街宣右翼
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街宣右翼(がいせんうよく)とは主に街宣車を使って右翼的活動をしている任侠系右翼の団体で、警察用語では行動右翼と呼ばれる。一般的な呼称はあくまでも右翼団体である。(右翼団体の細かな分類については右翼団体の項を参照のこと) 街頭宣伝活動を行わず、警察に捕捉されていないが、右翼思想を抱いている人物は「潜在右翼」といい、右翼予備軍に含まれる。街宣活動はしないが公安警察に把握されている右翼は、非任侠系であり、思想右翼と呼ばれ、右翼を思想的に見た場合は、思想右翼こそが右翼の正統派といわれる。
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[編集] 右翼と街宣活動
警察庁は、1960年の安保闘争による共産主義革命への危機感を背景に行動右翼団体が誕生したとしている(任侠系の所謂「反共抜刀隊」である)。同庁は、1999年の調査で、街宣活動を行っている右翼は約900団体約1万人とみなしている。1990年の『知恵蔵』には約50団体2万2000人とあるという。
街宣車で街宣活動を始めた右翼は、戦前には国会議員も務めた大日本愛国党総裁の赤尾敏が元祖とされている。
民族派右翼団体「一水会」の代表を務めた鈴木邦男は、右翼なら必ず街宣車を持ち、街宣活動を行なうとしている。右翼団体数の800団体はほぼ街宣車の数と一致する。なお、新右翼系の維新政党・新風や、財界系の日本会議、統一協会系の国際勝共連合なども街宣活動を行なっている。
[編集] 街宣活動の内容
大音量で音楽(主として軍歌。『出征兵士を送る歌』(作詞・生田大三郎 作曲・林伊佐緒)であることが多く、他に力強い曲調・歌詞の音楽を流す場合もある。極稀ではあるが、おふざけのつもりかガッチャマンの歌(作詞:竜の子プロ文芸部、作曲:小林亜星、編曲:ボブ佐久間)や宇宙戦艦ヤマト、機動戦士ガンダム等アニメソングを流す場合もある)を流しつつ、天皇の称揚や、国粋主義的な戦前への回帰を指向した言論を展開する。また、旧ソ連や中国といった日本に隣接する共産主義諸国の批判やそれに関係する政治家に対する批判、北方領土返還の主張、左翼政党の主催する集会や日本教職員組合の大会への抗議、稀に襲撃するなどの行為も行なう。
街宣活動を行なう右翼の言い分では、軍歌を流すのは演説の代わりである。無音でただ街宣車を走らせても街頭宣伝にならないため、軍歌を流して示威活動をするのだという。また、50人が徒歩でデモ行進をするよりも、街宣車を50台走らせる方が効果的だというのが街宣車が好まれる理由だとされる。
[編集] 偽装右翼
右翼本来の政治活動以外にも、社会活動として、不祥事を起こした企業に対して抗議活動を行なう団体も一部にはある。解決策として企業側が利益を供与することがあり、これが企業に対する恐喝事件として摘発されることがある。これをもって、街宣活動をする右翼とは、暴力団や総会屋の隠れ蓑に過ぎないという見方をされることもある。これらの団体を否定的に偽装右翼とも営業右翼とも言う。なお、否定的ニュアンスをこめずに、単に暴力団系の右翼団体を指す場合、任侠系右翼という呼称が使われることが多い。任侠系右翼には稲川会系の大行社、 住吉会系の大日本朱光会、山口組系の日本皇民党、住吉会系の日本青年社があり、行動右翼と呼ばれる一方、国政選挙への出馬を行なったことがある。
警察庁は、2004年の広報誌「焦点 警備警察50年」 (html式)、(pdf式)で、1970年代以降に取り締まりを逃れるため、暴力団が政治結社を結成したとの見方を示している。そして、バブル崩壊や暴力団対策法によってシノギが減った者が新たに右翼活動へ接近したとしている。つまり、偽装右翼は、えせ同和行為と同様に、その形態を恐喝や脅迫といった経済的な利益に利用する人々の集団との考えである。
歴史的には、暴力団と右翼組織との関わりは大正期より存在する。原敬首相と床次竹次郎内相が支援して組織された博徒と土建系任侠の全国的組織である「大日本国粋会」は6万名の会員を擁したとも言われ、国体護持と日本の共産化阻止を掲げて、暴力的な直接行動を行なった。労働争議介入、ストライキ破り、部落解放運動攻撃など、時の財閥、政界、軍部は資金的な援助を行なった対左翼の民間暴力装置と位置付けられた。八幡製鉄、大阪市電争議のストライキ破り、奈良県下での水平社との衝突事件を起こしている。他にも大日本正義団、東海聯盟など大正期に任侠系の右翼組織が組織され、数々の事件を起こしている。1945年に第2次世界大戦が終わると、1950年までに、日本反共聯盟、日本反共同志会、日本天狗党などの任侠系右翼団体が結成されている。
