ジョアン・カルロス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ジョアン・カルロス(João Carlos da Silva Costa、1956年1月15日-)は、ブラジル出身のサッカー指導者。鹿島アントラーズなどの監督を歴任し、Jリーグでは通算で4冠を獲得している。
目次 |
[編集] 指導者経歴
- 鹿島アントラーズ監督(日本)1996-1998
- アトレチコ・パラナエンセ監督(ブラジル)1998
- アラサトゥーバ監督(ブラジル)1999
- ブラジルユース代表監督 1999
- ウニオン・サンジョアン監督(ブラジル)1999
- 名古屋グランパスエイト監督(日本)1999-2001
- セレッソ大阪監督(日本)2001
- フラメンゴ監督(ブラジル)2002
- コンサドーレ札幌監督(日本)2003
[編集] 鹿島アントラーズ時代
1996年、エドゥー(ジーコの実兄)の後を受けて鹿島監督に就任。なお、ジーコは同時に鹿島のテクニカルディレクターに就任している。1998年のシーズン途中で辞任するまで2年半監督を務めたが、2年半の間に、
- 1996年Jリーグ年間王者
- 1997年Jリーグ1stステージ優勝
- 1997年ナビスコカップ優勝
- 1997年天皇杯優勝
- 1997・1998年ゼロックス・スーパーカップ優勝
と、輝かしい成績を残した。1997年は年間王者こそ2ndステージ優勝のジュビロ磐田に譲ったものの年間勝ち点の合計では1位であり(つまり、2005年の制度で言えば年間三冠である)、現在でも1997年の鹿島を「Jリーグ史上最強チーム」と評する者は多い。
[編集] 名古屋グランパスエイト時代
1999年、名古屋のこの年4人目の監督(代行も含む)に就任。鹿島時代に発揮した手腕は健在であり、就任後は連戦連勝。ジョアン就任以前の出遅れが惜しまれるものの、天皇杯を制し、「名将」としての責任は十分に果たした。
しかし、2000年以降は選手層が薄くなったことと、主力に怪我人が続出したことが原因で思うような成績があげられなかった。2001年のシーズン途中に主力選手との確執により解任されるが、鹿島監督を辞任したのも主力との確執がきっかけであり、この頃からジョアンにマイナスイメージが付いて回るようになる。
[編集] セレッソ大阪時代以降
名古屋を去った直後、ジョアンはJ2降格の危機に瀕していたセレッソ大阪の監督に就任し、J1残留を託される。しかし、ジョアンはすでにある程度のレベルに達しているチームをさらに成熟させることには最適の人材だが、チームの基礎を作ることや、低迷しているチームを短期間で引き上げることにはあまり向いていなかったらしく、リーグ戦3試合を残してJ2降格が決まってしまう。Jリーグではシーズン終了前にJ2降格が決まっても、監督はシーズン終了までは指揮を執るのが一般だが、ジョアンは降格直後に辞任した。後任の西村昭宏が残りのリーグ戦を全勝で終え、天皇杯も準優勝に導いたのは皮肉である。
その後、2003年にはこの年からJ2に降格したコンサドーレ札幌監督に就任したが、ここでも結果を残せず、シーズン途中で辞任した。
名古屋監督を解任された後の低迷で評価が下落したことは否めないが、それでもJリーグ史上最高の監督の1人に挙げられることは間違いない。
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
カテゴリ: ブラジルのサッカー指導者 | 1956年生 | 鹿島アントラーズ | 名古屋グランパスエイト | セレッソ大阪 | コンサドーレ札幌