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ヨシフ・スターリン - Wikipedia

ヨシフ・スターリン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

Disambiguation
"スターリン" は この項目 "ヨシフ・スターリン" へ転送されています。"スターリン" のその他の用法についてはスターリン (曖昧さ回避)をご覧ください。
ヨシフ・スターリン
Иосиф Сталин
ヨシフ・スターリン

ソビエト連邦第2代最高指導者
任期: 1922年4月3日1953年3月5日

出生日: 1879年12月9日
生地: グルジアゴリ (都市)
死亡日: 1953年3月5日
没地: モスクワ
政党: ソビエト連邦共産党
配偶: ナジェージダ・アリルーエワ(二度目の妻)


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ヨシフ・スターリンИосиф Сталин1879年12月9日グレゴリオ暦12月21日) - 1953年3月5日)は、ソビエト連邦政治家。本名は、ヨシフ・ヴィサリオノヴィチ・ジュガシヴィリ (Иосиф Виссарионович Джугашвили, グルジア語:იოსებ ჯუღაშვილი)。「スターリン」とはペンネームで、「鋼鉄の人」の意。

党内反対派や「反革命分子」に対し粛清と称して過酷な抑圧政策をとったことで知られる。しかし、旧ソ連では祖国をドイツナチ政権)から守った英雄と認識している人も少なくなかった。

ボリシェヴィキ(ソ連共産党)の書記局長に就任し、党員名簿と経理を掌握することで実権を握り、のちの権力の地盤を築いた。ロシアでは総書記に当たる語で呼ばれる。レーニンの死後、トロツキーブハーリンなどライバルや反対派の粛清を経て実質的な最高指導者となり独裁を行うようになった。スターリンの存命の頃は強力なプロパガンダによって、ソ連は共産主義の希望の星として憧憬の目が注がれていた。しかし、その死後はフルシチョフスターリン批判などにより、スターリンによる独裁の時代の政治体制や主張・理論は、スターリン主義として右翼陣営だけでなく左翼陣営からも否定されるようになり、共産主義者から批判・敵視された。

目次

[編集] プロフィール

[編集] 生い立ち

ヨシフは現在のグルジアゴリで、靴屋ヴィサリオン・「ベソ」ジュガシヴィリの息子として生まれた。彼の母親エカテリーナは農奴だった。他の3人の兄弟は幼くして死に、「ソソ」や「コバ」と呼ばれたヨシフはただ一人の子供だった。ヨシフは酒に酔った父親にしばしば厳しく鞭で打たれた。当時のロシアでは、鞭打ちは子供をしつけるための容認された方法であった。

ヨシフの家の近所に、ダヴィド・パピスメドフ(Давид Паписмедов/ David Papismedov)というユダヤ人がいた。パピスメドフはヨシフに金銭と本を与えて激励した。数十年後、パピスメドフは、ヨシフ少年がどうなったか知るためにクレムリンを訪れた。ヨシフは初老のユダヤ人を歓待し幸福に歓談することで、同僚を驚かせた。

ヨシフの父親は、家族を残してトビリシに行ってしまった。ヨシフはゴリの教会学校に通ったが、14歳になるとトビリシ神学校への奨学金を獲得した。また、神学校の聖歌隊で歌うことで、僅かな俸給も支払われた。エカテリーナは、息子が聖職者になることをソ連の指導者になった後も望んでいた。

[編集] 社会主義運動

ヨシフの社会主義運動への参加は、神学校時代に始まった。1896年マルクス主義のサークルを組織、1898年にグルジア社会民主党に入党し、学校の試験に出席せず1899年に放校となる。その後はカフカース地方で政治的地下活動、活動資金調達のための現金強奪などを行い、1902年から1917年まで逮捕とシベリアへの追放が繰り返された。

[編集] 権力の掌握

1917年4月レーニンの帰国後、彼に次ぐ立場への支持をヨシフは得るも、同年11月7日のボリシェヴィキ革命における彼の役割は小さなものだった。彼はロシア内戦およびポーランド・ソビエト戦争中は赤軍の政治委員であった。ロシア内戦時は故郷のグルジアに派遣され、メンシェヴィキ勢力など「反革命分子」の掃討に力を揮った。ポーランド・ソビエト戦争においては、南西正面軍の政治委員としてリヴィウの占領に拘泥し、赤軍敗北の一因を作っている。

スターリンとレーニン(1919年)
スターリンとレーニン(1919年)

