ジョージ・バーナード・ショー
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ジョージ・バーナード・ショー(George Bernard Shaw, 1856年7月26日 - 1950年11月2日)は、イギリスにおいて主に19世紀に活躍したアイルランド出身の劇作家、劇評家、音楽評論家、社会主義者。イギリス近代演劇の確立者として有名である。ショーが劇作家としての才能を認められるようになったのは、40代であるが、精力的に作品を書き続け、94歳で亡くなるまでに53本もの戯曲を残した。カナダのナイアガラ・オン・ザ・レイクでは、毎年数ヶ月にわたって、ショーとその同時代の劇作家の作品を上演するショー・フェスティバルが開催され、世界各国から人々が集まっている。
目次 |
[編集] 略歴
- 1856年ダブリンに生まれる。
- 1876年 アルコール依存症で家族を養う能力に欠けた夫に見切りをつけて、ショーの母は、すでに娘達と共にロンドンに出て、音楽教師として生計をたてていた。ショーは、母を追って、この年、ロンドンに出て行く。
- 1876年 この頃から、母と親しかった音楽評論家の評論のゴースト・ライターをはじめる。
- 1883年 最初の小説を書き終えるが、小説家としてはあまり世に認められない。
- 1884年 フェイビアン協会に入会する。創設者のウェブ夫妻とは家族のように親しくつきあう。
- 1888年 コルノ・ディ・バセットというペン・ネームで音楽評論を書き始める。
- 1892年「やもめの家」で劇作家としてデビュー。
- 1895年 『土曜評論』に劇評を書き始める。
- 1898年 シャーロット・ペイン・タウンゼンドと結婚する。彼女は機知に富み、フェイビアン協会の活動にも熱心であった。しかし、社会主義者でありながらも、富裕な家柄であったので、豪華客船で新婚旅行にでかけることになった。
- 1914年 ウェスト・エンドで初めて興行的な成功を収める。
- 1925年 ノーベル文学賞を受賞。はじめは固辞していたが、賞金を寄付するという条件で受賞することになる。
- 1943年 妻シャーロットの死。
- 1950年 妻の死以来、生きる気力をなくしつつあったが、エイオット・セント・ロレンスで94歳で死去した。
[編集] 作品
[編集] 代表作品
『ピグマリオン』(Pygmalion)(1913年初演) ガブリエル・パスカルによって1938年に映画化され、ショーはアカデミー脚本賞を受賞した。また、アラン・J・ラーナーによってミュージカル化され、『マイ・フェア・レディ』としてブロードウェーで大ヒットしたことは良く知られている。原作、ミュージカル共に、現在も世界各地で上演されている。
『聖女ジョウン』(Saint Joan)(1923年初演) これまで悲劇のヒロインとして描かれてきたジャンヌ・ダルクを、社会と葛藤する一人の人間として描き、1925年にノーベル文学賞を受賞した。
[編集] 主な戯曲
(年号はいずれも執筆をはじめた年)
- 1892年 『やもめの家』 (Widowers' Houses、ショーの処女戯曲)
- 1893年 『ウォレン夫人の職業』(Mrs Warren's Profession、売春と結婚制度について論じ、劇場検閲制度によって上演禁止になった。邦訳有り)
- 1894年 『武器と人』(Arms and the Man)
- 1895年 『キャンディダ』(Candida、イプセンの『人形の家』に触発されて書いた作品。邦訳有り)
- 1895年 『運命の人』(The Man of Destiny、ナポレオンを登場させた喜劇)
- 1897年 『分からぬものですよ』(You Never Can Tell)
- 1897年 『悪魔の弟子』(The Devil's Disciple、邦訳有り)
- 1898年 『シーザーとクレオパトラ』(Caesar and Cleopatra、シェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』に対抗して書いた作品。ヴィヴィアン・リー主演で映画化もされた。邦訳有り)
- 1899年 『ブラスバウンド船長の改宗』(Captain Brassbound’s Conversion)
