ジーコ
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ジーコ(Zico、本名アルトゥール・アントゥネス・コインブラ〔Arthur Antunes Coimbra〕、1953年3月3日 - )は、ブラジル出身のサッカー選手、現サッカー指導者である。
「Zico」は「やせっぽち」の意味で、より原音に近い表記をすればズィッコとなる。現在でも、ブラジルではペレやF1のセナと並ぶ国民的英雄である。
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[編集] プロフィール
父親はポルトガル系移民である。元鹿島アントラーズ監督のエドゥーを含む兄2人もサッカー選手だった。 幼少時代は、兄たちに混じってサッカーをすることが多かった。体は小さくやせっぽっちだったにも関わらず、テクニックは群を抜いていて上級生に混じっても簡単に活躍できる才能があった。
[編集] フラメンゴ
入団当初はテクニックは通用するが「やせっぽち」であることが致命的になり、ジーコの肉体改造計画がチームスタッフにより立てられた。その計画により筋トレとホルモン注射などを効率よく行なった。そして、計画は成功して競り合いに負けない強靱な体を手に入れた。その後リオデジャネイロを代表するサッカーチームで、ブラジルリーグの名門、フラメンゴのミッドフィールダーとして活躍し、ホームスタジアムから「マラカナンの英雄」といわれた。また、同じくブラジルサッカー界の英雄であるペレになぞらえ、「白いペレ」とも呼ばれていた。
[編集] ワールドカップ
FIFAワールドカップでは1978年、1982年、1986年の3大会に出場。1982年のスペイン大会ではソクラテス、ファルカン(元日本代表監督)、トニーニョ・セレーゾ(元鹿島監督)とともに「クワトロ・オーメンズ・デ・オーロ(黄金の4人)」を形成。今も「ブラジルサッカー史上最も魅了したチーム」と称えられる。自身はスルーパスとフリーキックを武器に世界中のファンを魅了した。2002年以降自身が監督に就任した日本代表の中盤を称した「黄金の4人」はこのチームが語源。
[編集] 来日
1990年に一度現役を退き、ブラジルスポーツ省の初代長官に就任したが、1991年に住友金属サッカー部(現・鹿島アントラーズ)に入団。旧2部リーグの弱小チームを日本を代表するサッカークラブに成長させ、Jリーグ初のハットトリック記録など日本のサッカー界を積極的に盛り上げ、鹿島町(現・鹿嶋市)からも表彰される。1994年第1ステージで現役を退き、同チームのテクニカル・アドバイザーとなる。
[編集] 日本代表チーム監督
2002年7月22日にサッカー日本代表チーム監督に就任。成績等については下の諸項目を参照のこと。
[編集] 2006年以降
日本代表監督を退任後、2006年7月4日にトルコ・シュペルリガのフェネルバフチェの監督に就任。以前より希望していた欧州クラブの監督ではないものの、UEFAに所属しているリーグの監督となった。
[編集] 評価
2003年には母国ブラジルで過去30年で最も輝いた選手としてジーコが1位に選ばれた。ブラジル国民の大半がインターネットなどで投票し、2位のロナウドとはダブルスコアの大差であった。また、ペレに次ぐブラジル歴代代表3位の66得点(88試合。MFでありながらこの数字には驚くべきである)を刻んだジーコが見事栄冠に輝いた。
サッカー日本代表の親善試合でイギリス遠征中、ジーコやスタッフの待機する控え室にベッカムが「少年時代のヒーローだった」と正装姿で突然訪れたり、ブラジル代表のアドリアーノがジーコのサインを欲しくて中田英寿に直接交渉したりと、現代のスーパープレイヤー達も崇拝する名実共にサッカー界の英雄であり、その知名度ゆえ各国のメディアに対する発言力も大きい。
[編集] 「サッカーの神様」
飛躍的に向上した日本サッカー文化への貢献とネームバリューから、日本では「サッカーの神様」と呼称される事も多い。ただしジーコ自身はカトリック教徒であるため、日本の宗教観念を理解してはいるものの、この呼称を好ましくは思っていない。
[編集] 愛称