スターリンの最初の政府役職は民族人民委員としてであった。続いてソ連共産党政治局員となり、1922年4月には共産党中央委員会書記長に就任した。病床のレーニンを見舞うことによって信頼を取り付けていったスターリンであったが、レーニンの妻ナデジダ・クルプスカヤを、レーニンの政治活動への参加をめぐり激しく叱責したことからレーニンの不信を買う。そしてスターリン個人への権力集中にレーニンは警鐘を発し、見つかった手紙などから、レーニンがスターリンを批判したのはクルプスカヤへの叱責事件が原因だということがはっきりしている。レーニンは遺言で、「無作法な」スターリンへの罷免を要求した。しかしその要求は、中央委員会のメンバーによって伏せられた。

1924年1月にレーニンが死ぬと、スターリンはレフ・カーメネフおよびグリゴリー・ジノヴィエフと共に、左派のトロツキーおよび右派のニコライ・ブハーリンの間で党を管理した。

この期間にスターリンは従来のボリシェヴィキの理論、世界革命路線を放棄して一国で共産主義を構築する「一国社会主義」政策を支持した。彼はブハーリンと行動を共にし、まずトロツキー、カーメネフジノヴィエフと対立することとなる。五カ年計画の最初の年である1928年に、スターリンの権力は最高潮に達し、トロツキーは翌年に追放された。次いでスターリンは、ブハーリンをはじめとする党内右派の抵抗を抑え、集団農業化、工業化を推し進め党および国に対する管理を強めた。しかしながら、セルゲイ・キーロフのような他の指導者の人気が示したように、彼は1936年から1938年に行った大粛清まで、絶対的な権力を掌握することはできなかった。

[編集] 大粛清

スターリンは政治的、イデオロギー的反対者、ボリシェヴィキ中央委員会の古参党員を策略によって逮捕、追放し、1934年1月の第17回党議会においては過半数の代議員が彼の言いなりであった。見せしめの裁判あるいはトロツキーやレニングラードの政治局員セルゲイ・キーロフ暗殺の後に法律を改定し、強制収容所への収監と処刑が行われた。

スターリンとニキータ・フルシチョフ(1936年)
スターリンとニキータ・フルシチョフ(1936年)

キーロフは政治局員であり党エリートであり、その弁舌と貧困層への真摯な態度で大きな人気があった。彼はスターリンの忠実な部下であったが、いくつかの意見の相違もあり、多くの歴史家がスターリンは彼を潜在的な脅威として考えていたとする。実際、一部の党員は、スターリンの後継者としてキーロフに対し秘密裏にアプローチを行っていた。

1934年12月1日にキーロフは、レオニード・ニコラエフという青年によって暗殺された。ニコラエフは、スターリンの命令によって暗殺を実行した刺客と考えられている。キーロフの暗殺は、1936年から1938年まで続いた大粛清の前兆であった。

大粛清の犠牲者数は諸説あるが、裁判により処刑されたものは約100万人、強制収容所や農業集団化により死亡した人数は一般的には約2000万人と知られている。1997年の文書の公開により、少なくとも約1260万人が殺されたことを現政府のロシアが公式に認めた。しかしこれは一部分であり、全ての文書の公開はされておらず、公開されるのはさらに時が経つのを待たなければならない。とりわけこの時のシベリアへの農民移住は悲惨を極め、このことが同時期の大飢饉と無関係ではあり得ないが、正確な犠牲者数は未だに不明である。

また、大粛清にはトゥハチェフスキーを始め赤軍の高級将校の大部分も含まれており、実に将官と佐官の8割が反逆罪の名の下に殺害されたとされる。 」

[編集] 第二次世界大戦

独ソ不可侵条約に調印するヴャチェスラフ・モロトフ(後列中央はヨアヒム・フォン・リッベントロップとスターリン)
独ソ不可侵条約に調印するヴャチェスラフ・モロトフ(後列中央はヨアヒム・フォン・リッベントロップとスターリン)

第二次世界大戦開戦直前の1939年8月19日の演説でスターリンは、ドイツとのモロトフ=リッベントロップ協定に基づくソ連の政策転換を表明した。これ以降、ソ連はドイツと、イデオロギーの相違を超えた協力関係を結んでゆく。その手始めが、同年9月17日のポーランド侵攻であった。協定の秘密議定書に基づき、ソ連はポーランドの東半分を占領し、これを併合した。またスターリンは、この時に得たポーランド軍捕虜2万5千人を処分するよう命令し、彼らはカティンの森において射殺された。

その後、次第に独ソ間の対立は深まり、衝突は避けられないと認識するようになる。1941年5月、スターリンは人民委員会議議長(首相)を兼任し、党と政府の統一的な指導により、一刻も早い防衛体制の確立をめざした。その一方で、ドイツによる攻撃の開始を遅らせるため、従来通りドイツ側に軍事物資を供給し続けて時間を稼いだ。

