、法皇の命令を受けて上洛してきた源頼朝の弟の源範頼と源義経を大将とした軍勢に宇治川の戦いで敗れ、義仲は近江国の粟津にて討たれてしまったのである。その後、義仲の遺児で、頼朝の人質として鎌倉にいた木曾義高も殺されている。
[編集] 戦国時代
南北朝時代、信濃国木曾谷に勢力を保つ木曾氏という在地豪族がいた。この木曾氏は自ら、木曾義仲の末裔であると称していたが、実際のところはかなり疑わしく、近年では木曾氏が僭称していたという説が有力となっている。木曾氏は、戦国時代には信濃の有力な国人として小笠原長時や飛騨の姉小路氏(三木氏)らと対立し、木曾義在の頃には全盛期を迎えた。
しかし義在の嫡男・木曾義康の頃から甲斐の武田信玄による侵攻を受けるようになる。義康は村上義清や小笠原長時らと手を結んで信玄と戦ったが、次第に劣勢に追い込まれて降伏し、その配下となった。このとき、信玄は木曾氏が美濃と信濃の国境という重要地を支配することから、その存在を重く見て、義康の嫡男である木曾義昌に三女の真竜院を娶わせ、親族衆として厚遇している。この経緯から、義昌は信玄存命中は忠実だったが、信玄没後にその後を継いだ武田勝頼とは不仲で、1582年に勝頼がとんでもなく重い賦役を課してきたことに激怒し、遂に勝頼を見限って織田信長に通じた。そして同年、木曾口から侵攻してきた織田信長の軍勢により、武田氏は滅亡する。この功績により、義昌は信長より安曇・筑摩の二郡を加増された。
信長の死後、義昌は一時期は羽柴秀吉に与したが、やがて徳川家康の家臣となる。家康が関東に移ると、下総国内に1万石を与えられた。1595年に義昌は死去し、その後を嫡男の木曾義利が継ぐ。しかし義利は叔父の木曾義豊(上松義豊)を殺害したことから家康の激怒を買い、改易されてしまったのである。
[編集] 一族
[編集] 木曾氏(河内源氏義賢流)
[編集] 信濃木曾氏一族
[編集] 家臣団
[編集] 義仲時代
[編集] 戦国時代
- 山村良利
- 山村良候
- 山村良勝