タフィ・ローズ
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タフィ・ローズ(Tuffy Rhodes、1968年8月21日 - )は、オリックス・バファローズ所属のプロ野球選手である。アメリカオハイオ州シンシナティ市生まれ。本名は、カール・デリック・ローズ(Karl Derrick Rhodes)。左投げ左打ちの外野手。
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[編集] 人物
日本プロ野球界で史上最強助っ人と呼び声高い選手。パワフルな打撃とインタビューなどでの関西弁のトークで人気がある。1996年から2003年まで近鉄バファローズ(1999年から大阪近鉄バファローズ)に所属。その後2004年から読売ジャイアンツに所属していたが、2005年シーズン終了後に自由契約。その後、移籍先を探していたが、2006年2月16日にシンシナティ・レッズとマイナー契約。しかし、成績不振からマイナーリーグ降格の通告を受け、3月21日に現役引退を表明した。が、2007年日本球界への復帰を望み、オリックス・バファローズの入団テストを受ける。2007年2月26日にみごとテスト合格し、3月1日に入団発表を行った。
[編集] 略歴
- 1986年 ドラフト3位でヒューストン・アストロズに入団。
- 1990年 メジャーリーグ昇格。
- 1993年 シーズン途中でシカゴ・カブスに移籍。
- 1994年 開幕戦のニューヨーク・メッツ戦で1番として出場し、メッツのエースであるドワイト・グッデンから第1打席より3打席連続本塁打を放ちメジャーリーグで名が知れ渡る(開幕戦3本塁打は現在もメジャー記録)。
- 1995年 シーズン途中でボストン・レッドソックスに移籍。
- 1996年 近鉄に入団。シーズン3本のサヨナラ本塁打を放ち、この年チーム三冠王となる活躍を見せる。
- 1997年 8月にパ・リーグ新記録(当時)となる4試合連続猛打賞を記録するなど活躍し、初のベストナインを獲得した。
- 1999年 シーズン途中からチームが最下位に低迷する中で成績を伸ばし、40本塁打・101打点を記録して、初の本塁打王・打点王のタイトルを獲得した。
- 2001年 9月24日の大阪ドームでの西武ライオンズ戦で松坂大輔から本塁打を放ち、シーズン55本塁打(1964年の王貞治と並ぶ日本タイ記録。翌年西武のアレックス・カブレラも記録)を達成してチームのパ・リーグ優勝に貢献。初のMVPにも選出された。日本シリーズでも第2戦で決勝3ランを放つなど活躍し、敢闘賞を受賞した。
- 2002年 シーズン序盤から本塁打を量産するが、西武・カブレラに追い抜かれ、本塁打王獲得はならず。しかし、打点王のタイトルは獲得した。
- 2003年 51本塁打を放ち、3度目の本塁打王獲得(当時、外国人選手の受賞回数最多タイ)。また、3年連続ベストナインにも選出された。しかし、同年オフに近鉄との契約交渉が難航し(詳細は後述)、結果的に巨人が獲得した。
- 2004年 巨人に移籍。落合博満につぐ史上2人目の両リーグでの本塁打王獲得。同年途中にフリーエージェントの権利を取得し、翌シーズンから外国人登録除外(郭泰源に続き2人目)。近鉄時代とは異なり、中堅手としての起用が主となる。
- 2005年 5月29日の試合で球審に暴言を吐いたとして通算9回目の退場処分。金田正一を抜いて最多記録に。打率が低迷し、球団構想と合致しないせいか、8月9日に右肩の故障のためであるとして出場選手登録を抹消され二軍落ち。その後、帰国し手術を行ったためシーズン中の復帰は絶望となった。そして11月7日、巨人はローズに対し戦力外通告を行ったと発表。
- 2006年 2005年の年末頃からオリックス・バファローズとの契約へ向け本格交渉している動きがある、と報じられた。その後、2月16日にシンシナティ・レッズとマイナー契約する事で合意、契約に至る。しかしオープン戦では12試合で27打数6安打と奮わず、レッズからマイナーリーグ降格を通達されたため、3月21日に引退する決意を表明した。