ジーコの他に、フラメンゴ時代やブラジル代表時代、また鹿島アントラーズ時代の選手・関係者間ではガーロ(galo)というニックネームを持つ。意味は雄鶏。本人の声の高さと、フィールドの真ん中に堂々と君臨する雄々しい様を掛けた愛称で、今でも親しい間では彼をガーロと呼んでいる。
なお、「ジーコ」と呼ぶのは日本だけのことで、日本人のサッカー評論家が間違えて発音したものが定着した。本国では「ズィッコ」、もしくは「ジッコ」という発音で呼ぶ。
[編集] 家族
1975年にサンドラ夫人と結婚。3人の息子をもうける。長男のジュニオールは元サッカー選手、サガン鳥栖でプレイしていた時にはジーコも鳥栖まで訪れた。次男はブラジルで有名な歌手ブルーノ・コインブラ。実兄はエドゥ(元鹿島アントラーズ監督、元日本代表テクニカルディレクター)。
[編集] プレイスタイル
ブラジルスタイルの抜群のテクニックを持ち、ドリブル、パス、シュートの三拍子を持ち合わせた1980年代の10番の典型。右足から繰り出される長短のパスの正確さは世界最高で、前線に張る選手、背後から飛び出す選手を問わず、絶妙のタイミングで正確無比なパスを飛ばす。むろんプレースキックも大きな武器だった。得点能力という点ではFWを凌駕するほどで、FWの後ろから飛び込むダイレクトプレーを始め、常に得点を狙う攻撃的MFのお手本とも言える。
ジェフ市原・千葉のDFとして対戦経験もある宮澤ミシェル曰く「ボールの捨て方もうまかった選手」。エースであるジーコには相手選手の何人もの激しいプレッシングが襲いかかり、結果ボールを回さざるを得なくなること(これを「捨てる」と表現)も多々あったのだが、ジーコはボールをそのまま下げるよりむしろ無理な体勢からでも相手バックラインの隙間を狙ったスルーパスを狙い、結果走り込んだFWやサイドMFへのアシストにつながることが多かったという。
1982年スペイン大会でのアルゼンチン戦とイタリア戦、1986年のフランス戦でのスルーパスは伝説とされている。また、2対3で敗れはしたが1982年のW杯の予選第2ラウンドの対イタリア戦は、W杯史上のベストマッチに押す人は多い。優勝したイタリアよりも敗れたブラジルを最強に押す声はいまだに根強いが、この最高のチームで勝てなかった(当時売り出し中のカレカが参加できなかったことも大きかった)ことが守備重視論を呼び、1990年代の得点力低下につながったとも言われている。
[編集] 10の系譜
ジーコが活躍した当時のブラジル代表には才能溢れる選手(ファルカン、ソクラテス、トニーニョ・セレーゾなど)が沢山いた。その中でなぜジーコが際立って目立ったのだろうか。それは、おそらくジーコが「ボールを持てば何かを起こせる」選手であり、「0からワンプレーで、そして一瞬でチャンスを創り出す」力を持った選手であったからである。これは、ブラジル代表の10番に最も求められる能力で、ペレからジーコへ、ジーコからリバウド、そしてドイツワールドカップではロナウジーニョへと受け継がれてきた。この先にもカカやロビーニョなど、10番を背負うだけの力のある選手たちが次々と現れている。昔とはサッカーのスタイルが変わってしまった現代においてもその伝統は脈々と受け継がれている。
[編集] 統計
所属チーム | ゴール数 | 試合数 | ゴール確率 |
フラメンゴ | 508 | 731 | 0.69 |
ウディネーゼ | 56 | 79 | 0.69 |
住友金属、鹿島アントラーズ | 54 | 88 | 0.61 |
セレソン | 66 | 88 | 0.75 |
オリンピック | 1 | 8 | 0.12 |
マスターエイジ | 10 | 18 | 0.55 |
ティーンエイジ | 81 | 116 | 0.69 |
その他 | 50 | 52 | 0.90 |
総合計 | 826 | 1180 | 0.70 |
[編集] 個人成績
年度 | チーム | リーグ | 背番号 | リーグ戦 | カップ戦 | 天皇杯 | |||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
J・J1 | J2 | ||||||||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
1992年 | 鹿島 | J | - | - | - | 10 | 6 | 2 | 1 | ||