[編集] 「街宣右翼」を巡る解釈
一般においては街頭宣伝活動を行なう右翼団体を単に右翼と称するのに対して、ウェブ上においては行動右翼が街宣右翼といわれる事が非常に多い。これはインターネットコミュニティで保守寄りの書き込みをする者達が、自分達や自分達の支持する保守派知識人及び団体と、前述した様な手法で世間の反感を買う右翼団体を区別する為に作った造語といわれる。しかしながら、単に街宣右翼の語が文字通りでわかりやすいため、警察用語である行動右翼よりも普及しやすかったこともあり、使用者の多くは前述の意図を持っていない。
[編集] 工作活動説
更に、街宣車の威圧的な言動は天皇や愛国心に否定的な印象を与える為に在日朝鮮人の右翼による工作活動だという陰謀論めいた指摘まで行われている。その根拠としては、彼らの政治的主張がしばしば排外的な様相を見せるにも関わらず、彼らから韓国に対する批判が聞かれなかったり「日韓友好」など韓国政府と親睦を深める主張がされている点、排外的な主張とは相容れない筈の在日コリアンが構成員として少なからず所属している点、宇土口問題の様な特定の民族が関係している事件には殆ど言及しない事などがあげられる。
[編集] 工作活動説に対する反論
しかし実際には「竹島の日」を制定した街宣右翼団体をはじめ、九州地方の多くの街宣右翼団体、正氣塾などの数多くの街宣右翼が韓国の竹島領有について街宣活動を繰り広げており、反共産主義の立場から、戦後は一貫して日米安保体制と大韓民国を支持してきた右翼団体が、近年になって韓国への批判を強めている事実もある。
警察白書によれば、竹島の帰属問題をめぐっては、1996年以降、述べ数百団体が数百台の街宣車を用いて全国各地で街宣活動を展開し、韓国大使館への車突入、韓国総領事館付近への火炎瓶投擲といった事件を引き起こした。河原博史・同血社会長のように、自らの小指を切断して盧武鉉韓国大統領に送りつける者もいた(盧武鉉韓国大統領宛勧告文送付)。韓国大統領来日時にも、靖国神社や歴史教科書問題への抗議のために延べ数十団体が韓国を批判する街宣活動をした。在日コリアンの権利拡大にも反対し、永住外国人に対する地方参政権付与問題、地方公共団体における公務員の国籍条項撤廃について反対する街宣活動を行なった右翼団体があることを警察白書は報告している。実際、大行社のホームページのトピックには中国だけでなく韓国・北朝鮮に対する批判と警戒感が表されている。
また、“彼ら在日コリアンは差別により真っ当な職業に就けないため、必然的に、実力のみが評価される世界(裏社会の他に芸能界、プロスポーツなど)に身を置くのだ”とする反論がある。これは長らく通説であったが、工作活動説の登場により、それに対する反論として援用されている。
以上の理由から、街宣右翼から韓国に対する批判が聞かれないとは、ただの印象操作との指摘もある。
[編集] 在日外国人の構成員
任侠系の行動右翼の構成員には在日コリアンが少なくない、とはよく指摘される。根拠として辛淑玉が英語版アサヒコムの「Korean activist braces for `storm of fascism'」で右翼の中に多数のコリアンがいると触れていること(但し辛はどの位そうであるのかについてはコメントしていない、むしろ日本社会における差別をこそ指摘している)、またネット上でしばしば援用されるものに、BBCが「右翼団体構成員の大半は在日コリアンと被差別出身者が九割を占める」等と報道したという番組の存在があげられる(ネット上では多くの場合、菊紋と共に“韓日友好”とリヤゲートにペイントされた武相育成塾の街宣車の写真と共に流布される。)しかし、「BBCの番組」については、タイトルや放映日時など何一つ不明で未だに一切明らかになっていないため、信憑性に欠ける原典不明の怪文書扱いされており、前述の街宣車の写真もまたコラージュであるとの指摘もある。