- 2007年 日本球界への復帰を望み、オリックス・バファローズの入団テストを受け、紅白戦などで結果を残し、正式に入団が決まった。背番号は8。理由は「近鉄で8年間プレーし、親友の中村紀洋がつけていた番号だから」と明かした。
[編集] 概要
- 身長・体重:182cm 87kg(なお入団当時のまま公称が変更されていないだけで、体重は近鉄時代途中から90kgを超えている。なお、現在は104kgである。)
- 投打:左投左打
- 出身地:アメリカ・オハイオ州
- 球歴・入団経緯:ウェスタンヒル高 - アストロズ・アストロズ傘下(1987年 - 1993年途中)- カブス(1993年途中 - 1995年途中)- レッドソックス(1995年) - 近鉄・大阪近鉄(1996年 - 2003年) - 巨人(2004年 - 2005年)- 野球浪人 - オリックス(2007年 - )
- FA取得・行使:2004年(1回目・現在も有資格者)
- 英語表記:RHODES
- 背番号:8
- 守備位置:外野(1996~2000年は主に右翼手、2001~2003年は主に左翼手。2004~2005年は主に中堅手。)
- 推定年俸:4700万+出来高(2007年)
[編集] 打撃成績
(表中太字の数字は年度リーグ最多記録、カッコ( )内の数字はリーグ打撃成績の順位) ※2007年は3月29日(木)現在。通算成績は2006年までの通算成績。
年 | 球団 | 背番号 | 試合数 | 打数 | 得点 | 安打 | 二塁打 | 三塁打 | 本塁打 | 塁打 | 打点 | 盗塁 | 犠飛 | 四死球 | 三振 | 打率 |
96 | 近鉄 | 20 | 130 | 501 | 80 | 147 | 29 | 1 | 27 | 259 | 97 | 11 | 5 | 58 | 122 | .293(7) |
97 | 135 | 511 | 88 | 157 | 37 | 0 | 22 | 260 | 102 | 22 | 5 | 91 | 109 | .307(6) | ||
98 | 134 | 494 | 81 | 127 | 25 | 0 | 22 | 218 | 70 | 15 | 4 | 81 | 120 | .257(25) | ||
99 | 131 | 491 | 94 | 148 | 38 | 1 | 40 | 308 | 101 | 5 | 3 | 71 | 115 | .301(4) | ||
00 | 135 | 525 | 85 | 143 | 25 | 2 | 25 | 247 | 89 | 6 | 4 | 60 | 134 | .272(21) | ||
01 | 140 | 550 | 137 | 180 | 19 | 0 | 55 | 364 | 131 | 9 | 2 | 91 | 140 | .327(4) | ||
02 | 138 | 534 | 94 | 145 | 31 | 2 | 46 | 318 | 117 | 5 | 3 | 76 | 140 | .272(17) | ||
03 | 138 | 508 | 94 | 140 | 16 | 0 | 51 | 309 | 117 | 7 | 6 | 100 | 137 | .276(26) | ||
04 | 巨人 | 134 | 523 | 95 | 150 | 17 | 0 | 45 | 302 | 99 | 3 | 1 | 77 | 147 | .287(31) | |
05 | 101 | 379 | 54 | 91 | 9 | 0 | 27 | 181 | 70 | 2 | 7 | 59 | 125 | .240 | ||
07 | オリックス | 8 | ||||||||||||||
通算成績 | 1316 | 5016 | 902 | 1428 | 246 | 6 | 360 | 2766 | 993 | 85 | 40 | 764 | 1289 | .285 |
主な達成記録
- シーズン本塁打プロ野球最多タイ記録 55本塁打(2001)