しかしながら、1941年6月22日バルバロッサ作戦の開始によりアドルフ・ヒトラーは協定を破棄し、ソ連に侵入した。スターリンはこの情報を事前に掴んでいたが、ソ連は戦争に耐えうる状況になく、誤情報であると頑なに信じようとしていた。そのため、ソ連はドイツの侵入に対する準備が全く出来ていなかった。幾人かの歴史家によれば、スターリンは攻撃開始後も事実を認めることに気が進まないように思われ、数日間は茫然自失の状態だったという。

ドイツ軍は開戦初期にソ連領内に大きく進出し、何百万ものソ連兵を殺害もしくは捕虜にした。赤軍将校の大量粛清はソ連の防衛力を著しく衰弱させていた。その結果スターリンは彼の30年間の統治下で二度国内への演説を行った。最初は1941年7月2日、二度目は11月6日である。2度目の演説で彼は35万の兵士がドイツの攻撃によって戦死したが、ドイツ軍は450万人の兵士を失い(この数字に根拠はなく、不合理な過剰評価であった)ソ連の勝利は目前だと話した。結局日ソ中立条約で東方に配備していたシベリア軍を対独戦線に投入することが可能になり、ヒトラーの度重なる目標変更、米英による援助物資の到着、そして氷点下50度に達した冬将軍の到来もあってモスクワ前面でドイツ軍の侵攻を停止させ、1942年12月にはスターリングラードにおいてドイツ第6軍を包囲し、降伏させた。

スターリンの戦略家としての缺点が、ソ連の敗北と多くの市民の死に繋がったとされる一方、彼はボルガ川の東へソ連の工業生産を移動させることによって赤軍の戦争遂行能力を保持した。1942年7月27日のスターリンによる有名な死守命令「ソ連国防人民委員令第227号」は、彼が軍隊の規律を保持するために発揮した無情さを例証している。同指令によると、命令なしで自らの位置を離れたものは銃撃され、敵に降伏した兵士の家族はNKVDによって逮捕され、前線では兵士を後退させないため後ろに督戦隊の機関銃が設置された(しかしこの時期に赤軍はスターリングラード前面で大規模な戦術的後退を実施しており、同指令と明らかに矛盾する。主眼は大祖国戦争の意義の強調であり、独諜報機関へのかく乱工作の側面もあったものとされている)。スターリングラード防衛戦ではこの命令により1万4千人余りの兵士が自軍に銃殺された。実にこれは一個師団が丸々自軍によって消えたことを意味する。

戦争初期には、退却する赤軍がドイツ軍に利用されないためにと、インフラと食糧供給施設を破壊する焦土戦術を行った。後にドイツ軍も撤退時に同様の戦術を行い、かつ赤軍の兵力増強を避けるために住民を共に撤退させた。このために荒廃した土地のみが残る結果となった。

スターリンは、ドイツ軍と直面した他のヨーロッパの軍隊が完全に能力を失ったことに気づいていた。大戦の末期、1945年になるとスターリンはヤルタ会談に出席、同年ポツダム会談にも出席し、アメリカイギリスと戦後の処理について話し合った。

8月、アメリカが日本に対して相次いで原爆を投下した直後に、戦前より日ソ中立条約を結んでいたが、スターリンは、ヤルタ会談での他の連合国との密約、ヤルタ協約を元に日ソ中立条約を破棄し、対日宣戦布告をし、日本及び満州国に対して参戦した(8月の嵐作戦)。その後日本政府はポツダム宣言の受諾の意思を提示し、8月15日正午の昭和天皇による玉音放送(終戦の詔勅)をもってポツダム宣言の受諾を表明し、全ての戦闘行為は停止された。しかし、日本の領土を少しでも多く略奪することを画策していたスターリンはその後も停戦を無視し、南樺太千島・満州国への攻撃を継続させたことにより、その後の北方領土問題を引き起こす原因を作ることになった。

ソ連は第二次世界大戦における民間および軍事的損害の矢面に立った。2100万から2800万の国民が死に、その多くは若い男性だった。現在ロシアベラルーシおよび旧ソ連の国々では大祖国戦争として非常に鮮明に記憶され、5月9日の戦勝記念日はロシアの最も大きな祝日のうちの一つである。

[編集] 冷戦

毛沢東との友好関係を描くポスター
毛沢東との友好関係を描くポスター

第二次世界大戦後、赤軍は枢軸国の領域の多くを占領した。ドイツオーストリア国内にはソ連の占領地帯があった。また、チェコスロバキアポーランドは後者が形式的に連合国だったという事実にもかかわらず両国とも実質的にソ連占領下にあった。親ソ連政権がルーマニアブルガリアハンガリーにおいて樹立し、ユーゴスラビアアルバニアでは独自の共産政権が権力を掌握した。フィンランドは形式上の独立を保持したが政治的に孤立し、かつソ連に経済的に依存することとなった(フィンランド化)。ギリシャイタリアおよびフランスは、モスクワと緊密に連携した共産党の強い影響下にあった。スターリンは、ヨーロッパのアメリカ軍の撤退がヨーロッパ大陸におけるソ連の覇権に結びつくと考えた。しかしながらギリシャ内戦中の反共勢力へのアメリカ合衆国の支援は、状況を変更した。東ドイツ1949年に独立した国家と宣言された。さらにスターリンは、中央ヨーロッパの衛星国を直接コントロールする決定を下した。全ての国々は、ソ連の形式を踏襲した各国共産党によって統治されることとなった。