現実にもオウム真理教の村井秀夫幹部を殺害したとして自称右翼の男が韓国籍であることなどが報道され、右翼団体に所属する在日コリアンがいるのも確かである。しかしその一方で、右翼団体における在日コリアンの構成の割合について、過去に網羅的、定量的な調査が行なわれた事実はないため、街宣右翼にどの程度の在日・帰化朝鮮人が含まれているのかは不明である。
[編集] 街宣屋
広島県警察は、「街宣車の威力を背景に、不当な利益等を得、又は得ようとする者」を「街宣屋」(がいせんや)と定義し、2003年11月、専用の相談電話「街宣屋等相談電話」を設置している。また、広島県は2005年、「広島県不当な街宣行為等の規制に関する条例」を制定した。
[編集] 日本右翼とアジア大陸諸民族の関係
戦前からの右翼の流れには、西洋文明に対抗してアジアが大同団結するアジア主義が潮流としてあり、右翼は孫文の革命運動への支援を行ってきて、中国大陸へ渡ったりもしていた。当時、日本統治下で皇民化教育を受けて育った朝鮮人の中には、この「日本を盟主としてアジア諸民族は団結せよ」(頭山満と玄洋社、内田良平と黒龍会)との主張に共鳴する者が少なからずいた。例えば、極真空手の大山倍達はこの世代である。
右翼団体の主張が排外的とするのは一面的な見方であると言える。思想右翼の民族主義に対して行動右翼の思想的基盤は反共主義にあるため、「反共・反北朝鮮」であっても「反米・反大韓民国」とは限らないからである。「反体制・反米」を旨とする民族派右翼や新右翼とは異なり、任侠系の行動右翼の主張は、反共を国是としている韓国、そして日本政府・自民党と根本的に対立するわけではなく、事実、行動右翼は、北朝鮮貨客船万景峰号の日本入港に対して、在日本大韓民国民団と共同して、1970年代より(1990年代からは北朝鮮に拉致された日本人を救う会とも共同して)抗議行動を行っているという。
これらの事情に目をつけたのが吉田茂内閣で法務総裁を務めていた木村篤太郎である。共産主義運動に手を焼き、1960年の日米安保条約改定に向けて警察力の整備に不安を抱いていたことから、20万人の暴力団を組織化して共産主義に対抗する「愛国反共抜刀隊構想」を発案した。これを受けて暴力団に顔の効く右翼の大物児玉誉士夫が動き出した。児玉は自民党の結党資金も提供したと言われる政界のフィクサーとも呼ばれる人物であった。この構想を機に、テキヤ系組織は東京街商組合、日本街商連盟を結成して、総裁に自民党院外総務海原清平を迎え、また一方の博徒系組織も日本国粋会を結成して、暴力団組織の再編が進んだ。この構想自体は吉田の承認を得られずに流れる(木村の復古主義を嫌ったと言われる)が、現在では右翼と暴力団の一体化を進める原動力になったとの評価がある。事実、木村は37の右翼団体を「朋友会」として糾合、保安隊(当時、のちの自衛隊)支援圧力団体として使ったという。児玉はその後、右翼と暴力団による1963年に東アジアの諸民族の団結を謳う「東亜同友会」の結成を画策。児玉が働きかけた暴力団の中には在日韓国人で組織する町井久之の東声会もあった。町井は朝鮮戦争時は北朝鮮シンパと抗争し、GHQ参謀第2部に雇われて、ストライキ破りを行なうなどした。反共活動に最も熱心だったのは彼らだったと言われる。
東西冷戦下の反共思想とは別に、政治的無関心も在日コリアンの右翼活動を可能とする見方もある。かつて右翼団体が暴走族をリクルートすることが話題になったが、右翼団体が暴力団や総会屋のようなアウトローの受け皿となり、政治的主義主張とは無関係に右翼活動を単なるシノギとして構成員は割り切っているとの推測である。
また、ある社会における少数派出身者が極度に保守的・伝統的立場を取ることがあるとして、これは少数派出身者がある社会に受け入れられるために、忠誠心を見せようとすることがある。例えば第二次世界大戦時の日系アメリカ人が、第442連隊戦闘団の奮闘等でアメリカ合衆国に対する忠誠心を見せた事は、其の最たる例だと言えるし、他国の日系人も日本国に対して忠誠心を持ってるとは言い難い。また、行動右翼ではないが、日本に帰化した新井将敬が「元北朝鮮人」と石原慎太郎に言われながらも自民党に属し、国を守るための改憲論議を主張した事等も挙げられる。新井の他にも国士的言動で知られる在日コリアンには元プロレスラーの前田日明がいる。さらに、日本に好意的な在日コリアンでも、呉善花(のち日本に帰化)のように、工作員呼ばわりされることがほとんどない人物も存在する。