- シーズン個人得点パ・リーグ最多記録 137得点(2001・プロ野球史上2位)
- シーズン塁打数パ・リーグ最多記録 364塁打(2001・プロ野球史上3位)
- 2試合連続満塁本塁打 プロ野球タイ記録 史上4人目(2003.6.23-6.25)
- 10年連続シーズン100三振以上 プロ野球史上初(1996-2005)
メジャー通算成績:225試合 590打数132安打 13本塁打 44打点 14盗塁 打率.224
日米通算成績:1541試合 5606打数 1560安打 373本塁打 1037打点 99盗塁 打率.285
年 | 位置 | 試合 | 刺殺 | 補殺 | 失策 | 併殺 | 守備率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
1996 | 外 | 129 | 232 | 8 | 5 | 1 | .980 |
1997 | 外 | 135 | 264 | 14 | 6 | 5 | .979 |
1998 | 外 | 133 | 261 | 9 | 6 | 1 | .978 |
1999 | 外 | 131 | 243 | 8 | 5 | 1 | .980 |
2000 | 外 | 135 | 244 | 7 | 4 | 2 | .984 |
2001 | 外 | 140 | 254 | 3 | 3 | 1 | .988 |
2002 | 外 | 135 | 213 | 3 | 6 | 0 | .973 |
2003 | 外 | 136 | 247 | 11 | 5 | 4 | .981 |
2004 | 外 | 134 | 226 | 5 | 3 | 0 | .987 |
2005 | 外 | 101 | 183 | 6 | 3 | 1 | .984 |
[編集] 獲得タイトル
- 本塁打王 4回(1999、2001、2003、2004)
- 打点王 2回(1999、2002)
- MVP 1回(2001)
- ベストナイン 6回(1997、1999、2001~2004)
- 日本シリーズ敢闘賞(2001年)
[編集] エピソード
- 「タフィ」はタフ(tough)からきている。この由来に関しては、幼少時代、顔面に死球を受け鼻血を出したにも関わらず翌日の試合では元気に試合に出場している姿を母親に「タフだ」と言われたから、同様に顔面に死球を受けたにも関わらず試合に出続けた姿を見た監督が「タフな奴だ」と言ったからの2説が一般に流れているが、前者の母親が絡んでくる話は巨人入団後のプロフィールに記載されたものであり、それ以前の近鉄在籍時には監督絡みの話であったことから母親絡みの方が誤りである可能性が高い。
- MLB在籍時代、俊足の持ち主でもあるローズにはトップバッターとしての活躍が首脳陣から期待されていたが、ローズはホームランバッターとして試合に出たかった為に首脳陣と折り合わず、その夢を実現するために日本に来ることを決意した(ローズが俊足である裏づけとして、来日直後の3年間で48盗塁を記録し、最初ステレオタイプに該しない俊足、好守備の助っ人として注目されていたことが挙げられる)。
[編集] 近鉄時代
- ローズはバットを上段に構えてひょこひょこ振ってタイミングを取る独特のバッティングフォームをしているが(一部の書籍では「水平打法」と記載)、実は98年までは「バットを立てて構える」、99年以降は「バットを寝かせて構える」といった微妙なマイナーチェンジがなされている(2冠王となった99年にフォームを変えたことで成績が良くなったと本人が話している)。また、上段から振り上げるそのバッティングスタイルのせいか、内角低めの膝元に来る球に非常に強かった。
- 凡退や審判への不満でよくヘルメットを壊していた。特に来日当初はまだ日本語を上手く話せなかったこともあってか、ヘルメットを壊して当たり散らすことが多く、困った用具係が苦肉の策としてシーズン中に壊したヘルメットの数をシールにし、ヘルメットに貼り付けていた。だが、ローズは当初このナンバリングの意味が分からず「どうして背番号じゃない番号が貼ってあるんだろう」と首を傾げていたという。