これらの決定は1948年にポーランド、チェコスロバキア、ハンガリー、ルーマニアおよびブルガリアの共産政権の路線変更に導かれた。これらは後に「共産主義ブロック」と呼ばれた。共産主義のアルバニアは同盟国のままだった。しかし、ヨシップ・ブロズ・チトー指導下のユーゴスラビアはソ連との国交を断絶した。

一方のアジアにおいては、第二次世界大戦の終結に伴う日本軍の撤退後に中国国内で行われていた国共内戦において、毛沢東率いる中国共産党を支援し、その勝利に貢献するとともに、朝鮮戦争の勃発の後押しを行うことで西側勢力との対立姿勢を強めていった。

「共産主義ブロック」の動きは、東欧諸国が西側に友好的であり共産勢力に対する緩衝地域を形成するだろうという西側諸国の希望と正反対となり、ソ連の共産勢力拡大に対する恐れで西側の結束を強固にした。ソ連と第二次大戦における同盟国だった西側との関係は急速に悪化し、冷戦による東西対立が引き起こされた。

[編集] プロパガンダ

スターリンを「偉大な指導者」として描いたプロパガンダポスター
スターリンを「偉大な指導者」として描いたプロパガンダポスター

国内では、スターリンは自らをソ連をナチス・ドイツに対する勝利ヘ導いた偉大な戦時指導者として宣伝し、その結果、1940年代の終了までに、強力なプロパガンダ活動によりソ連のナショナリズムは増加した。いくつかの科学的な発見はソ連の研究者によって「取り戻された」。例として、ジェームズ・ワット蒸気機関はチェレパノフ親子による発明とされ、トーマス・エジソン白熱電球はヤブロクコフとロディジンによる発明、グリエルモ・マルコーニ無線通信はポポフによるもの、ライト兄弟の飛行機はモジャイスキーによる発明とされた。

また、第二次世界大戦前から戦後にかけて、スターリンを偉大な戦時指導者として、また、多民族国家であるソ連の指導者として賞賛する多数の映画とポスターが製作された。

[編集] 死去

レーニン廟に置かれるスターリンの遺体
レーニン廟に置かれるスターリンの遺体

1953年3月1日ラヴレンチー・ベリヤゲオルギー・マレンコフニコライ・ブルガーニンおよびニキータ・フルシチョフとの徹夜の夕食の後、スターリンは寝室で脳卒中の発作で倒れた。

暗殺を恐れていたスターリンは、同じ形の寝室を複数作り、どの部屋を使うかを就寝直前に決めていた。寝室は鋼鉄の箱のような構造になっており、扉は内側から施錠すると、外から開けるには警備責任者が持つただ1本の鍵を用いるしかなかった。翌朝、予定時間を過ぎてもスターリンの指示がないことに警備責任者は不審を覚えたが、眠りを妨げられたスターリンの怒りを買うことを恐れて、午後になるまで何もしなかった。このために発見が遅れ、容態を重篤にしたと言われている。

発作は右半身を麻痺させ、昏睡状態が続いた。一時は意識を回復するも、重い障害のために意思の疎通ができなかった。4日後の1953年3月5日に危篤に陥り、73歳で死去した。死因は脳内出血として公式発表された。遺体は1961年10月31日までレーニン廟で保存され、その後クレムリンの壁に埋葬された。

[編集] 死因にまつわる噂

ラヴレンチー・ベリヤ
ラヴレンチー・ベリヤ

スターリンの死に関して、彼が殺害されたということが数名によって主張された。1993年に公表されたヴャチェスラフ・モロトフの政治回顧録では、ベリヤがスターリンを毒殺した事をモロトフに自慢したとの記述がある。

2003年にはロシアとアメリカの歴史研究家の共同グループが、スターリンはワルファリンを使用されたとの見解を発表した。またスターリンの娘であるスヴェトラーナは、スターリンが脳卒中で倒れた時、フルシチョフらがいたのにも関わらず医者を呼ばず、放置した事が死に繋がったと指摘している。信用はできないが、フルシチョフの回想録ではスヴェトラーナの証言とは正反対を記している。

