カール6世 (神聖ローマ皇帝)
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カール6世(1685年10月1日-1740年10月20日)は、ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝(在位:1711年 - 1740年)、ハンガリー王、ボヘミア王。レオポルト1世と皇后エレオノーレ・マグダレーナの次男でヨーゼフ1世の弟。マリア・テレジアの父。
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[編集] 生涯
1700年、スペイン王カルロス2世が病死した。カルロスには男児が無かったため、スペイン・ハプスブルク家は断絶した。そのため、カールの父レオポルト1世は、カルロス2世の後継者としてカールを送ろうとした。しかしカルロス2世は生前、フランス王ルイ14世の孫アンジュー公フィリップ(フェリペ5世として即位)を推薦していたため、ここにスペイン継承戦争が起こった。これはイギリスやオランダなどが、フランスがスペインを併合することで欧州のバランス・オブ・パワーが崩れることを恐れたためである。1708年、ブラウンシュヴァイク家のエリーザベト・クリスティーネとバルセロナで婚礼を挙げる。ところが1711年、カールの兄ヨーゼフ1世が死去してしまうと、情況が大きく変わった。ヨーゼフ1世には継嗣が無く、カールがカール6世として皇位を継ぐことになったのだ。こうなると、もしカールがスペイン王位を継承すれば、かつてのカール5世のような欧州の広大な領土に君臨する強大な皇帝の出現となり、パワーバランスがやはり崩れてしまう。そこで1713年、イギリスなどはフランスとスペインとが併合されないことを条件として、フェリペ5世の即位を認めることにしたのである。こうしてカール6世はスペイン王位を断念せざるを得なくなった。
その後カールは対外戦争に力を注ぎ、南部ネーデルラント(現在のベルギーなど)からミラノ公国などに勢力を拡大する。またサヴォイア公国との間でシチリアとサルデーニャの交換が成立し、その際サヴォイア公ヴィットーリオ・アメデーオ2世にサルデーニャ王の称号を認めた。さらにオスマン帝国のアフメト3世と戦ってこれに勝利し、1718年のパサロヴィツ条約でオスマンからベオグラードを奪い、ハプスブルク帝国の最大版図を築き上げた。
ハプスブルク家ではそれまで所領の分割相続が行なわれ、家領の統治の一体性が損なわれてきた。そのためカール6世は1713年、国事詔書を出して領土の分割禁止と長子相続を決定したのである。しかし妃との間にはなかなか子に恵まれず、ありとあらゆる治療を試み、ついに1716年にカール6世の唯一の男児レオポルトが誕生するが1歳に満たずに夭折。その後は女児しか誕生せず、長女のマリア・テレジアを後継者にするしかなくなった。このため1724年、再び国事詔書を出してマリア・テレジアを家領の相続者に定めた。
内政においては重商政策を採用して財政を潤わした。また、自身が文化人でもあったことから音楽・建築・美術を保護したが、晩年にも対外戦争は続けられて財政は悪化した。1733年にポーランド継承戦争に参戦し、ロンバルディアを得たが、スペインにシチリアを奪われた。
ウィーンへ留学に来ていたロートリンゲン公子フランツ・シュテファン(のちの皇帝フランツ1世)を息子代わりと思ったのか大変気に入り、勉学のために来た彼を趣味の狩猟に頻繁に誘う。娘のマリア・テレジアも彼を心から愛するようになり、1736年2人は華燭の典を挙げた。なお政治的にも影響力のあったオイゲン公は結婚相手にプロイセンのフリードリヒ(後の「大王」)を推挙していた。また1737年には、イタリアでトスカーナ大公国のメディチ家が断絶すると、大公位はフランツ・シュテファンが継承した。フランスとの交渉で、フランツとマリア・テレジアの結婚を認めるに当たって、フランツがロートリンゲンを放棄する見返りに与えられたのである。
1740年、カール6世は狩猟の際突如腹痛を訴え、闘病の末56歳で崩御した。死因は胃癌と推定されている。国事詔書に基づいて娘マリア・テレジアがハプスブルク家の家督を継いだが、これを巡ってオーストリア継承戦争が勃発することとなる。
[編集] 子女
皇后エリーザベト・クリスティーネ(愛称リースル、ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公ルートヴィヒ・ルードルフの娘)との間には4子がいるが、成人したのは2人だけである。
- レオポルト・ヨーハン(1716)
- マリア・テレジア(1717 - 1780) - ハンガリー女王、ボヘミア女王、オーストリア大公、神聖ローマ皇后。通称「女帝」
- マリア・アンナ(1718 - 1744) - ロートリンゲン公子(ネーデルラント総督)カール妃
- マリア・アマーリア(1724 - 1730)
[編集] 人物
- 男児にこそ恵まれなかったが、皇后エリーザベト・クリスティーネを「白き肌のリースル」と呼びこよなく愛した。
- 家臣の忠告を無視し、娘に政治家としての教育を施さず、また大した軍事力を残さなかったために、各国から侵攻を受けた際、マリア・テレジアは非常に苦労した。
- 死の直前まで男児誕生(ただし娘マリア・テレジアの子=孫)を夢見ていた。なおカールの死亡時にマリア・テレジアは第4子を懐妊中であったが、この時の子こそ待望の男児ヨーゼフであった。
[編集] 関連項目
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