1993年 | 鹿島 | J | - | 16 | 9 | - | 3 | 1 | 4 | 2 | |
1994年 | 鹿島 | J | - | 7 | 5 | - | 0 | 0 | 0 | 0 | |
通算 | 23 | 14 | - | 13 | 7 | 6 | 3 |
[編集] 「ジーコジャパン」
ジーコはフィリップ・トルシエ元日本代表監督の後任として、2002年にサッカー日本代表監督に就任した。日本代表監督最高額の年俸だった。
[編集] 2002年
[編集] 2003年
- 4月16日、ソウルワールドカップ競技場で韓国戦で初勝利を挙げる。
- 6月8日、キリンカップ2003でのアルゼンチン戦で1-4で完敗。これを機にディフェンスライン4人を入れ替えた。
- 6月18日からのFIFAコンフェデレーションズカップ2003の予選グループ、1勝2敗の成績に終わり決勝トーナメント進出を逃した。
- 8月20日のナイジェリア戦でホームゲーム初勝利。
[編集] 2004年
- 2月18日、ドイツW杯アジア1次予選初戦、オマーンに勝利するも、終了直前に久保竜彦のゴールで勝ち越す薄氷の勝利であった。
- 4月に行われた欧州遠征で欧州の代表チームと相次いで親善試合を行った。初戦のハンガリー戦で敗れたものの、強豪チェコを1-0と破った。6月の欧州遠征ではイングランドと戦い小野伸二の同点ゴールで1-1のドローに持ち込んだ。
- 7月、中国で行われたアジアカップ2004で苦戦が続いたが優勝決め、大会2連覇を達成。反日感情を抱える中国人観客のブーイングなど数々の逆風の中での戴冠であった。
- 10月、ワールドカップドイツ大会アジア1次予選第5戦でオマーンに1-0で辛勝、1次予選突破を決める。
[編集] 2005年
- ワールドカップドイツ大会最終予選において、テヘランでイランに敗れた試合以外は全勝で終え、B組1位通過を果たした。しかし、初戦の北朝鮮戦では苦戦の末にロスタイムに決勝ゴール、第3戦のバーレーン戦では相手のオウンゴールによる勝利であり、日本代表の試合内容への不満の声もあった。なお、日程の都合上で日本代表は、世界最速で2006年FIFAワールドカップ本大会への出場権(開催国のドイツは除く)を獲得することになった。
- 2005年FIFAコンフェデレーションズカップでは1勝1敗1分。メキシコには1-2で敗れたが、ギリシャに1-0で勝利、ブラジル戦でも2-2のドローに持ち込む健闘を見せた。グループリーグ敗退に終わったものの、試合内容に対しては一部の現地メディアでも高い評価を得た。
- 7月から8月にかけての東アジアサッカー選手権2005では北朝鮮に0-1で惜敗。続く中国戦ではGKを含むスタメンを総入れ替えし若手選手を起用する驚きの采配をしたが、2-2の引き分けに終わる。韓国に1-0で辛勝して最下位になることは免れたが、東アジア選手権2位という成績はアジアカップ覇者の日本にとっては不本意な成績となった。
[編集] 2006年
- W杯に向けて親善試合を消化。メンバー発表までの7試合は3勝2敗2分。
- 5月15日、ドイツW杯に臨む23人のメンバーを発表。
ジーコジャパンにおいて一番多く得点を決め(11得点)、本大会のエースとして期待された久保竜彦と、フランスリーグ・アンでアシストランク3位だった松井大輔をメンバーから外したことが物議をかもした。特に久保は、2006年に行われたw杯メンバー発表前の代表戦すべてに先発出場した上での落選だった。また、一番若い年齢の選手が駒野友一の24歳で、アテネ五輪代表メンバー(谷間の世代と言われていたが)からの選出が駒野友一・茂庭照幸の2名だけだったことに対しても一部で物議をかもした。(茂庭照幸の召集は田中誠の怪我による追加召集であった。)
- 6月12日、ワールドカップ本大会初戦のオーストラリア戦に1-3で逆転負け。続くクロアチア戦には0-0で引き分けわずかな望みをつないだが、最後のブラジル戦では前半に先制するも、後半で3点を入れられ逆転され1-4の惨敗。2敗1分でグループリーグ敗退という結果に終わった。その後日本代表監督を予定通り退任した。
主な成績
- 2003年 FIFAコンフェデレーションズカップ2003 予選リーグ敗退(通算1勝2敗)
- 2003年 東アジアサッカー選手権2003 準優勝
