藤沢秀行
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藤沢秀行(ふじさわ ひでゆき、しゅうこう、1925年6月14日 - )は囲碁の棋士。本名は保(たもつ)。その後秀行に改名、本来の名前はひでゆきだが、しゅうこうと呼ばれることが多く、秀行先生の名で親しまれている。日本棋院所属、福田正義門下。1998年引退。藤沢一就は実子、また藤沢朋斎は年上ながら甥に当たる。門下に天野雅文、高尾紳路、森田道博、三村智保、倉橋正行らがいるが、この他にも合宿などで依田紀基・結城聡・坂井秀至ら多数の若手棋士を育てており、中国・韓国棋士も含め藤沢を師と仰ぐ者は多い。来るものは誰でも拒まずに受け入れた研究会、『秀行塾』は有名。
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[編集] 経歴
- 1925年 横浜市で、69歳の父重五郎と23歳の母きぬ子との間に誕生する。
- 1934年 日本棋院の院生となり、福田正義五段に入門。
- 1940年 初段。
- 1943年 三段時に秀行に改名。若手時代は「丸太ん棒を振り回す」ような碁(安永一)と評された。
- 1948年 青年選手権優勝。山部俊郎、梶原武雄とともに「戦後三羽烏」「アプレゲール三羽烏」と称され、また「異常感覚」との形容も付けられた。
- 1957年 第1期首相杯優勝。
- 1959年 日本棋院第1位決定戦(現碁聖戦)優勝。
- 1960年 最高位戦優勝。
- 1962年 13名から成る第1期旧名人戦リーグで、9勝3敗の成績で初代実力制名人の座を獲得する。
- 1965年 プロ十傑戦優勝。
- 1967年 王座位獲得。
- 1968年 プロ十傑戦優勝
- 1968年 王座優勝。
- 1969年 NHK杯優勝。
- 1969年 早碁選手権戦(現JALスーパー早碁戦)優勝
- 1969年 王座位獲得。
- 1970年 旧名人位獲得。
- 1976年 天元位獲得。
- 1977年 棋聖戦を獲得。第一期から六連覇により、初代名誉棋聖の称号を得る。しかしこの間アルコール依存症が進行しており、七番勝負前になると必死の思いで断酒をし、防衛を果たすとまた酒漬けになるという日々が続いた。
- 1981年 NHK杯優勝。
- 1983年 趙治勲に敗れ、棋聖の座を譲り渡す。この直後胃ガンが発見され、切除手術を受けた。この後喉頭ガン、前立腺ガンと3度のガンに見舞われることとなる。
- 1991年 羽根泰正を3-1で降し、王座のタイトルを獲得。翌年には小林光一を相手に防衛を果たし、史上最高齢(67歳)タイトルの記録を塗り替えた。
- 1998年 老齢を理由に引退を発表。
- 1999年 日本棋院とは別の独自の段位免状を発行し、物議を醸した。この事で日本棋院から除名処分とされるが、2003年に復帰した。
- 2005年 NHKテレビで「にんげんドキュメント 無頼の遺言~棋士・藤沢秀行と妻モト」放映。
[編集] 第1期名人位
1952年頃より日本棋院理事を務め、1960年には渉外担当理事となる。日本棋院の財政基盤改善策として名人戦創設を図る。読売新聞との契約をまとめ、1961年から第1期名人戦が開始、最高位タイトルを持っていた秀行も13人のリーグ戦に参加する。翌年8月の最終局まで9勝2敗のトップを走っていたが、最終局で橋本昌二に敗れて9勝3敗となり、呉清源-坂田栄男戦の勝者とプレーオフとなると思われた。しかし呉-坂田戦は呉の白番ジゴ勝ち(コミ5目)でとなり、当時の規定でジゴ勝ちは正規の勝ちより下位とされていたため、藤沢の第1期名人位が決まった。
