梅嶺院
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梅嶺院 (ばいれいいん、寛永20年6月11日(1643年7月26日) - 宝永元年8月8日(1704年9月20日))は忠臣蔵で有名な高家吉良上野介の正室。俗名上杉富子。上杉家から吉良家に嫁いだ。
上杉定勝(第三代出羽国米沢藩主)の四女として誕生。母は鍋島勝茂(佐賀藩主)の娘。幼名は参姫(三姫)。万治元年(1658年)4月14日、高家旗本吉良義冬の公子吉良義央に嫁いだ。30万石の国主大名上杉家の姫が、四位の高家とはいえ石高で言えば4200石しかない旗本に嫁ぐというのは大変異例であった(実際富子の姉たちは佐賀藩主鍋島光茂や加賀大聖寺藩主前田利治など大名に嫁いでいる)。家臣たちの間にも反対論も出たようだが、この縁組は幕命であったため動かせなかった。
吉良家に嫁いだ後、富子と改名。義央との間には二男四女に恵まれた。長男吉良三之助(のちの上杉綱憲)は、上杉綱勝の養子に入って上杉家を相続し、長女鶴姫は、上杉綱憲の養女に入って、そこから70万石の島津綱貴(薩摩藩主)に嫁いだ。三女阿久理姫と四女清姫も、綱憲の養女となり、それぞれ旗本津軽政兕と旗本酒井忠平(忠平は急死したため、かわって公家大炊御門経音)に嫁いでいる。また次男吉良三郎と次女振姫は夭折した。とくに次男吉良三郎の死は吉良家に世継ぎがいなくなったことを意味していたため、元禄元年(1688年)12月に義央と富子の長男上杉綱憲の次男上杉春千代(吉良義周)を養子に迎えた。
上杉家の力に頼るところが大きい吉良義央は、当然のことながら妻の富子をことのほか大切にした。元禄元年(1688年)に所領の吉良庄で大規模な新田開発が行なわれたが、これは、富子が眼病を患って、その治癒の祈祷のため身延山久遠寺に赴いたとき、もし自分の病気が快癒すれば同寺の七面天女を一生の守り本尊とすることと、夫の領地に新田を開いて供養することを請願したのだが、このあと、本当に富子の眼病は直ったため、義央が、妻の請願を実行するために新田開発を行なわせたものであった。そのため、この新田は「富好新田」と名づけられている。また吉良家の剣客として知られる清水一学は、もともと吉良の領地で暮らす農民であったが、彼を士分に取り立てて、吉良邸で働かせるように義央に勧めたのも富子であったといわれる(富子は一学に無き息子三郎の面影を見たのだという)。義央は妻が望むことは可能な限り叶える大の愛妻家であった。富子付きの侍女・浅尾局、丹後局、染岡、寺島、浮橋、三輪野などの吉良家に嫁ぐ前から富子に仕えている中臈や、おはな、おやえ、おきく、おまるなどの小姓までにも気配りを欠かさなかったと言う。
元禄14年(1701年)3月14日、江戸城中で夫の吉良義央が赤穂藩主浅野内匠頭長矩に斬り付けられた。浅野長矩は切腹改易になったものの、にわかに吉良家と浅野家遺臣たちの間で緊張状態が発生し、8月19日、幕命により吉良家の屋敷は、江戸城のお膝元の呉服橋から本所松阪町へ移された。この時、なぜか富子は義央に同道せずに上杉家の芝白金の下屋敷へ移っている。浅尾局、丹後局ら中臈衆と小姓と共に上杉下屋敷に移った富子は上杉家の中臈の藤波、高野他小姓10名ほどを義央の世話係りとして本所松坂の吉良邸に入らせている。(中臈二人は討ち入り二日前に富子のいる芝白金の上杉家下屋敷に戻っている。小姓10名は討ち入り寸前で吉良邸を離れ難を逃れた。)「浅野も腹を切ったのだから、貴方も腹を切ってはどうか」などと言って義央と不仲になったという俗説があるが、実際には討ち入りがあった場合に彼女の身に危険があるといけないと案じた吉良義央自身が上杉家へ行くよう指示したのではないかと見られている。事実、元禄15年(1702年)12月の討ち入りで夫義央が死去した後、彼女は落飾して梅嶺院と号して夫の菩提を弔っている。宝永元年(1704年)夫の後を追うように上杉家下屋敷で死去した。
- 吉良邸討ち入りの際、父を助けると吉良邸に乗り込もうとした綱憲に「この母を殺してから行きなされ!!」と言い綱憲を断念させた。