長崎電気軌道
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
長崎電気軌道株式会社(ながさきでんききどう)は、1914年(大正3年)8月2日設立の軌道事業者である。本社所在地は長崎県長崎市大橋町4番5号。1915年(大正4年)11月16日、病院下(現・大学病院前)~築町間の電気軌道(路面電車)を開業し、現在、5路線4系統を営業する。以前はバス事業も行っていたが、1971年に長崎自動車(長崎バス)に事業譲渡して撤退している。通称は電鉄、長崎電鉄。地元住民の間では電車という名称もよく使われている(JRを"JR"、"列車"または"汽車"と呼び区別している)。電話帳にも「長崎電気軌道」以外に「長崎電鉄」という表記で記載されている。なお資料によっては長崎電軌という略称を用いているものもあるが、あまり一般的ではない。
目次 |
[編集] おもな歴史
- 1914年8月2日 : 設立
- 1915年11月16日 : 病院下(現・長崎大学付属病院正門登り口付近)~築町間(現・1系統路線)開通、営業開始
- 1916年12月27日 : 千馬町(現・築町―出島間)~大浦海岸通間開通
- 1917年6月4日 : 大浦海岸通~石橋間(現・5系統路線)開通
- 1919年12月25日 : 長崎駅前~桜町間(現・3系統路線)開通
- 1920年7月9日 : 桜町~諏訪神社前間(現・3系統線)開通
- 1920年7月9日 : 病院下~下の川(現・長崎西洋館付近)間(現・1、3系統線)開通
- 1920年12月25日 : 古町(現・公会堂前―諏訪神社前間)~築町間(現・5系統線)開通
- 1921年4月30日 : 西浜町~思案橋間(現・4系統線)開通
- 1933年12月25日 : 下の川~大橋間(現・1、3系統線)開通
- 1934年12月20日 : 諏訪神社前~蛍茶屋間(現・3、4、5系統線)開通
- 1945年8月9日 : 原爆投下、全線不通、車両16両焼失、職員120人死亡。
- 1945年11月25日 : 運行再開(現・1系統の長崎駅前から蛍茶屋)
- 1947年5月16日 : 原爆で壊滅的被害を受けた浦上駅前~大橋間が復旧、病院下に迂回していた旧線を廃し、現在の浦上駅前~浜口町を結ぶ直線ルートの新線に。
- 1950年5月7日 : 大橋~住吉間(現・1、3系統線)開通
- 1953年4月1日 : バス事業に参入
- 1960年5月7日 : 住吉~赤迫間(現・1、3系統線)開通
- 1968年6月17日 : 思案橋~正覚寺下間(現・1、4系統線)開通
- 1971年3月1日 : バス事業を長崎自動車に譲渡
- 2003年 : 超低床電車3000形を導入、専用ダイヤを設ける。
[編集] 経営体制
長崎市は狭隘な谷間に線状に市街地が形成され、面的広がりを持たない。これは、公共交通機関を運営するにあたり集客の面で有利な条件である。
また、均一制運賃の採用、車両や線路の敷石などを他の企業から譲り受け、カラー電車、電車内の広告などの宣伝料により黒字経営を実現している。
その、運賃は1984年(昭和59年)6月1日にそれまでの90円から100円(子供は50円)に改定して以降、値上げを行っていない。1989年の消費税導入や1997年の増税の際も、「10円の値上げは便乗値上げになる」として、消費税は転嫁されずに100円のまま据え置かれた。さしずめ100円均一運賃のコミュニティバスの先駆者的な存在とも考えられる。今後、バリアフリー対応やICカード、運行情報管理システムなどの導入で経費の増大が見込まれるが、できる限り値上げしないとの意志表明を行っている。100円運賃20年
また長崎市内の主な観光地に行ける為、観光客・修学旅行生の利用も多い。
またそれらの観光利用者は1日500円の「1日乗車券」を利用するケースも多い(500円という金額は他の都市の同様のフリー切符よりは若干安いが、元の金額が1回100円のため6回以上乗らないと得にならず割高になるケースもある。他の都市の同様の切符では大体3~4回の乗車で元が取れるものが多い)。
さらに好経営状況もあってか、日本の路面電車事業者としては唯一、路線の廃止が行われていない。
長崎市北部、滑石方面への延伸計画があるが、道路幅の制約、建設費といった問題があり、進展していない。
2007年より、順次長崎スマートカードを利用できるようにする予定である。
[編集] 運転
下記の5系統が運行されている。
- ■1系統(青) 赤迫~住吉~浦上車庫前~長崎駅前~築町~西浜町~正覚寺下(約5分間隔)
