コザ暴動
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コザ暴動(コザぼうどう、Koza Riot)とは、1970年12月20日未明に琉球政府統治下のコザ市(現在の沖縄県沖縄市)で交通事故を契機に発生した車両焼き討ち事件である。当時の沖縄は米国民政府によるアメリカ合衆国の施政権下にあり、米軍人や軍属などが琉球人に対して行なった犯罪や事故に対して下される処罰が軽微であるとして、群衆の間に不満があったことがその背景にあるとされている。コザ騒動(コザそうどう)、コザ事件(コザじけん)、コザ騒乱(コザそうらん)とも呼ばれる。
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[編集] 背景
コザ市は戦前は越来(ごえく)村という人口7,000人ほどの農村にすぎなかったが、沖縄戦で上陸したアメリカ軍が同村字胡屋に野戦病院・物資集積所等を建設した。その後難民収容所を開設し「キャンプ・コザ」と称し、戦後、米軍人相手の飲食街を中心として市街地が形成され、1956年に市制を施行してコザ市となった。当時、ベトナム戦争のさなかで戦場を行き来していた米軍人たちの消費活動は著しく、市の経済の約80%は基地に依存していたが、暴動の発生した1970年前後には年間約1,000件の外国人犯罪、年間約3,000件の交通事故があり、犯罪の中には殺人・強盗などの凶悪犯罪、交通事故の中には死亡事故も含まれていた。しかし、米軍人・軍属による事件は被害者が琉球人であってもMPによって処理され、非公開の軍法会議において陪審制による評決が行なわれており、無罪や軽罰になる場合が多かったため、琉球の人々の間には不満が鬱積していた。
交通事故に関して言えば、1963年2月28日に那覇市の中学生が横断歩道を横断中に赤信号を無視した米軍人の車にはねられる死亡事故があったが、加害者は軍事裁判において「夕日が信号機に当たって見えなかった」などと主張し、最終的に5月に無罪判決が言い渡された。これに対しては琉球全土を挙げた抗議運動が展開された。また、1969年9月18日に糸満町(現・糸満市)の糸満ロータリー付近でアメリカ軍軍曹が泥酔運転をして、歩道を歩いていた金城トヨさんを死亡させる事故を起こした。それに対し地元の青年たちはMPへの事故車引き渡しを拒否、地元政治組織とともに事故対策協議会を発足させ、警察を通じてアメリカ軍に対し司令官の謝罪・軍事裁判の公開・遺族への完全賠償を要求していたが、事件直前の1970年12月7日に軍事裁判は軍曹を「証拠不十分」により無罪とした。これらの事件が、人々の間に米軍人による事故の処理に不満を抱かせていた。
[編集] 事件の勃発
こうした感情が高まっていた1970年12月20日午前1時過ぎ、コザの中心街にある胡屋十字路から南に500メートルほどの地点で、軍雇用員の琉球人男性がアメリカ軍教務兵の運転する乗用車にはねられる事故が発生した。事故自体は軽微なものであったが、MPによる事故処理に不信感を持つ群衆が事故現場を取り囲み、MPによる不満を口々に叫ぶなど周囲は騒然となった。MPは現場での取り調べをあきらめ、近くにあったコザ警察署(現沖縄警察署)に加害者を連れて行こうとした。これが群衆には加害者を隠匿するかのような行動に映り、MPと加害者を移動させまいと群衆との間でもみ合いになった。加えて、近くでもう一件の交通事故が発生し、周囲の混乱がさらに大きくなったところでMPが群衆に対して威嚇射撃を行ない、これを契機に群衆がMPと加害者に襲いかかった。群衆はさらに、当時色によって区別されていた米軍人・軍属用ナンバーの車両に次々と放火した。
[編集] 事件の拡大と収束
事件の発生に対応して、琉球警察やMPが暴動の沈静化を図ったが、午前2時半になると群衆は5,000人を超え、交番などにも投石を行ない、胡屋十字路から数百メートルのところにある嘉手納基地第2ゲートから基地内へ侵入した。基地内ではゲートに設けられているガードボックスや米人学校が放火された。アメリカ軍では催涙ガスを使用してそれ以上の基地内への侵入を抑えた。琉球政府もナンバー2の行政副主席が現地に赴いて事態の収拾を図り、夜明け前に群集が家路に帰ったため暴動は自然消滅した。結果、アメリカ軍人の車両70台以上が炎上し、警官5人・琉球人十数人・アメリカ兵十数人が負傷したが、民家からの略奪行為は発生しておらず、アメリカ軍のみを標的にした暴動であった。警察は騒乱罪を適用し、バーのボーイ・マネージャー5人、工員2人、無職3人の10人を逮捕したが、いずれも証拠不十分で起訴されなかった。
[編集] 事件に対する琉球・アメリカ・日本政府の反応
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