ウィーン少年合唱団
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ウィーン少年合唱団(de:Wiener Sängerknaben)は、1498年神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世により、宮廷礼拝堂少年聖歌隊として創設された、500年あまりの伝統をもつ少年合唱団。
元々14から20人ほどの少年たちの主な任務は、宮廷音楽隊の一員として礼拝堂でのミサ曲の演奏にあった。1918年、第一次世界大戦終結とともにオーストリア=ハンガリー二重帝国が瓦解すると、庇護者はいなくなり少年聖歌隊は1度自宅に帰されてしまうが、1921年、経営手腕を買われ宮廷音楽隊の総長に任命されたヨーゼフ・シュニット神父が、伝統ある団体の維持に乗り出した。古い宮廷少年聖歌隊は1924年に「ウィーン少年合唱団」として公式に団体として創設され、今日まで専門的な音楽活動が強化されている。合唱団は私立の全寮制学校の形をとり、1948年以降は練習場および寄宿舎、学校として、ウィーンのアウガルテン宮殿内が利用されている。
今日では約100名の少年がウィーン少年合唱団で歌っている。ウィーン少年合唱団のメンバーは、演奏会用に約25人づつ4つのグループに分けられ、それぞれ年に2、3ヶ月ほどの演奏旅行に出かける。現在でも王宮礼拝堂でのミサが主な任務であることに変わりはなく、いくつかのグループが演奏旅行で世界各地へ出かけている間でも最低1グループはウィーンに残り、毎週日曜日の礼拝堂でのミサでは欠かさず演奏している。児童たちには専らソプラノとアルトしか見当たらず、少年たちは声変わりの後では退団を余儀なくされる。
少年たちは早くから堅実な音楽教育を受け、ほとんど場合にその後の人生に重大な影響を受けている。そのため、彼らの多くが職業音楽家として活躍するようになった。歴史上の作曲家では、ヨーゼフ・ハイドン、ミヒャエル・ハイドン、シューベルト、ブルックナーなどの出身者・関係者がいる。1952年には、男声合唱団コルス・ヴィエネンシス(羅語:Chorus Viennensis)が創設された。そこでは専ら、かつてのウィーン少年合唱団員が活躍しており、たびたびウィーン少年合唱団とも共演を重ねている。
第二次世界大戦後の全盛期は1960年代から1980年代であった。それ以降は、歌唱技術において、かつての水準を下回っていると言わざるを得ない。これには、外貨獲得を狙った頻繁な演奏旅行、ポピュラー音楽の大幅なレパートリー化など、現在の指導者層に商業主義的傾向が加速していることも無縁ではあるまい。
[編集] ウィーン少年合唱団をテーマにした映画(日本公開作品)
- 『野ばら』 (原題 "Der Schonste Tag meines Lebens"。出演:ミハエル・アンデ。1957年。※日本でDVD発売)ドイツ
- 『いつか来た道』 (共演:山本富士子、和波孝禧(当時14歳)、小林勝彦、シュタットマン・ヴォルフガンク(団員)、他、来日団員総出演。1959年。大映作品。※来日した時に本格的に出演。地方ロケにも参加)日本
- 『ほがらかに鐘は鳴る』 (原題 "Wenn Die Glocken Hell Erklingen"。出演:ミハエル・アンデ、ヴィリー・ビルゲル、テディ・レーノ、ロニー・フリードル、エレン・シュヴィアース。1959年。※日本でDVD発売)ドイツ
- 『青きドナウ』 (原題 "Almost Angels"。スティーヴ・プレヴィン監督作品。1962年)アメリカ