- □2系統(白) 赤迫~住吉~浦上車庫前~長崎駅前~築町~西浜町~公会堂前~蛍茶屋
- ■3系統(赤) 赤迫~住吉~浦上車庫前~長崎駅前~桜町~公会堂前~蛍茶屋(約6分間隔)
- ■4系統(黄) 蛍茶屋~公会堂前~西浜町~正覚寺下(約8分間隔)
- ■5系統(緑) 蛍茶屋~公会堂前~西浜町~築町~石橋(約7分30秒間隔)
- 2号系統は深夜往復1便ずつ運行しているのみで、時刻表などでは廃線に近い扱いとなっているが、越年運転時には深夜に約8分間隔で運転される。
- 昔は赤迫~石橋(7系統)も運行されていたが、廃止されている。
- このほか、出入庫系統として、浦上車庫前~赤迫の運行や、イベント時の臨時列車として赤迫、浦上車庫前~築町などの運行もある。
[編集] 路線
下記の5路線計11.5kmを有している。全線軌間1435mm、直流電化(600V)
- 本線
- 住吉~正覚寺下間 6.9km(全線複線)
- 電停:
- 本線・赤迫支線の運転経路は長崎自動車の主要路線と競合している。このため、道の尾・滑石・時津・長与方面から長崎市内へ通っている通勤通学客は、朝は赤迫で路面電車に乗り換える(夕方はその逆)ケースが目立つようになっている。
- 2005年(平成17年)6月1日から長崎自動車が大学病院線を運行の際、大橋電停に横付けするようなかたちでバスを運行している。
- 岩屋橋-浜口町間は併用軌道ではなく専用軌道である。
- 線路の構造としては桜町 - 公会堂前(長崎警察署前の電停) - 公会堂前(長崎市民会館前の電停) - 賑橋へと接続することも可能になっているが、この路線は精霊流しなどで大波止方面が通行止めになったときの臨時便でしか使用されない。
- 「古町支線」と記載されている資料も存在する。
- 築町電停は1号系統と5号系統の相互乗り換えが可能。この際、乗り継ぎ券を発行することにより2便あわせて運賃100円での利用が可能。
- 蛍茶屋電停は折り返し可能な島式1面2線の電停。線路はそのまま車庫へ繋がっている。
[編集] 車両
- 87形(元西鉄福岡市内線花電車)
- 150形(元箱根登山鉄道小田原市内線200形)
- 160形(元西鉄福岡市内線1系)
- 201形
- 202形
- 211形
- 300形
- 360形
- 370形
- 500形
- 600形(元熊本市電170形)
- 700形(元都電杉並線2000形)
- 1050形(元仙台市電モハ100形)
- 1200形
- 1300形
- 1500形(西鉄北九州線600形の機器流用車)
- 1700形(700形の機器流用車)
- 1800形(西鉄北九州線600形の機器流用車)
- 2000形(1980年製の軽快電車)
- 3000形
[編集] 日本初・日本一
- 日本初の車体広告(カラー電車、1964年)
- 日本初の商業ビル内を走る路面電車(浜口町―松山町間の長崎西洋館)
- 日本一安い運賃(一律100円)
[編集] カラー電車(車体広告)
日本で初めて車体広告(現在のラッピングフィルムによるものではなく、塗装によるもの)を採用した公共交通機関である。1964年スタート。初のスポンサーは鐘紡だった。地元企業から全国的に有名な企業のものまで数多くのパターンがある。特に有名なのは1500形・1506号車の日清チキンラーメン号である。ただし、最新鋭の3000形は車体広告の実績がない。契約は月単位で、号車によってはデザインがめまぐるしく変わるものもある。なかでも1801号は「じゅうはちがいちばん」と語呂合わせできるため十八銀行が頻繁に使用している。2004年度から長崎電気軌道の主催でカラー電車の人気投票も行われている。
[編集] バス事業
長崎電鉄バスの通称で、戦後に開始された。
しかし、主要路線をライバルである長崎自動車に押さえられた影響もあり、バス事業の経営は思わしくなく、ついには長崎電気軌道本体の経営不振へとつながっていった。経営陣はこのままではバス事業・路面電車事業ともに共倒れになると考え、1971年3月1日にバス部門を長崎自動車へ完全譲渡して、路面電車に一本化した。
[編集] 外部リンク
日本の路面電車 | |
---|---|
公営: | 札幌市 | 函館市 | 東京都 | 熊本市 | 鹿児島市 |
準公営(第三セクター): | 富山ライトレール | 万葉線 |
民営: | 東京急行電鉄 | 豊橋鉄道 | 富山地方鉄道 | 福井鉄道 | 京阪電気鉄道 | 京福電気鉄道 | 阪堺電気軌道 | 岡山電気軌道 | 広島電鉄 | 土佐電気鉄道 | 伊予鉄道 | 長崎電気軌道 |