2006年には、ロシアの週刊誌にて、ロシア公文書館で暗殺説を決定的に裏付ける証拠が発見されたと報じられた。その文書記録によると、内容は、倒れたスターリンに対する治療が毒物接種時に施される物で、当初言われていた症状での治療法では絶対にあり得ない治療法を施していたことなどが記されていた。これにより、スターリン暗殺説がほぼ決定的となったと結論づけている。

なお、スターリンが、モロトフ、ベリヤ、マレンコフ、フルシチョフら首脳陣を粛清する計画を練っていて、それを阻止するために上記の部下たちがベリヤを使ってスターリンを殺害、その後ベリヤは、口封じの為に殺されたという説がある。

[編集] 性格

1894年のスターリン
1894年のスターリン

スターリンは、ロシア帝国時代において少数民族と認識されていた、グルジア人である。身長が低く、加えて自身がグルジア人であるというコンプレックスは相当に強かったようである。人一倍コンプレックスを強く感じるゆえ、スターリンは異常なまでの権力欲、顕示欲の塊であり、その目的を達するためには全く手段を選ばなかった。他人を殺してもなんとも思わない冷酷な性格で、裏切り者を絶対に許さない不寛容であり、粛清した政敵の写真を見て悦に入りながらワインを飲んでいたという。

スターリンはもともと人間不信だったのだが、権力を得る過程において独裁者にありがちな人間不信が追加されることにより、猜疑心が極限までに加速する。この結果、パラノイアに冒され、常に命を狙われていると思い込むようになった。その典型例が、ユダヤ人が自分の命を狙っていると被害妄想をして、ユダヤ人の主治医を粛清しようとしたケースである。これは医師団陰謀事件として知られるが、スターリンの死とその後の再調査により、医師たちは死を免れた。

スターリンは、妻子などの近親者にも心を開くことはなく、多くの近親者も不幸な最期を迎えた(娘のスヴェトラーナだけは可愛がられたようである。後にそのスヴェトラーナがソ連を捨て米国に亡命したのは歴史の皮肉であろう)。独ソ戦の際、彼の長男であるヤーコフドイツ軍に捕虜にされた時も、ヤーコフの解放を条件にした交渉を提示してきたドイツに対して返答せず、結果としてヤーコフは、脱走を試みて射殺されることになった。空軍将官で次男のワシーリーは、1963年アルコール中毒で死んだ。

この性向は晩年に近づくほど酷くなった。さらに、晩年には痴呆も入り、スターリンの住居には厳重な警備が敷かれるようになった。スターリンの部屋は複数に分かれており、どこに泊まるのか誰にも知らされず、スターリンしか持っていない鍵を、部屋に何重にもしていた。フルシチョフの回想によると、同志との会話で、スターリンの部屋へ行くとまた鍵が増えているのだろう、と話していた。無論、勝手に入ろうものならば容赦なく粛清された。ちなみに、スターリンが部屋に入ってからまずやることは、ランプを持って部屋を隅々まで検査することであった。

権力の絶頂期には、部下に対して常に粛清をちらつかせながら接するようになった。スターリンの質問に「No」の返事をすると粛清。曖昧な返事でも粛清。スターリンは少年時代に、「目を逸らすことは何かを企んでいる証拠である」と叱られた経験を持っていて、これを忠実に覚えており、スターリンと会話をする時、目を逸らした者は粛清の対象となった。この為、共産党員、軍将校がスターリンと会話する時、必死に目を見たという。しかし、逆に部下と話す時は恐怖に怯えた顔で会話をしていたという。

スターリンが信頼できたのは、同じく絶対権力者であったフランクリン・デラノ・ルーズベルトぐらいであろう(逆にウィンストン・チャーチルには強い不信感をもっていたようである)。しかし、ルーズベルトは第2次世界大戦の終結を見ることなく他界した。以降、スターリンはアメリカによるソ連への侵攻にも怯えるようになった。

銅像
銅像

スターリンは、かつてのロシア最大の暴君、イヴァン雷帝を信奉していた。スターリンはイヴァン雷帝を自らの師と崇めていたが(スターリンが絶対権力の階段に登る過程は、規模が違うだけでイヴァン雷帝の手法を模倣したものである)、その粛清した人数はイヴァン雷帝のそれを遥かに凌駕するものだった。また、セルゲイ・エイゼンシュテインに雷帝の生涯を描かせた映画の製作を命じるも、第2部において、描写をめぐって対立。その際、イヴァン雷帝を演じていた俳優とエイゼンシュテインをクレムリンに呼びつけ、夜を徹して議論したという。一方で、スターリンはイヴァン雷帝の粛清の詰めの甘さを批判している。