- ヒーローインタビューでは、当時監督だった佐々木恭介の台詞「ヨッシャー!!」を絶叫していた。また、シーズン中には様々な形で日本文化に触れ、またオフの帰国中にも日本語を学ぶなど、日本に強い興味を抱いている。あるインタビューでローズは「今度生まれ変わったら日本人に、それも関西人に生まれてきたい」と語っている。
- 来日当初は大阪市中心部から藤井寺球場まで近鉄南大阪線を使って電車通勤していた。大型バイクに乗るのが好きで、その後バイクまたは自動車での通勤が認められ、日本のバイクメーカー川崎重工業のバイクを愛用していた。
- 大阪ドーム外野席には55号本塁打が着弾した(とされる)座席を「ローズシート」とし、一番近い入り口に記念プレートを設置し、ホームランボールが当たった座席は特別にローズ色(バラ色)に塗られている。
- 2001年、シーズン最多本塁打記録の更新に挑んだが、9月30日の福岡ダイエーホークス戦で敬遠四球を受けたこともあり、達成できなかった。この際に当時ダイエーのバッテリーコーチであった若菜嘉晴が試合前、監督不在のミーティングで「どうせあいつはアメリカに帰るんだから、俺たちが監督の記録を守ってやらないといけない」と言って敬遠を指示した。このことは、日本以上にアメリカで反響を呼んでしまい、「王貞治の記録を守ろうとする日本プロ野球の閉鎖的な姿勢」「人種差別と戦ったハンク・アーロンの記録を抜いた王自身が、人種差別をして自らの記録を貶めた」などと地元誌やニュース放送等で非難されることになってしまった。なお、王貞治はこの試合前の練習の際に直接ローズに対して本塁打新記録達成を望む声をかけていた。それにも拘らず試合では敬遠を止めなかったため、若菜だけではなく現場の最高責任者である王にも責任があると王を非難する声もあった。更に、ローズは1打席でも多く立てるようにと1番バッターとして出場していたが、1打席目からボール球ばかりで、業を煮やしたローズはボール球に手を出し凡退、2打席目も同様で、3打席は四球、4打席目は敬遠であり、この日ローズには2球しかストライクゾーンにボールが飛んでこなかった。ローズの1番起用にはバッテリーの敬遠を避ける意図もあった(1回の先頭打者から敬遠することは通常ありえないため)が、反面、トップバッターとして立ったことに個人記録だけを狙っているとして批判する声もあった。ローズは試合前に王監督から上述のように声をかけられたにも拘らず試合では敬遠を受けたため、試合後に日本プロ野球に失望したという悲しみのコメントを残した。試合は4-12で敗戦。なお、事態はこれだけに留まらず、翌10月1日、当時のプロ野球コミッショナー川島廣守がフェアプレーを訴える異例のコミッショナー宣言を出し、個人記録への妨害を意図する行為の排除を強く求めた。また10月2日、パ・リーグの小池唯夫会長はダイエーに対し、ローズとの勝負を記録阻止のために意図的に避けたともとれる言動をしたとして厳重注意を行った。
- 大阪近鉄は同年、12年ぶりのリーグ優勝を果たしたものの、日本シリーズではヤクルトスワローズの前に敗れた。しかし同年シーズン、ローズと中村の合計本塁打数101本、打点263点は当時の日本記録。この記録はお互いのアドバイスが大きいと当時の2人は語った。また、3番ローズ、4番中村紀洋、5番礒部公一でのクリーンアップでの合計打点354点も日本記録(後にコンビ合計・クリーンアップ合計の打点は2005年阪神の金本知憲、今岡誠、アンディ・シーツが更新)。
- 同年オフ、川崎重工業はローズに対し、55号ホーマー達成記念として排気量1500ccの大型バイクをベースにしたオリジナル仕様の「ローズバイク」を贈呈した。ローズが以前からカワサキのユーザーである事を公言していたのが縁となった。このバイクは苗字のローズ(バラ=ROSE。タフィはRHODESでつづりが違う)にひっかけて色は赤を基調とし、後部には「狼主」の文字が刻まれていた。(同年ファン感謝デーで本人に1台、ファンに抽選で1台プレゼントされた。ちなみにファンにプレゼントされたバイクはその後Yahoo! オークションに出品された)。