- 1903年 『人と超人』 (Man and superman、モーツァルトの『ドン・ジョバンニ』をモチーフにして書いた作品。邦訳有り)
- 1905年 『バーバラ少佐』 (Major Barbara、人気上演作品の一つであり、映画化もされた。邦訳有り)
- 1911年 『ファニーの初めての劇』(Fanny's First Play、匿名で発表したが、ショーが大衆に受け入れられるようになった作品)
- 1912年 『アンドロクリーズとライオン』 (Androcles and the Lion)
- 1913年 『ピグマリオン』(Pygmalion、ショーが劇作家として世に認められるようになった作品。邦訳有り)
- 1916年 『傷心の家』 (Heartbreak House、邦訳有り)
- 1918年 『メトセラへ還れ』(Back to Methuselah)
- 1923年 『聖女ジョウン』(または『聖女ジャンヌ・ダルク』) (Saint Joan、映画化作品。邦訳有り)
- 1938年 『ジュネーヴ』 (Geneva)
[編集] 主な評論
- 1891年 『イプセン主義の真髄』(The Quintessence of Ibsenism)
- 1898年 『完全なワーグナー主義者』 (The Perfect Wagnerite、邦訳有り)
- 1928年 『知的女性のための社会主義と資本主義の手引き』 (The Intelligent Women's Guide to Socialism and Capitalism)
[編集] ショーの様々な顔
[編集] 社会主義者
フェビアン協会に属する社会主義者であり、社会主義運動にも深く関わる。文学者の枠を超えた、反骨の知識人として、積極的に発言、(皮肉な警世家としても知られる)長い生涯にわたって尊敬を集める。しかし、1930年代に大恐慌を受け資本主義国が軒並み不況に苦しむ中、ソビエト連邦はその影響を受けずに高い経済成長を達成したことを知り、「失業も階級もない理想の国家」と評したが、実はその経済成長は政治犯や思想犯を中心とした強制労働に支えられ、その富は共産党の上層部に集中して配分されていたことがその後明らかになり大きな非難を受けた。
[編集] ベジタリアン
ショーは菜食主義者であった。「私は現在85歳だが、これまでと同じように元気に仕事をしている。もうかなり長く生きたので、そろそろ死のうかと思っているのだが、なかなか死ねない。ビーフステーキを食べれば、ひと思いに死ねると思うのだが、私には動物の死体を食べるような趣味はない。私は自分が永遠に生きるのではないかと思うと、空恐ろしい気分になる。これが菜食主義の唯一の欠点である」と言った。
[編集] 劇評家
ショーは、1895年以降多くの劇の評論を書いたが、なかでも有名なのは、シェイクスピアの劇についてである。当時は、シェイクスピアを偶像化するような風潮があり、これをBardolatryとよんで、揶揄した。また、アクター・マネージャーによる上演が主流であったため、作品の大胆な改変がしばしば行われていたが、これを激しく非難した。一見矛盾するかにみえる二つの行動だが、どちらもシェイクスピアを熟読し、心から愛するゆえのことであった。ショーのコメントは毒舌とも呼べるようなものなので、しばしば誤解されることもあるが、彼がシェイクスピアにいかに精通しているかを知れば分かることである。彼はシェイクスピアを超えるような劇を書きたいと熱望していたのである。『シーザーとクレオパトラ』は、『ジュリアス・シーザー』に対抗して書いたものだが、『ピグマリオン』は『じゃじゃ馬ならし』に対抗したものだという節もある。また短編戯曲『ソネットの黒婦人』、人形劇『シェイクス対シェブ』などもある。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
日本バーナード・ショー協会 (1971年設立)
[編集] 参考文献
日本バーナード・ショー協会編 『バーナード・ショーへのいざない Welcome to the Shavian World』 生誕150周年記念出版 文化書房博文社 ISBN 4830110910
カテゴリ: ノーベル文学賞受賞者 | アイルランドの劇作家 | アイルランドの小説家 | 評論家 | 1856年生 | 1950年没