アントニン・レーモンド
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
アントニン・レーモンド(Antonín Raymond, 1888年5月10日 - 1976年10月25日)はチェコ出身の建築家。フランク・ロイド・ライトのもとで学び、帝国ホテル建設の際に来日。その後日本に留まり、モダニズム建築の作品を多く残す。日本人建築家に大きな影響を与えた。
目次 |
[編集] 生涯
プラハ工科大学で学んだ。第1次世界大戦に従軍した後アメリカに渡り、ライトの事務所に入所。1919年帝国ホテル設計施工の助手として来日。1922年独立し、レーモンド事務所を開設する。ライトの影響が余りに強烈であったため、そこから抜け出すのに苦労したという。聖路加国際病院などの設計をフォイエルシュタイン(Bedřich Feuerstein オーギュスト・ペレの弟子)と共同で行ったほか、ル・ランシーの教会堂(ペレの代表作)をコピーした東京女子大学礼拝堂を建設した。ペレを介してライトの影響から逃れ、モダニズム建築の最先端の作品を生み出すようになった。
前川國男、吉村順三、ジョージ・ナカシマなどの建築家がレーモンド事務所で学んだ。1937年に僧院宿舎建設のため、インドに向かった後、日本を取り巻く国際情勢が緊迫悪化したため、一時アメリカに帰る。アメリカ軍少将カーチス・ルメイは焼夷弾の効果を検証する実験のため、砂漠に東京下町の木造家屋の続く街並みを再現したが、この際、日本家屋のデータを提供したのはレーモンドであった。ナチス・ドイツの母国チェコへの迫害と、帰米前に受けた外国人排斥と日本の軍国主義化に対する鬱憤のためであったという説もある。この実験は東京大空襲などで生かされた。(戦後、この点を一部の日本人建築家らから批判を受ける。)
第2次世界大戦後の1947年にダム建設予定地の調査のため再度来日。その後、新たに事務所を開設し、モダニズムの理念に基づく秀作を多く残している。
[編集] 作品
- 東京女子大学総合計画(東京都杉並区/1921年)
- 霊南坂の家(東京都港区/1923年/現存しない)
- 聖心女子学院 修道院および教室(東京都港区/1924年)
- 旧星商業学校(現 星薬科大学/東京都品川区/1924年)
- エリスマン邸(横浜市中区/1926年/元町公園内に移築)
- 小林聖心女子学院本館(兵庫県宝塚市/1927年/登録有形文化財登録)
- 旧ライジングサン石油会社社宅(現 フェリス女学院10号館/横浜市中区/1927年)
- 旧イタリア大使館日光別邸(栃木県日光市/1928年)
- 聖路加国際病院(1928年/装飾のないデザインが不評を買い、レーモンドは建設途中で解雇。J.V.W.バーガミニーが引継いで完成させた。)
- トレッドソン邸 (栃木県日光市/1930年)
- アメリカ大使公邸(東京都港区/1931年)
- 夏の家(長野県軽井沢町/1933年/移築後、現 ペイネ美術館)。ル・コルビュジエの計画案を取り入れ、コルビュジエから盗作だと指摘を受けた(後に和解)。
- 小寺別邸(長野県軽井沢町/1934年)
- 旧聖ポール教会(現 聖パウロカトリック教会/長野県軽井沢町/1934年)
- 東京女子大学礼拝堂及び講堂(東京都杉並区/1934年)
- ポンディシェリーの僧院宿舎(インド/1937年)
- ニューホープの家(アメリカ/1939年)
- リーダーズダイジェスト東京支社(1949年/現存しない/現在の毎日新聞東京本社、パレスサイドビルの位置に所在)
- レーモンド自邸(麻布笄町の家)(1950年/現存しない/この作品を模範に建設された旧井上房一郎邸(高崎市)がある。(現高崎哲学堂))
- レーモンドホール(三重県津市/1951年/登録有形文化財登録)
- カニンガム邸(東京都港区/1953年)
- 聖アンセルモ目黒教会(東京都目黒区/1954年)
- 聖アルバン教会(東京都港区/1955年)
- 群馬音楽センター(1958年)
- 立教新座高等学校 校舎および聖パウロ礼拝堂(埼玉県新座市/1961年)
- 札幌聖ミカエル教会(札幌市東区/1961年)
- 軽井沢の新スタジオ(長野県軽井沢町/1962年)
- 南山大学総合計画(名古屋市昭和区/1962年)
- 新発田カソリック教会(新潟県新発田市/1962年)
- 神言神学院(名古屋市昭和区/1964年)
[編集] 著書
- 私と日本建築
- 自伝