また、スターリンは宿敵であるヒトラーに親近感を抱いていたと言われることがある。大戦末期に当時イギリスの外務大臣であったイーデンと会談した時、スターリンはヒトラーを賞賛するような発言をした。しかし、イーデンが唖然としているのに気が付いたスターリンは慌てて、

「ヒトラーは欲望の限界を知らないが、自分は満足というものを知っている」

と発言し、西ヨーロッパへの野心が無いことを表明したという。

[編集] 容貌

一般的に知られているスターリンの容貌は、益荒男な美男子であるが、これはプロパガンダ用の写真や絵(ロシア貴族風に描かれている)の影響であり、実際は全くと言っていいほど違う(金正日のプロパガンダ絵画と実物と同じくらい違う)。グルジア人である彼の目は釣り上がっており、『アジア人』という渾名をつけられていた。

スターリンを描いたプロパガンダポスター
スターリンを描いたプロパガンダポスター

スターリンに会ったことがある国連大使が言うには、「スターリンの顔は醜い痘痕顔であり、片手(左手)に麻痺がある風采のあがらない小男」であったという。片手の麻痺は少年時代の病気(後述の天然痘とも、それとは別の病気とも言われている)によるもので、ポツダム会談などでの映像をよく見ると、左手はまるで義手を装着しているかのようにほとんど動かない。つまり、拍手をしている写真や左手を動かしている写真の人物は、影武者である。さらに, 片方の足の指の一部がくっついていた。

また、スターリンの身長は163cm程度でこれを非常に気にしているため、シークレットブーツを履いており、写真で写る時は遠近法で大きく見せる為に必ず前の椅子で座っていた(余談だがヒトラーも173cmでドイツ人としては背が低くシークレットブーツを履いていたというが、真偽は定かではない)。『レーニンをミイラにした男』という本によると、スターリンの防腐処理を担当したデボフという男が言うには、スターリンの顔は天然痘によってできるあばたと茶色のシミでいっぱいで、プロパガンダ用の写真と絵とは大きくかけはなれており、衝撃を受けたということである。

なおヤルタ会談での映像を見ると頭頂部にハゲ(てっぺんはげ)があるのが確認できる。ただし、こうした会談に出てくるのは影武者だという説もある。

スターリンが天然痘に冒されたのは少年時代のことであるが、写真では確認できないものの、白黒の動いているスターリンのビデオをよくよく見てみると、顔がすだれているのが確認できる。しかし、レーニンの隣に遺体を展示されている時はプロパガンダのため、がっしりした体つきであばたも無くなっていた。

[編集] エピソード

  • 権力の絶頂期、よく側近を呼んでパーティを開いていたが、食事は、最初にとることは絶対にせず、部下に毒見をさせてから食べていた。
  • 車で移動する時、装甲車並みの車を必ず自分で運転をして、先頭車両を必ず取り、目的地に着くまでにランダムに迂回していた。
  • 猜疑心の強いスターリンはホー・チ・ミンと初めて出会ったとき、スパイと疑っていた。ホー・チ・ミンはスターリンに会えた感激で、スターリンにサインを求めたとき、不承不承に応じた。しかし、部下に命じてホー・チ・ミンの留守中にサインを強奪して取り戻し、ホー・チ・ミンが、サインがないことに気付いて慌てていた様を聞いて喜んでいた。
  • スターリンの趣味の一つに、映画鑑賞があった。アメリカの映画をよく取り寄せさせて側近達と観ており、側近の一人に翻訳をさせていた。しかし英語がわからぬ側近ばかりで、実際にはアドリブで適当な言葉をしゃべっていた。
  • スターリンは昼頃に起床し、午後から仕事を始めていた。そのため仕事が終わるのは午前1~3時の間が多く、さらに、仕事が終わってから部下を呼び出しパーティを開くということを頻繁に行っていた。側近は普通に仕事をしていたので、仕事が終わってからスターリンの呼び出しをくらい、朝まで付き合わされるということがしばしばあり、寝不足な部下が多かった。さらに、酒を浴びるほど飲むことがほとんど義務付けられるため、スターリンの側近は全員、腎臓や肝臓を患った。
  • 政権を握ってからは故郷のグルジアから多くのワインブランデージャムチーズヨーグルトなどの食材を取り寄せさせて、自分の母親の手料理にできるだけ近い味を再現させるよう料理人に要求した。
  • 長男のヤーコフがドイツ軍の捕虜となったときは「捕虜見殺し命令」を出した後で、スターリンは、息子が自分を困らせるためにわざと敵に捕まったのだと考えた。結局、他の捕虜同様、彼も父に見捨てられる形となった。スターリンは父親としての愛情を微塵も見せず、

