ゲオルギー・マレンコフ
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ソビエト連邦第3代最高指導者
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任期: | 1953年3月6日 – 1953年3月14日 |
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出生日: | 1902年1月13日 |
生地: | オレンブルク州 |
死亡日: | 1988年1月14日 |
没地: | |
政党: | ソビエト連邦共産党 |
ゲオルギー・マクシミリアーノヴィチ・マレンコフ(Георгий Максимилианович Маленков, Georgy Maximilianovich Malenkov, 1902年1月13日(ユリウス暦1月8日) - 1988年1月14日)は、ソビエト連邦の政治家であり、ソ連共産党の指導者である。スターリンの重要な側近であり、スターリンの死後、1953年3月から1955年2月までソビエト連邦の首相を務めた。
[編集] プロフィール
マレンコフは、ロシアのオレンブルク州で生まれた。1919年には、赤軍の政治将校になっている。 その1年後には、共産党に正式に加入し、スターリンの腹心の一人となった。
1930年代後半には、ラヴレンチー・ベリヤとともにスターリンの大粛清に加担し、その功で1939年3月党中央委員会書記となり、1941年には政治局員候補となった。たが、その後ベリヤとは政敵になった。
1941年6月独ソ戦が開始されると国家防衛委員会の委員となり、各戦線の戦力の組織化に尽力した。
第二次世界大戦後の1946年、党中央委員会政治局の正局員に昇進し、また1947年に閣僚会議副議長(副首相)となった。その後政敵であったアンドレイ・ジダーノフやベリヤによって追い落とされたが、ジダーノフの失脚によりすぐにスターリンの腹心に戻った。べリヤはマレンコフの傘下に入り、彼らは「レニングラード事件」なるものを捏造し、ジダーノフの同調者をすべて強制労働収容所に追放した。
1953年のスターリンの死により、マレンコフは首相兼共産党筆頭書記となり、ソビエト連邦の最高指導者となった。 しかし、集団指導体制を構想したマレンコフはすぐに共産党筆頭書記にニキータ・フルシチョフを任命した。副首相兼内相となったベリヤは、スターリン批判を展開したが、マレンコフはそれを支持しなかった。この行動はフルシチョフにとっても承認できるものではなく、ベリヤは逮捕され、処刑された。
マレンコフは首相の座にあった2年間、「核兵器は世界の破滅を招く」と宣言して、核兵器に反対する立場を表明した。このような西側との平和共存を模索する方針は強硬派から反発を受け、1955年2月には首相から辞任したが、政治局には留まった。しかし、1957年6月、ニコライ・ブルガーニン、ヴャチェスラフ・モロトフ、ラーザリ・カガノーヴィチらの「反党グループ」を主導して、フルシチョフを失脚さようとしたために、政治局からも辞職させられた。
1961年、共産党からも追放され、ソビエト連邦内を転々としていたが、彼は共産主義者でありつづけた。その後、彼の死まで、カザフスタンの水力発電所の指導者をしていた。
[編集] 関連項目
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カテゴリ: ソビエト連邦の政治家 | 1902年生 | 1988年没