- 2004年 AFCアジアカップ2004 優勝
- 2005年 FIFAコンフェデレーションズカップ2005 予選リーグ敗退(通算1勝1敗1分)
- 2005年 東アジアサッカー選手権2005 準優勝
- 2005年2006 FIFAワールドカップ出場権獲得(アジア予選B組1位通過)
- 2006年2006 FIFAワールドカップ本大会予選リーグ敗退(通算2敗1分)
- 通算成績 33勝12分け15敗
[編集] 日本代表監督時代のコンセプト
- 自分たちの長所を打ち出して戦うことを重視する
- ジーコ以前の日本代表は、組織戦術による守備的発想の方を重視していた、とジーコは認識している。そういった腰の引けた戦い方こそ実力を出し切れない原因だと考えており、選手の特徴を出すためのフォーメーション採用、才能(特に創造力)のある選手の重用、メンタリティの改善、テクニックに優れた選手を重用(これは後述のポゼッション重視にも関わる)といった選手個人の能力を引き出す施策を行っていた。また、ドイツワールドカップ予選では1位通過という結果を残したが、本大会では個人の実力で勝る相手にパス回しが機能せず、シュート数においても全ての試合で相手に上回られており、自分たちの長所が打ち出せたとは言いがたい。
- ボールポゼッションによりある程度ゲームの主導権を握ることを志向する
- ジーコは、重要なのは高いボールポゼッションを保ち、数多くのチャンスを作ること、そうすれば負ける確率は低くなる、という考えを持つ。ただし、「遅攻」に重きを置いているということではなく、むしろ「サッカーで一番美しいのはダイレクトプレー(ゴールに最短距離で進むプレー)」によるポゼッションサッカーであり、「それができない場合のパス回しを遅攻」と語っている[1]。結果、パス回しによってゲームを支配する試合もあったが、ボールポゼッションがジーコの理想に追いつかず、「単なる横パス・バックパス回し」に終始する場面もあり、それに対する批判も存在した。
- 選手との相互信頼を重視する
- このチームの1つのキーワードが「信頼」であった。2004年AFCアジアカップ(以下この節で「アジアカップ」と略)優勝後の「ジーコの正しさを証明したかった」という中村俊輔の言葉、あるいは「ジーコに恩返しをしたかった」という玉田圭司の言葉が、ジーコ政権下の日本代表のベースにある信頼関係をあらわしていた。一方で欧州組で結果を残していた松井大輔をはじめアテネオリンピックに参加した若手選手の起用には積極的ではなく、結局彼らの中でドイツW杯のメンバーに入れたのは駒野友一と茂庭照幸のみである。また就任した4年間での招集選手数は前任のトルシエの半数以下だった。
- この様な「メンバー固定」に対して、「信頼されている」選手以外にはなかなか出番が与えられないという弊害が生まれ、人材面での新陳代謝を欠いた、およびサブメンバー出場時の連携不足も目立った、という批判がある。一方、アテネ五輪組の実力を疑問視する見方や、代表チームにおいて、大幅にメンバーを変えず主力の連携の成熟に集中することは一般的なこと、という指摘もある。
- 試合中のシステム変更をスムーズに行えるようにする
- 2004年春の欧州遠征以降、3バックと4バックを併用できるチーム作りを進めた。就任当初1年半は一貫して自身の慣れ親しんだ4バック(4-4-2)のシステムにこだわっていたが、殆どのクラブが3バック(3-5-2)を採用していた当時のJリーグの事情もあり、3バックとの併用を始めた。3バックの方がやりやすいと語っている選手も多く、結果も残した。点が必要な場面で3バックから4バックへのシステム変更を選手交代と同時に行うこともあった。
- 選手の自己判断能力を高める
- アウト・オブ・プレー(プレーの中断)が少ないサッカーでは、実際ピッチでプレーする選手の自己判断能力が重要になる。宮本恒靖によると「以前はベンチを見て監督の判断を仰ぐ時が多かったが、今は試合中に自分で判断を下す機会が多くなった。それに伴い、僕も状況判断力がアップした。相手の出方に従った守りの修正が速くなったし、味方へ指示の声が具体的になった」と語っており、プレーの中断中にピッチ上で選手同士が戦術の確認をしている場面が多く見られた。しかし、ドイツW杯予選のイラン戦(アウェイ)、本大会のオーストラリア戦などで、「攻めるべきか、守るべきかの意思統一がなかった」と中村らが語っており、11人の選手それぞれの意見が食い違うと修正が効かないこともあった。