「男なら堂々と死ねばよいのに」

と怒り、捕虜交換による釈放には一切応じなかった。が、後にジューコフがヤーコフの安否を聞いた時、

「あいつは死を選ぶだろう」

と沈痛な面持ちで話し、食事に手をつけなかった。程なくしてヤーコフは、収容所内で警備兵に銃殺されたのである。

  • 肉親にも冷酷なスターリンであったが、母親のエカテリーナだけには頭が上がらなかった。彼女は息子の計らいでカフカスの宮殿に住んだが、粗末な一室で質素な生活を続け、毎年のようにグルジアのジャムや果実をスターリンに送った。1935年、スターリンが、死が近付いた母に会いにカフカスを訪問した際、

「お母さん、僕はツァーリみたいな仕事をしてるんだよ」

と言うと、エカテリーナは、

司祭になってもらいたかったのにねえ」

と嘆息した。国民はこの母親の言葉に大層喜んだというが、

「どうしてお父さんは僕をあんなにぶったの?」 「そのお陰でお前はこんなにいい人になったんだよ」

という会話は伝えられていなかったという。

  • スターリンは、少年時代に父親から受けた虐待を忘れる事は出来なかった。彼の変名「コーバ」は、グルジアで広く読まれたアレクサンドル・カズベギ作による英雄物語の主人公の名で、その題名は「父殺し」といった。
  • 1938年3月15日、スターリンの盟友ブハーリンが処刑された。ブハーリンは死の直前、スターリンに最後のメッセージを送っていた。

「コーバ。なぜ私の死が必要か?」

の出だしで始まるこのメッセージは、スターリンが自身の机の抽斗に入れたまま、スターリンの死後まで公開されなかった。

  • 1936年、軍司令官ヤキールが処刑される直前、スターリン宛に冤罪を訴えるメッセージを送った。スターリンはそれに「悪党」、さらに「淫売」と書き込んだ。それに続けて、スターリンの部下達も彼を罵倒する言葉を次々と書き込んだ。後に彼が、

「スターリン万歳」

と叫んで銃殺された事を聞いたスターリンは、ヤキールを口汚く罵った。また、彼の境遇を哀れんで処刑時に不意に涙を流したと言われる銃殺隊長はしばらくしてその本人もまた処刑されてしまった。

  • 独ソ戦の最中、スターリンは将官を呼びつけて無理難題を強いた。そのときの返事次第では、スターリンの顔色が青ざめ残酷な目つきになった。特に瞳が黄色を帯びると、相手はどう返事してよいかわからなかった。
  • スターリンの猜疑心は、年とともに強まった。70歳の誕生日の祝いにベリヤが立派な別荘を贈呈し、スターリンはその別荘を見にいった。が、美しい樹木に囲まれているのが気に入らず、

「これは何かの囮かな?」

と言うなりさっさと帰っていった。その後、スターリンがその別荘に行く事は二度となかった。

「プロフェッサー・コニシをご存知かな。是非お会いしたいのですが」

コニシとは、京大教授である小西増太郎(1861~1940)のことで、留学中にモスクワの下宿で若き日のスターリンと部屋が隣で、親交を結んでいた。1940年の暮、小西は近衛文麿の密命を帯びてスターリンと面談するためロシアに渡ることに決まっていたが、その直前に急逝していた。スターリンはそのことを知らなかったようである。なお、野球解説者の小西得郎は増太郎の子息であり、その祖先は安土桃山時代の武将、小西行長であった。

  • 1945年6月24日、モスクワにて対ドイツ戦の戦勝パレードが行われた。ロシアの慣習では、勝利した司令官は騎乗する事になっていて誰もがスターリンにその栄誉が与えられると思っていた。だがその1週間前、スターリンは、