- 2001年、シーズン55本塁打達成の余波か、少年サンデー超2001年11月号に「タフィ・ローズ物語」が掲載された。
- 2001年~2003年、ローズは西武ライオンズのアレックス・カブレラと3年続けて本塁打王争いを繰り広げることとなる。ローズは2001年、2003年と2度に渡りカブレラを上回り、本塁打王を獲得した。これによりカブレラは、「50本塁打を記録しながら本塁打王になれなかった」プロ野球史上初の選手となった(2001年ローズ55本、カブレラ49本。2002年ローズ46本、カブレラ55本。2003年ローズ51本、カブレラ50本)。
- 2003年序盤戦、近鉄の主砲であるローズと中村は厳しい内角攻めを受けていた。5月21日に大阪ドームで行われた西武ライオンズ9回戦の5回裏、中村が西武二番手の青木勇人から左肘に死球を受けた。この際、青木が帽子を取って謝罪しなかったため、これに一走・ローズが激高。一塁からマウンドに駆け寄ると青木を激しいタックルで突き飛ばし、その場に押し倒してしまった。青木は突き飛ばされた瞬間に頸部と右足首を捻挫し途中降板、大阪市内の病院に直行した。この時、青木は投捕間にだけ目をやっていたため、左後方からローズが突っ込んでくることには全く気付かず、当然身構えてもいなかった。このように青木を“不意討ち”したローズは暴力行為で退場となったが「ノリを守るためにやった。どうして青木は帽子を取らなかったんだ? 日本の野球では球をぶつけたら、投手が帽子を取って打者に謝るのが普通じゃないか」と主張した。しかし翌日パ・リーグは2試合の出場停止処分、近鉄球団も厳重注意と30万円の罰金を課した。また、このローズの行動に対し西武は猛反発。一時は刑事告訴を検討する事態にまで発展した。ローズはこのような血気盛んな性格もあってか、日本プロ野球在籍中に課された退場処分は通算9回を記録しており、これは日本プロ野球史上最多である。またオープン戦での退場や1試合に2回退場を宣告されたという珍しい記録もある。
- 2003年シーズン終盤、ローズとカブレラは本塁打数がともに50本で並んでいた。そして、カブレラは、ダイエーの優勝が決まったため、早々と帰国してしまった。この状況下で、ローズは一軍にいながらも数試合を欠場し続けたため、一時期、「タイトルを分け合うためカブレラと談合した」という噂が一部ファンの間で流れた(その後ローズがもう1本ホームランを放って単独トップに立ったため、この噂はすぐになくなった)。
- 2003年シーズン終了後、中村の5年契約を引き合いに出して2年ないし3年の複数年契約を望んでいたが、近鉄フロントは「複数年契約を認めない」とし、ローズ側は当時「外国人差別的なフロントの言い分に失望した」「どんなに活躍しても『ガイジン』としてしか扱ってくれない」と発言、フロント及び日本プロ野球界を非難した。外国人選手に対しての複数年契約は認めないという話は02年にも言われたという。
- 一方近鉄フロントは「外国人選手に対しては1年契約とするのが原則」とし、近鉄本社の山口昌紀社長は、「あのブライアントでも1年契約の積み重ねだった」「ローズには年俸10億円を払っていた(2004年。真相は不明である)」と主張。交渉は決裂、巨人と契約することとなった。
- 梨田昌孝監督には「養子にしたいくらい」と可愛がられていた。
- 近鉄時代のヘッドコーチ伊勢孝夫を「日本のお父さん」と慕っており、彼がヘッドコーチからフロントへ転進した後も打撃がスランプに陥った際は指示を仰いでいた。
- 来日してから1999年頃までは主に中村紀、フィル・クラークらとクリーンアップを組み、年によって打順は3番~5番の間でバラバラであった。しかし2000年頃から2003年まで3番ローズ、4番中村紀で打順がほぼ固定された。2001年頃には、日本記録ペースで本塁打を量産するローズを4番に据えた方が良いのではないかという声も上がったが、ローズ自身が「俺は気楽に打てる3番のほうが良い、4番はノリに任せた」という趣旨の発言で否定した。
[編集] 巨人時代
