ゾフィー・ショル
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ゾフィー・ショル(Sophia Magdalena Scholl, 1921年12月22日 - 1943年2月22日)は白バラ抵抗運動の主要メンバーの一人。非暴力によってナチス・ドイツに抵抗するも国家反逆罪により、民族裁判所で兄のハンス・ショル、クリストフ・プロープストとともに死刑判決を受け、処刑された。
目次 |
[編集] 生い立ち
ゾフィーは、1921年にフォルヒテンベルクの町長である父ローベルト・ショルの5人兄弟の4番目の子どもとして生まれた。ゾフィーは、田園の自然の風景のあるのびのびとした環境で幼年期を過ごし、1930年にルートヴィヒスブルクで2年間を過ごした後、1932年に父ローベルトが税理士兼コンサルタントとして落ち着くため、ウルムへ引っ越した。
1932年、ナチスの少女組織であるドイツ女子青年同盟(BDM)に入団するものの、組織に対する疑念を抱くようになり、リベラルな思想の持ち主である父ローベルトのナチスへの批判精神などの影響から、ドイツ女子青年同盟からますます距離を置くようになった。また、シュトゥットガルトから派遣された上位の女性指導者が課題図書として何を読むか提案したときに、ユダヤ人であるハインリヒ・ハイネの本を課題図書とするよう強く主張したほか、ナチス・ドイツで禁じられた一般に入手することのできないトーマス・マンの本などを彼女に理解のある友人の手を通して読むなどして、ナチスの思想に抵抗した。また彼女の一家と親しい「退廃的」とされ、ナチスによって追放された画家ベルトル・クライ、ヴィルヘルム・ガイヤーがゾフィーを援助した。
1937年11月ドイツ青年会11月1日に非合法活動を理由にゲシュタポによって逮捕されたことは、ゾフィーに大きい精神的打撃を与え、ナチス体制に対する独自の判断、思考を幼いながらも熟成させることを促進させた。
1940年、アビトゥアを終えたものの半年間の勤労奉仕(ドイツ語でReichsarbeitsdienst)を済ませないと大学に入学できないことから、ソフィーは勤労奉仕に代わるものとして、ウルムにあるフレーベル保母養成所で過ごしたものの、当局はこれを勤労奉仕に代わるものとは認めず、改めて勤労奉仕を受けさせられることとなった。しかし、1941年7月当局は、女子青年に対してさらに半年間の戦時協力奉仕を義務付けたために、この年の8月に勤労奉仕を終える予定だったゾフィーは改めて同年10月からブルムベルクの託児所において保母を務め、1942年3月にウルムへ戻り、同年5月に生物学と哲学を学ぶためにミュンヘン大学へ入学した。
ミュンヘン大学に入学した1942年8月父ローベルトがヒトラーが戦争を終わらせない場合2年後ロシア軍がベルリンにに侵攻すると同僚の女性職員に発言したため、ゲシュタポに逮捕され、特別法廷によって禁固4ヶ月の判決を受けた。そのため、ゾフィーは休暇中の8月に軍需工場で2ヶ月間動員させられることとなった。
[編集] 白バラ抵抗運動
[編集] 白バラ抵抗運動の経緯
詳細は、白バラ抵抗運動を参照のこと。
[編集] ミュンヘン大学でのビラまき
1943年2月18日ゾフィーは兄のハンスとともに、ミュンヘン大学において白バラ抵抗運動のメンバーが起草した抵抗ビラのうち、6番目のビラを屋上からばら撒いたところを大学の職員に発覚され、ゲシュタポによってハンスと共に逮捕された。尋問においてゾフィーもハンスもビラがあったことを知らずに落としてしまったと否定していたが、ハンスの住居からハンスが所有していたビラの草案とクリストフ・プロープストの数通の手紙、8ペニヒの切手数百枚が発覚し、また若い男が住居の近くの郵便局で大量の切手を買ったことが報告されため、ビラの作成は2人で行ったものであるとしてクリストフ・プロープストから嫌疑をそらそうとしたものの、プロープストは捕えられた。
[編集] 民族裁判所での裁判と処刑
逮捕の4日後の2月22日、民族裁判所長官ローラント・フライスラーは起訴されたゾフィー、ハンス、クリストフ・プロープストを感情的に怒号しながら非難する口調で尋問をし、戦時にビラをまくことで、軍需のサボタージュと国家社会主義体制の破壊とヒトラーへの誹謗中傷を行い、利敵行為を行い、ドイツの防衛力を破壊しようと試みたとして死刑判決を下した。その際に弁護人は被告の3人を弁護するどころか恥ずべき行為をしたとして非難までした。しかし、3人とも自分たちの行為は多くのドイツ人が内心では支持しているのだとして、堂々とした口調で反論をした。
判決が下されたその日の夕方5時ミュンヘン・シュターデルハイム執行刑務所においてゾフィーはハンス、クリストフ・プロープストと共にギロチンにかけられ、21歳の短い生涯を閉じた。
[編集] その後
ゾフィーらがばら撒いた抵抗ビラはその後、スカンジナビア経由でイギリスに渡り、連合国がドイツに降伏を呼びかける際のビラとして使われた。
[編集] 関連項目
- 白バラの祈り ゾフィー・ショル、最期の日々 - 2005年のドイツ映画