ザ・デストロイヤー
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ザ・デストロイヤー(The Destroyer)のリングネームで最も知られるリチャード・ベイヤー(Richard Beyer、1931年7月11日 - )は、アメリカ合衆国・ニューヨーク出身の元プロレスラー。日本では「白覆面の魔王」の異名を持つ覆面レスラーとして力道山、ジャイアント馬場などと戦った他、テレビタレントとしても活躍した。親日家としても知られる。
正式なリングネームはジ・インテリジェント・センセーショナル・デストロイヤー(The Intelligent Sensational Destroyer)である。アメリカでは、ディック・ザ・デストロイヤー・ベイヤー(Dick "The Destroyer" Beyer)として知られる。息子のカート・ベイヤーもプロレスラーである。
[編集] 経歴
シラキューズ大学在学時からアメリカンフットボールの選手として活躍し、卒業後も母校のコーチを務めていたが、アマチュアレスリングでも実績を残していたため、アメリカのプロレス団体からのオファーを受けてプロレスラーも並行して始める。当初は本名・素顔で試合を重ねてきたが、1962年に覆面レスラーに転向。白地に赤や青の縁取りを付け目と鼻、口の部分を開けたマスクを着用して試合に臨み、WWA世界ヘビー級王座を獲得。通算3度WWA世界ヘビー級チャンピオンとなる。また1968年には黒覆面の「ドクターX」を名乗りバーン・ガニアを倒しAWA世界チャンピオンとなった。
その後1963年に初来日して力道山と対戦、足4の字固めをめぐる壮絶な攻防は全国に一大センセーションを巻き起こした。力道山の死後も、ジャイアント馬場を新たなライバルとして日本プロレス、全日本プロレスの人気外国人レスラーの地位を確保するようになる。初対戦の頃は馬場を血だるまにしてKOした大ヒールのデストロイヤーであったが、1972年に来日の際、「馬場に負けたら助っ人として日本に残る」と宣言、敗れたデストロイヤーはその後6年余りの間全日側として参戦し、その間アブドーラ・ザ・ブッチャー、ミル・マスカラスなどと名勝負を残した。また「NWA本部を差し置いて『覆面世界一』を名乗った(というアングル)」ことに端を発する「覆面十番勝負」は、急造マスクマンも含まれていたとはいえ、「刺客」として送り込まれる実力者相手の連戦で「タイガーマスク」のストーリーにも似た興奮を醸し出した。日本ではベビーフェイスとして活躍したが、アメリカではもっぱらヒール役に徹していた。
またそのユニークなキャラクターから、日本テレビ系で放送されたバラエティー番組『金曜10時!うわさのチャンネル!!』(司会:和田アキ子、せんだみつおら)にレギュラー出演し、コメディアンとしてのセンスを見せリングの外でも人気を博した。番組中徳光和夫に足4の字固めを仕掛け、徳光が「明日子供の授業参観なのに」「俺はギャラが出ないんだぞー」と叫びながら悶絶する姿が見られた。
アメリカに戻ってからは年一回の特別参戦を続け、1993年に引退。
その後アメリカ・アクロンの高等学校で体育教師、水泳教室のインストラクターも務めた。 2007年にレッスルキングダム2の宣伝の為にブッチャーと共に登場。
[編集] 得意技
必殺技は足4の字固め。デストロイヤー以前にはバディ・ロジャースがほぼ同じ技をスピニングレッグロックとして使っていたが、フィギュアフォーレッグロックと呼び自身の看板技として広めたのはデストロイヤーである。若い頃のドロップキックは「誰よりも高く飛ぶ」と言われた。またヘッドバット、フライング・ボディシザース・ドロップ、モンキーフリップ(巴投げに近い技)、倒立してのダブルニードロップなどもよく使われた。
[編集] 逸話
- プロレスの歴史上初めて、マスクマンとしてヘビー級のトップ戦線で活躍したプロレスラーである。覆面をかぶったのは、当時プロレスラーのライセンスを取得していなかったため、大きな団体で試合をするには正体を隠す必要があったことと、さまざまなスポーツ(アメフトだけでなく、野球、レスリングでも活躍していた)をやっていたせいで前歯が折れていたため、素顔をさらすのに躊躇したためといわれる。空港でもマスクを外さず、「ボク、デストロイヤー」と言って搭乗口を出ようとしたこともあるほど素顔を露出しなかったといわれているが、その一方で、ゴルフ練習場では暑かったのかマスクをその場で脱いでクラブを振るなど、よく分からない面もあった。
- 第5回ワールドリーグ戦の決勝戦前、リング上の力道山とキラー・コワルスキーの前にWWA世界チャンピオンとして来日したデストロイヤーは、次期シリーズに力道山相手に防衛戦を戦う旨のあいさつに訪れた。コワルスキーに手を差し出し握手するかに見えたデストロイヤーは、そのままつかつかっとコワルスキーに近づくと、平手でぴしゃっとコワルスキーの頬を張った。コワルスキーは顔色を変えたが、大事な試合の前とあって乱闘にもならず試合が始まった。この時のことについて、後にデストロイヤーがインタビューで語っている。握手を求めたデストロイヤーに対し、コワルスキーは横を向いて「ローカルチャンピオンが・・」とつぶやいたらしい。WWAという団体の看板を背負っている以上、アクシデント(ユーコン・エリックの耳をニードロップでそぎ落とした)で有名になった男ごときにばかにされて黙っているわけにいかない。当時の自分としてはそんな気持ちだった、という。
- その後に行われた力道山とのWWA世界タイトルマッチは、日本プロレス史上に残る名勝負となった。力道山の空手チョップで前歯をへし折られながらも、ついに必殺の4の字固めに捉えたデストロイヤー。ところが力道山はギブアップせず、体を反転させて裏返しになり4の字固めをかけられたまま上から逆にデストロイヤーの足を責めつけた。そのまま二人は二転三転、どちらもギブアップしない。ついにレフェリーはこれ以上やったら二人とも死ぬ、と叫んで引き分けを宣した。
- 愛妻家として知られ、マスクも夫人の手作りのものであった。
- 親日家であり、現在でも毎年最低一回は日本を訪れている。麻布十番納涼まつりで毎年チャリティサイン会を行なっているほか、自らのレスリングの少年チームを率いての来日もある。十番祭りでは毎年様々なグッズを持って来日し、サイン会場となっている携帯電話ショップの前はいつも大渋滞である。このことから現在の日本においても非常に有名な選手であることが伺える。
- かつて日本に住んでいたのは麻布十番にも程近い港区の三ノ橋近辺である。
- 日本のプロ野球界に来る助っ人外国人選手との交流も有名で、約8年間の滞日経験を生かし、多くの外国人選手の良きアドバイザーとなった。ランディ・バースやリー兄弟、同郷のマット・ウィンタース等は彼への感謝を未だ忘れないと言う。
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