- 選手選考において実績を重視する
- 選手の起用の基準としては、現在リーグで活躍していることよりも、過去にどれだけの力量を見せてきたかという点に第一のプライオリティを置いていた。欧州で出番に恵まれていなかった柳沢敦や高原直泰が起用され、風邪をひいていた中村をW杯3戦にフル出場させる等、体調やコンディションより実力や実績を重視する選手起用が多く、召集メンバーも99年のワールドユース準優勝メンバーを中心に選ばれていた。そのため、コンディションを考慮して、チームの得点王であった久保竜彦ではなく、経験の浅い巻誠一郎をドイツW杯最終登録メンバーに選んだ時には大きな驚きをもって迎えられた。ドイツW杯では結局、長期のブランク開けの柳沢、直前の親善試合で怪我をした高原をフォワード陣の中心としたが、二人ともコンディションが悪く、特にクロアチア戦で絶好のシュートチャンスをはずした柳沢は多くの批判に晒された。
- 選手交代は慎重である
- 「勝っているときはチームをいじらない」というのがジーコの考えであり、リードしている状況では選手交代による修正を控える傾向にあった(交代は後半残り15分以内が多い)。選手交代・フォーメーション変更が流れを変えることが多く、特に途中交代で入った選手が結果を残す等、終盤に得点を生み土壇場での勝負強さを発揮する試合が多かったが、早めに手を打たないことへの批判もあり、ドイツW杯オーストラリア戦では選手交代の遅れとその内容(柳沢→小野伸二)が、逆転負けの一因になったと指摘もある。
[編集] 日本との関係
[編集] 初来日
1990年に住友金属に入団する前からトヨタカップで来日(1981年フラメンゴ)、MVP受賞など日本とは縁があった。現在は日本が第二の故郷とコメントするほどの親日であり、来日した時は飛行場で必ず「タダイマ」と挨拶をする。大きな影響力を持つジーコが母国で日本をリスペクトするようになり、近年ブラジルで日本の印象は変わったと言われている。
[編集] 日本語
夕刊紙やスポーツ記事などに「日本に何年もいるのに日本語を喋ろうとしない」「日本語を全く習得していない」と書かれることがある([2])。 しかし実際は、本人はサッカー教室などで簡単な日本語の指示や受け答えをしている他、日本での自宅周辺の商店街、秋葉原の電化製品店、鹿嶋のショッピングモールなどで、日本語を使って買い物を行う姿が、通行人や市民にも目撃されている。
また、2006年開催のFIFAワールドカップの最終予選、対北朝鮮戦(無観客試合)において、日本語で「(相手DFの)ライン見て!ライン!」と指示したり、試合終了後、インタビュー直前に日本語でチームスタッフと談笑する模様が放送されている(その時、テレビ局スタッフから声をかけられ、「え?何?」と答えてもいる)。本人は、正式な場では通訳がいるのだから通訳を通して話した方が、誤解や曲解を生まなくて済む、と考えている。
ちなみに2006年開催のFIFAワールドカップでは選手に指示を与えることのできるテクニカルエリアに通訳の同伴が禁止となった。これによりジーコの日本語を聞ける機会は増えることが予想される。
日本サッカー協会・強化委員長の田嶋幸三氏によると「ジーコはほとんど日本語がわかるが、誤解を生むことを避けるため通訳を通している。政治の世界と同じ」とのことだ。
なお、ブラジルのビジネス誌「イスト・エ」のインタビューによると、本人曰く「聞くのは出来るが早口だと無理、読み書きも無理」とのことだ。
[編集] 日本の「恩」
日本代表監督の大役を引き受けた理由について、「もちろん金もある。しかしそれ以上に私は日本へ恩返しがしたかった」と、「恩返し」を強調するコメントをたびたび報道陣に伝えている。この恩に関して、日本サッカー発展のためと入団した鹿島アントラーズ時代に(当時格安の給金で世田谷区から電車とバスで通勤していた)、地域住民からの密な親睦があったなどの諸説逸話がある。
