イースター島
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公用語 | スペイン語 | ||
中心地 | ハンガロア | ||
ラパ・ヌイの知事 | |||
面積 - 総計 |
163.6km² |
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人口 - 総計(2005年) - 人口密度 3,791 人 /km² |
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通貨 | ペソ | ||
時間帯 | UTC | ||
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ラパ・ヌイ(Rapa Nui)は、チリ領の太平洋上に浮かぶ火山島。。正式名は、スペイン語でパスクア島(Isla de Pascua)。英語ではEaster Island、日本語では「イースター島」と呼ばれることが多い。モアイの建つ島として有名。ポリネシア・トライアングルの東端に当たる。周囲には殆ど島らしい島が存在しない絶海の孤島である。ラパ・ヌイとはポリネシア系の先住民の言葉で「広い大地」という意味。
目次 |
[編集] 地理
位置は、チリの首都サンティアゴから西へ3,700km、タヒチから東へ4,000kmの太平洋上に浮かぶ。島の全周は60kmほどで、面積は180平方kmである(北海道利尻島とほぼ同じ)。小さな火山島。島全体が、ラパ・ヌイ国立公園として国立公園に登録されている。また1995年に世界遺産に登録されている。
島の周辺海域はペルー海流が渦巻き、宛ら蟻地獄の様相を呈している。そのため、近海は海産資源豊富な漁場(とくに片口イワシ)になっている。
[編集] 歴史
4世紀頃から、同じポリネシアのマルケサス諸島から渡ってきた人が、イースター島に暮らすようになったといわれている(年代については3世紀から9世紀まで諸説あり、はっきりしていない)。化石や花粉の研究から、当時のラパ・ヌイは、世界でも有数の巨大椰子が生い茂る、亜熱帯性雨林の島であったと考えられている。初期のヨーロッパ人来航者は、「ホトゥ・マトゥア」という首長が2艘の大きなカヌーでラパ・ヌイに入植したという伝説を採取している。
10世紀頃から、モアイの製作が始まる。当時彼らの作ったモアイや墳墓、石碑など考古学上極めて重要な遺跡が数多く残されている。人口も増加し、最盛期では1万5千人を超えていたと見られる(人口についても6千人から3万人まで諸説あり)。
その後、モアイ製作やカヌー製造、農耕の拡大などで伐採が進み、島全体から森林が消えてしまう。その結果、表土が流出し、農地は荒れ果て、また木材が不足してカヌーの生産にも支障が出たことから大規模な飢餓が発生。そのためもあり、16世紀から17世紀にかけて部族間の紛争が起こり、モアイの破壊合戦が起こる(一説ではあるが、耳長族がモアイの製作を行っていた耳短族に無理な要求を行い、それに反発した耳短族との間で、 モアイ倒し戦争が勃発したと伝承されている)。この時代、人口は激減し、伝承によれば人肉食さえ横行していたとされる。
1722年、オランダ海軍提督、ヤコブ・ロッゲフェーンが発見。発見した日がイースターであったため「イースター島」と名前が付いたといわれている。1774年には、イギリス人探検家ジェームス・クックも上陸している。クックの上陸当時は、島のモアイの半数ほどがまだ直立していたという。なお、伝承では1840年に最後のモアイが倒されたとされる。
18世紀から19世紀にかけて、住民らが奴隷として連れ出されたり、外部から持ち込まれた天然痘が猛威を振るったりした結果、島の人口はさらに激減し、先住民は絶滅寸前まで追い込まれた。1872年当時の島民数は、僅か111人であった。
1888年、チリ領になる。
[編集] 文字
ラパ・ヌイの住民はポリネシアで唯一文字を持っていた可能性がある。ロンゴロンゴ文字と呼ばれる絵文字がこれに当たる。この絵文字は板や石に書かれ、過去多数存在したようであるが、宣教師らが「悪魔の文字」であるとして破壊したため、現在はわずか25枚しか存在しない。したがって、解読も難しいとされている。 ロンゴロンゴ文字はインダス文字との類似性を指摘されている。ただ、現存する資料は全て西洋人との接触後に書かれたものとみられており、ラパ・ヌイの先住民が最初に外国から来た船で西洋人と接した時、文字の存在を知り、その有効性を学び、そこから自らの文字を真似て作り上げたとする説も極めて有力である。そのため、ロンゴロンゴ文字をポリネシアの書記言語と断定することはできない。よって、学術的には、あくまでも一つの可能性という範囲に留まっている。
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
- ジャレド・ダイアモンド、『文明崩壊-滅亡と存続の命運を分けるもの-(上巻)』、楡井浩一訳、草思社、2005年。
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