ウワディスワフ・シュピルマン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
クラシック音楽 |
---|
作曲家 |
ア-カ-サ-タ-ナ |
ハ-マ-ヤ-ラ-ワ |
音楽史 |
古代 - 中世 |
ルネサンス - バロック |
古典派 - ロマン派 |
近代 - 現代 |
楽器 |
鍵盤楽器 - 弦楽器 |
木管楽器 - 金管楽器 |
打楽器 - 声楽 |
一覧 |
作曲家 - 曲名 |
指揮者 - 演奏家 |
オーケストラ - 室内楽団 |
音楽理論/用語 |
音楽理論 - 演奏記号 |
演奏形態 |
器楽 - 声楽 |
宗教音楽 |
メタ |
ポータル - プロジェクト |
カテゴリ |
ウワディスワフ・シュピルマン(Władysław Szpilman, 1911年12月5日ソスノヴィェツ - 2000年7月6日)は、ユダヤ系ポーランド人のピアニスト、作曲家。
ワルシャワのショパン音楽院でピアノを学び、20歳の頃にドイツのベルリンに音楽留学をするが、1933年、ヒトラーが政権を掌握したことにより2年でポーランドへ帰国。ワルシャワでポーランド放送のピアニストとして音楽家活動を始める。
1939年にヒトラーのポーランド侵攻により第二次世界大戦が勃発。ドイツ占領下のポーランドでナチス・ドイツによるユダヤ人への大量虐殺(ホロコースト)を目の当たりにする。家族全員が絶滅収容所送りとなり、ワルシャワ蜂起後の廃墟を逃亡する中を、ドイツ軍の将校ヴィルム・ホーゼンフェルト大尉によって命を救われた。
戦後はポーランド放送へ復職。1946年に戦時中の体験をまとめた「ある都市の死」を出版し、2002年にはこれを原作とした映画『戦場のピアニスト』(原題:The Pianist)が公開された。
2000年に脳溢血で入院中に死去。
世界中で2000回以上の演奏活動を行なうとともに、戦前から戦後にかけて、数多くの映画音楽、管弦楽作品、大衆歌、ポピュラー音楽を作曲して、ポーランドの大衆音楽史にその名を残した。
長男のクリストファー・W・A・スピルマンは日本近代右翼思想の研究者で、九州産業大学教授。
カテゴリ: ポーランドのピアニスト | ポーランドの作曲家 | 1911年生 | 2000年没