- 巨人移籍後は事故による負傷を防ぐため、通勤手段は車のみに切り替えたが、国際運転免許証の更新が切れていたことが発覚し、日本での運転は自粛。その後は主にハイヤーで通勤していた。
- もともと俊足・好守で鳴らした選手ということもあり、巨人ではその打力もであるがそれ以上に「松井秀喜移籍後ようやく無難にセンターを守れる外野手が加入した」ということでファンから歓迎を受けた。
- 巨人時代は打順は3番・4番でなく5番を打つことが多く、それに対してフラストレーションを感じることも多かったといわれている。メジャーリーグでは1回に必ず打席が回る3番打者にチーム最強のバッターを置く場合が多く、打線の核としての4番打者もまた重要である。しかし同年、当時監督の堀内恒夫らが編成したのは3番小久保裕紀、4番高橋由伸、そしてローズが5番という打順だった。これをローズは「最強打者」の看板を外されたと受け止め、少なからず「屈辱」と感じたようである。だが、そんな中でもローズは同年シーズン45本塁打を記録し、日本プロ史上2人目となるセ・パ両リーグ本塁打王に輝いている。
- マスコミは翌年清原和博が4番に座ってから「清原叩き」目当てにこの深刻な問題を取り上げるが、その頃ローズをはじめ一部選手と首脳陣の仲は冷え切っていた。巨人4連敗で迎えた2005年4月26日、福岡ドームで行われたヤクルトスワローズ4回戦の9回表、ヤクルト・アレックス・ラミレスが放った左中間への打球を追わなかったのを、当時守備・走塁コーチ兼打撃コーチ補佐の弘田澄男に「緩慢プレーだ」と指摘されると、ローズはこれに激高し、弘田に掴み掛かるなど激しい口論となった。結局試合は敗戦で5連敗。試合後もローズは怒りが収まらず、ドームから宿舎に向かう通路で報道陣からこの騒動について問われると、必死になだめる通訳を制して「どんどん(記事に)書いて」と前置きした上で「負けたのは俺のせいだと弘田さんが言った。日本で10年間やってきたけど尊敬がない。投手があれだけ打たれるのも俺のせい? ピッチャーも悪い。みんな悪い。ジャイアンツ下手くそ。ジャイアンツ大嫌い。東京に帰る」と日本語でまくし立てた。この言動は物議を醸し、後日オーナー側から罰金を徴収された。結果としてこの発言が、シーズン後の戦力外通告の遠因になったと言われている。
[編集] 日本球界復帰・オリックス時代
- 近鉄時代から大好きだったバイクを封印。車の運転も自粛し、野球に専念する。通勤にはタクシーを利用するとの事である。
[編集] その他
- 大振りしてしまった際に、自分を戒めるためにバットでヘルメット(自分の頭)を叩くクセがある。
- 長い日本での生活にも慣れ、「狼主」と漢字名の名前をサインに使ったりしている。日本語のレベルもかなり高く、漢字も読める。チームメイトとは日本語で会話を交わし、ヒーローインタビューでもインタビュアーの言葉をほぼ理解しているので英訳は必要無く、ローズが英語で話し通訳が和訳する、というスタイルで行われている。また、近寄ってきたファンにも日本語で会話をしている。ちなみに巨人移籍時、発言によるトラブルの発生を避けるため、「記者と会話する際は、基本的に通訳を介して話すように」という契約が交わされている。見逃し三振に倒れ審判に抗議する際、英語を使ったところ、逆上した審判に「日本語でしゃべれ」と言われたというが真相は不明。また、判定に対する文句を英語で言った際、その審判が元オリックス・ブルーウェーブで英語の通訳をしていた人物であり、ローズの発言に対して退場を宣告した。これに対して、ローズは試合後「あの審判は英語が話せるのを忘れてた」と発言していた。
- 焼き鳥が好物で近鉄時代は焼き鳥チェーン店によく通っていた。
- 日本文化をこよなく愛しており、引退後は故郷の自宅に「和室」を作り、日本刀や日本人プロ野球選手から貰った野球用品を飾る予定。また、日本の野球道具メーカーの品質の高さに感服しており、特にミズノのバットは来日以来使用している。なお、ローズは以前「生まれ変わったら日本人になりたい」と発言している。