「私は年をとったので、乗れんよ」

と断り、ジューコフ元帥を指名した。翌日、ジューコフのもとにスターリンの次男ワシーリーが来て、

「ここだけの話ですが、昨日父は乗馬の稽古中に落馬して肩と頭を打ってしまった。父は忌々しげにつばを吐いてジューコフにさせろと言ったのです。その馬に乗るのです」

と告白した。ジューコフは感謝し、スターリンを振り落とした馬で練習を行い、本番で見事に乗り回した。

[編集] スターリンに関わる「名言」

  • 一人の人間の死は悲劇だが、数百万の人間の死は統計上の数字でしかない。とか友情などというものはすぐに壊れるが恐怖は長続きする
  • ろくでなしがくたばりやがった」(ベルリン陥落の際、ヒトラー自殺の報告を聞いて)
  • あいつはをまっすぐに撃つ事もできんのか」(長男ヤーコフがピストルによる自殺未遂で失敗した時)
  • チベット攻撃?けっこうな事だ」(毛沢東からチベット侵攻の許可を求められた時の返事)
  • 人命以外何も失ってはいない」(朝鮮戦争の休戦を求める金日成の要請に対しての返答)
  • 我々は同じアジア人だ」(1941年4月13日日ソ中立条約調印時、スターリンが日本の外務大臣である松岡洋右に言った言葉)
  • うちのヒムラーです」(ポツダム会談の折、米英首脳に腹心のKGB長官ベリヤを紹介したときの言葉)
  • 策略を十分に練って、敵を完膚なきまでに倒したその晩に、上質のグルジアワインを飲む時だな」(記者から、「一番幸せな時は?」と聞かれたときの言葉)
  • バチカンは、何個師団の軍事力を有しているのか」(スターリンが、国家の実力を軍事力でしか判断できないことを示すエピソード)。
  • 「じゃあ、われわれが農業集団化を実行したとき、なぜ黙っていたのですか。あの時だって200万人も死んだのですよ」1937年、粛清の行き過ぎを仲間に指摘されて)
  • 「よく刑務所なんかに入っている暇があったもんだ。戦争が始まったよ」(粛清された仲間を釈放して呼び出したときの冗談)
  • 「私はアジア人の事はよく知っているがね。あいつらとは時と場合によってはきびしく接しないといかんね」1939年、ドイツのリッペントロップ外相との会話での発言)
  • 「奴は人殺しだ。1938年に多くの無罪の人々を殺した。だから銃殺したのだ」(スターリンの指示で粛清を実施、自らも粛清されたニコライ・エジョフについての言葉)

[編集] スターリンを扱った「ジョーク」

  • スターリンが死去した時、モロトフはこう言った。「この事実をどうやって同志スターリンに伝えればいいんだ?」
  • スターリンがお気に入りの万年筆を無くしたので腹心のベリヤに捜査を依頼した。が、万年筆を見つけたので、早速ベリヤに連絡する。

 スターリン「同志ベリヤ、私の万年筆は見つかったよ」
 ベリヤ「同志スターリン、遅すぎます。すでに20人自白しましたよ」

  • 黒海の保養地で過ごしていたスターリンが水泳中に溺れたところを地元の漁師が助けた。

 スターリン「ありがとう、助けてもらったお礼がしたい。私はスターリンだ、何でも言いなさい」
 漁師「あなたを助けたことを言わないでください」
 スターリン「なぜだね」
 漁師「私があなたを助けた事を知られると、人民に殺されるからです」

  • ダンテ神曲創作のため、地獄を巡っていた。罪人たちが、血と糞尿にまみれた池に首まで浸かって苦しげにもがいている。

 だが、一人だけのうのうと膝まで浸かっている者がいる。見ると、これがベリヤである。ダンテは質問した。
 ダンテ「おい、ベリヤ君。君のところはどうしてそんなに浅いんだ」
 ベリヤ「エヘヘ、スターリンの肩の上に立ってるんです」

  • スターリンが、自分がどれくらい支持されているかを調べるために変装して町に出て、一人の男に声をかけた。

 「君、正直なところ、スターリンについてどう思うかね?」
 すると男は突然そわそわしだして、周りを確認した後、スターリンを人気の無い地下室へと連れて行き、こう言った。
 「実はな・・・スターリンの政策に賛成なんだ」  

[編集] 参考文献

  • バーナード・ハットン著/木村浩訳 『スターリン』(講談社学術文庫)1989年 ISBN 4-06-158898-2
  • 産経新聞/齋藤勉『スターリン秘録』(産経新聞社)
  • ステファヌ・クルトワ/ニコラ・ヴェルト 『共産主義黒書(ソ連篇)』(恵雅堂出版)
  • エドワード・ラジンスキー著/工藤精一郎訳 『赤いツァーリ スターリン、封印された生涯(上、下)』 日本放送出版協会 1996年 ISBN 4-14-080255-3 ISBN 4-14-080256-1
  • ジョレス・メドヴェージェフ&ロイ・メドヴェージェフ 共著/久保英雄訳 『知られざるスターリン』 現代思潮新社 2003年 ISBN4-329-00428-3
  • ユーリイ・ボーレフ著/亀山郁夫訳 『スターリンという神話』 岩波書店 1997年 ISBN 4ー00-001066-2
  • ロバート・コンクウェスト著/片山さとし訳 『スターリンの恐怖政治(上・下)』 三一書房 1976年
  • ドミートリー・ヴォルコゴーノフ著/生田真司訳 『勝利と悲劇 スターリンの政治的肖像(上・下)』朝日新聞社 1992年

[編集] 外部リンク

  • 「大会への手紙」レーニンの事実上の「政治的遺言」というべきもの。スターリンに対する否定的な評価を含む(英語)。

[編集] 関連項目

Video


先代:
ウラジーミル・レーニン
ソビエト連邦最高指導者
1922 - 1953
次代:
ゲオルギー・マレンコフ

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