ダスティ・ローデス
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ダスティ・ローデス(Dusty Rhodes)のリングネームで最も知られるヴァージル・ラネルズ・ジュニア(Virgil Riley Runnels, Jr.、1945年10月12日 - )は、アメリカのプロレスラー。
テキサス州オースティン出身。身長186cm、体重135kg。ニックネームはアメリカン・ドリーム(The American Dream)。日本でのキャッチコピーは重戦車。「俺は配管工の息子から成り上がったんだ」が決め台詞。コテコテの南部なまりでのマイクアピールを得意とする。
日本ではダスティ・ローデスと表記されるが、正式にはダスティ・ローズと発音する(プロ野球選手のタフィ・ローズと同じスペル)。特にブルロープ・マッチの試合形式で活躍した。
実子のダスティン・ラネルズもプロレスラー(ダスティン・ローデス、ゴールダスト、ダスティ・ローデス・ジュニアなどのリングネームで知られる)。
[編集] 経歴
1967年デビュー。ディック・マードックとタッグチーム「ジ・アウトローズ」を結成し、AWAとNWA両地区を股に掛けて活躍。1971年11月、国際プロレスに参戦するため初来日。以降、全日本プロレスと新日本プロレスに参戦した。
130kgを越える巨体であったが動きはコミカルで素早く、ショーマン・スタイルの第一人者としてベビーフェイスで活躍、大人気を博した。1977年にはMSGでスーパースター・ビリー・グラハムのWWF世界王座に連続挑戦。
ジ・アウトローズ解散後の1979年8月21日、フロリダ州タンパでハーリー・レイスを破り第53代NWA世界ヘビー級王座を獲得するが、5日後オーバー・ザ・トップロープによる反則負けで王座転落。その後1981年(61代)、1986年(69代)にも同王座を奪取し計3度ベルトを巻いている。1985年頃からはレスラーだけではなく、NWAのプロデューサーとしても活動を始め、数多くの大会や試合形式を企画した。
1989年から約二年間、WWF(現WWE)に所属。黒人女子レスラーのサファイアをマネージャーに、水玉模様のリングコスチュームで活動した。1990年代はWCWのプロデューサーに就任、一時期は事実上の引退状態だったが、nWoのメンバーでもあった。WCW崩壊後は各地のインディー団体などにも出場している。
2003年からはTNAのプロデューサーに就任、レスラーとしても活動。2004年には、息子とともにハッスルに参戦した。TNA退団後、2005年にはWWEとレジェンド契約を果たすなど、未だプロレスラーとしての活動を継続している。現在はWWEでプロデューサー・脚本家として働いているが、ときたまリング上に姿を見せることもある。2007年には、WWE殿堂入りを果たした。
[編集] 得意技
- バイオニック・エルボー(エルボースタンプ)
- エルボー・ドロップ
- パイルドライバー
[編集] 関連項目
カテゴリ: アメリカ合衆国のプロレスラー | WWE | 1945年生