また監督就任中は、「日本サッカー協会に雇われてる身」と常に日本サッカー協会と志を共にするスタンスを取っており、本人の給料に関する席も選手の話題になってしまい、「契約金の話になるとこちら(協会)任せでいいと数分で終わってしまう。金で毎回こじれていたトルシエとは大違い」と川淵会長自らコメントしている(川淵がトルシエを未だに批判するほど嫌っていることと、ジーコとトルシエの当時の経済力の違いは考慮すべきであるが)。監督として本来強化のために重要であるスケジューリングについても、ほぼ協会の意向に従っていた。但し、ワールドカップの試合で敗北すると、試合時間が広告代理店や在京キー局の意向で決められてしまう(ヨーロッパの昼間は日本の夜であるため高視聴率が得られやすい)ことを批判するなど、最後の最後で協会の強化方針に疑問を呈した。
[編集] 愛車
トヨタカップのMVP副賞の日本車を長期に渡り愛車にしている事は有名。ちなみに愛車は1981年型トヨタセリカで1986年に製造中止され年月が経つ上、さらに当時ブラジルは外貨流出を防ぐために外国車(完成車)の輸入を禁止していたこともあって、現在南米における稼働車としては超がつく希少車。というよりはジーコの所有車一台のみの可能性が高い。副賞の自動車が外交問題になりはしないかと大会関係者は心配したが、ジーコは「フィゲイレド大統領に電話するから」と言ってあっさり輸入許可を得て、この車を持ち帰った。ジーコの影響力を示すエピソードのひとつである。
現在は、日本代表のスポンサーに日産自動車が入っている関係で、同社が日本サッカー協会へ寄贈したシーマのステアリングを自ら握っていることもある。2006年からはフーガに変わった。
[編集] その他
- 日本のインディーズバンド・村田組による「ジーコにつきる」が有線放送をはじめ、サッカー愛好者の中で話題を呼んでいる。
- ジーコのインタビューでよく出てくる言葉として、「(エウ) アシュケー」という言葉がある。ポルトガル語で「(Eu) acho que ~」は、英語で「(I) think that~」、日本語では、直訳すると「(私が)考えるに~」だが、「そうですね」ぐらいの使われ方である。
- キャプテン翼のゲームで「アルツール・アンチネス・コインブラ」という、ジーコの本名とそっくりな名前の選手が登場。
- 1999年、ジーコ書きおろしの『My Life in Soccer』が、高校2年生の英語教科書に8ページにわたって登場。
[編集] 関連項目
- リオデジャネイロ市
- 間欠性回復力検査(YoYoテスト)
[編集] 外部リンク
フェネルバフチェ - 2006-2007 |
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1 ヴォルカン | 4 アッピアー | 5 ウミト | 6 マフムト | 7 ヨズガトリ | 9 ケジュマン | 10 トゥンジャイ | 11 トュメル | 15 アウレリオ | 16 ケリム | 17 カン | 18 ギュルハン | 19 オンデル | 20 アレックス | 21 セルチュク | 22 セルダル | 23 セミフ | 24 デニズ・バリシュ | 25 ウギュル | 27 ケマル | 29 オルジャン | 30 セルカン | 34 リュストゥ | 35 ルガーノ | 36 エドゥー | 99 デイヴィド | 監督 ジーコ | |
![]() |
日本代表 - 2006 FIFAワールドカップ | ![]() |
---|---|---|
1 楢崎正剛 | 2 茂庭照幸 | 3 駒野友一 | 4 遠藤保仁 | 5 宮本恒靖 | 6 中田浩二 | 7 中田英寿 | 8 小笠原満男 | 9 高原直泰 | 10 中村俊輔 | 11 巻誠一郎 | 12 土肥洋一 | 13 柳沢敦 | 14 三都主アレサンドロ | 15 福西崇史 | 16 大黒将志 | 17 稲本潤一 | 18 小野伸二 | 19 坪井慶介 | 20 玉田圭司 | 21 加地亮 | 22 中澤佑二 | 23 川口能活 | 監督 ジーコ |
先代: エリアス・フィゲロア |
南米年間最優秀選手賞 1977 |
次代: マリオ・ケンペス |
先代: ディエゴ・マラドーナ |
南米年間最優秀選手賞 1981, 1982 |
次代: ソクラテス |
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