- 2000年頃まで新聞記者に「横浜のローズと何か関係があるのか?」と尋ねられることが何度もあったそうだが、その度にローズはユニホームの背中部分を見せ、「よく見てくれよ。俺のはROSE(バラ=ロバートの表記)じゃなくてRHODESだろう?」と呆れながら答えていたらしい。また、その綴りを間違ってユニフォームに書かれたために怒りを示したこともある。
- 日本プロ野球において、外国人として入団した選手の中で通算本塁打数、打点数が1位である。
- 長期に渡る在日年数により、近鉄に所属する新外国人選手の様々な面での相談役であり、ジェレミー・パウエルには日本野球の攻守に於ける特長や生活に関しても相談を受けていた。なお、パウエルの好物である焼き鳥はローズに教えられたものだとパウエル自身が発言している。
- ジョージ・アリアスとは同じ関西球団、アメリカ合衆国出身であったことから非常に仲が良く、アリアスと同じマンションに引っ越した際は、たびたび料理や甲子園球場に招待されていた。甲子園球場でジェット風船を飛ばす姿が新聞記事に掲載されていた。また、その際に新聞記者に取材されており、「僕は阪神ファン。特に井川が好き」とジョークが好きでサービス精神旺盛な彼の性格を表す応答をしていた。
- 息子(カール・Jr.)が来日するとバッティングの調子が上がっていた。そのため一部のファンからはずっと息子に滞在して欲しいという声が上がった。(バッティングについては夜遊びできなくなるため普段より良いコンディションで試合に望めただけという説もある)。しかし、逆に調子が悪くなると、夜遊びが出来なくてストレスが溜まっている、という噂が流れていた。
- NHK大阪放送局の取材に応える前川勝彦の後ろで、何故か大仏を模した覆面を被って邪魔をしていた。
- 原因は全くの不明であるが、近鉄時代には打率が必ず年によって交互に上がる下がるを繰り返し、本塁打数や打点数にもその傾向が見られ、巨人に移籍してからも続いた。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
00 軒作 | 0 森山周 | 2 的山哲也 | 3 村松有人 | 4 阿部真宏 | 5 清原和博 | 6 トム・デイビー | 7 水口栄二 | 8 タフィ・ローズ | 9 平野恵一 | 10 大引啓次 | 11 川越英隆 | 12 歌藤達夫 | 13 吉田修司 | 14 岸田護 | 15 加藤大輔 | 16 平野佳寿 | 17 香月良太 | 18 山口和男 | 19 金子千尋 | 20 山本省吾 | 21 吉井理人 | 22 ユウキ | 23 北川博敏 | 24 後藤光尊 | 25 チャド・アレン | 26 加藤康介 | 27 日高剛 | 28 小松聖 | 29 ダン・セラフィニ | 30 グレッグ・ラロッカ | 31 塩崎真 | 32 ランス・カーター | 33 高木康成 | 34 本柳和也 | 35 大久保勝信 | 36 下山真二 | 37 辻俊哉 | 39 鴨志田貴司 | 40 前田大輔 | 41 松村豊司 | 42 萩原淳 | 43 菊地原毅 | 44 鈴木郁洋 | 45 光原逸裕 | 46 迎祐一郎 | 47 延江大輔 | 48 阿部健太 | 49 中山慎也 | 50 大西宏明 | 52 坂口智隆 | 53 相川良太 | 54 一輝 | 55 岡田貴弘 | 56 柴田亮輔 | 57 筧裕次郎 | 58 長田昌浩 | 59 梅村学人 | 60 牧田勝吾 | 61 町豪将 | 62 勝 | 63 吉良俊則 | 64 田中彰 | 65 近藤一樹 | 66 由田慎太郎 | 67 横山徹也 | 68 仁藤拓馬 | 69 土井健大 | 99 吉川勝成 | 113(育成選手) 柴田誠也 | 114(育成選手) 宮本大輔
1 監督 テリー・コリンズ | 81 大石大二郎 | 83 神部年男 | 75 ジョン・ディーバス | 89 真喜志康永 | 74 松山秀明 | 85 別府修作 | 78 米村理 | 80 赤川貴弘 | 96 二軍監督 住友平 | 70 清川栄治 | 87 赤堀元之 | 76 大島公一 | 82 三輪隆 | 77 弓岡敬二郎 | 79 内匠政博 | 72 吉原孝介 | 88 安田昌玄 | 84 本屋敷俊介 |