[編集] 棋風・人柄
棋風は豪放磊落であり、厚みの働きを最も良く知ると言われた。ポカ(うっかりミス)で好局を落とすことも多かったが、「異常感覚」とも称される鋭い着想を見せ、「序盤50手までなら日本一」とも言われた。
一方で酒・賭博・女など凄まじい遊び方でも有名で、ガン手術以前はアルコール中毒の禁断症状と戦いながらの対局を重ねていた。しかしこうした「最後の無頼派」とでも称すべき藤沢の人柄を愛する者は多く、政財界に多くの支持者を抱えるほか、日中韓の若手棋士からも非常な尊敬を受けている。この勝負師を影で支えた妻・モトは著書『勝負師の妻—囲碁棋士・藤沢秀行との五十年』で彼を襲った数々の難局について述べている。 また書道の方でも豪放な作品を発表しており、各地で個展を開いているほか、1992年には大相撲の貴闘力の化粧まわしに「気」の文字を揮毫、厳島神社などにも作品が奉納されている。
[編集] 若手育成
自分の門下生以外にも多くの若手棋士の育成に力を注いだ。昭和30年代には、阿佐ヶ谷の自宅で、茅野直彦、当時十代であった林海峰、大竹英雄、工藤紀夫、高木祥一、小島高穂ら十数人による月2回の研究会を行なっていた。これにはその後、さらに若い世代の安倍吉輝、福井正明、酒井猛、石田章、中村秀仁らが加わる。続いて1969年、不動産業のために代々木に事務所を開いたが、ここでも若手棋士が集まっての研究会が行なわれ、林海峰、曺薫鉉、四谷にあった木谷道場の石田芳夫、加藤正夫、武宮正樹、趙治勲らが集まり、事務所を閉じる1978年まで続いた。1980年からは、入段したばかりの依田紀基、安田泰敏、院生の藤沢一就、小松英樹らで第三次研究会を始め、場所もよみうりランドの自宅に移した。この研究会はその後も弟子の森田、三村、高尾の他にも人数が増え、1984年からは年に2回の合宿を行うようになる。このメンバーは秀行軍団などとも呼ばれる。
1981年からは研究会のメンバーとともに訪中し、中国の棋士との手合や指導を行うようになる。これには聶衛平、劉小光、江鋳久、曹大元、若手の馬暁春、張文東らが参加した。この毎年1987年までと、それ以後の断続的な訪中は、中国の実力レベル向上に大きく寄与したと言われている。
1999年に行われた引退三番碁では、第1局(4月16日)で常昊、第2局(4月30日)で曺薫鉉、第3局(5月14日)で高尾紳路と、日中韓の棋士が対戦相手を務めた。
[編集] エピソード
- 父は相場師として名を挙げた人物で、賭博にも熱中したが囲碁でも三段の免状を持っていたとされる。
- 首相杯、日本棋院第一位決定戦、旧名人戦、早碁選手権、天元戦、さらに棋聖戦までも第1期の優勝を果たしており、「初物食いの秀行」といわれた。
- 多額の借金を抱えていた時期の第2期棋聖戦では加藤正夫に1勝3敗と追い込まれ、第5局開始前には「負けたときに首を吊るため」枝振りのよい木を探しながら対局上に向かったという。この後で藤沢は一手に2時間57分という記録的な大長考を払った末、加藤の白石を全滅させ気迫の勝利を収めた。
- 女性関係も派手で、愛人の家に入り浸って自宅に3年もの間帰らなかったこともあった。用事ができて帰らなければならなくなった際、自宅への行き方がわからず妻を電話で呼び出して案内させたという。
[編集] 著書
- 『芸の詩 棋聖秀行囲碁放談』日本棋院 1978年
- 『勝負と芸 わが囲碁の道』岩波書店 1990年
- 『藤沢秀行全集』日本棋院 1994年
[編集] 参考文献
- 小西泰三「波瀾万丈 裸の秀行」(『棋道』1994年5-12月号)