ディートリッヒ・ボンヘッファー
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ディートリッヒ・ボンヘッファー(Dietrich Bonhoeffer, 1906年2月4日-1945年4月9日)は、ドイツのルター派(福音ルーテル派)の牧師。20世紀を代表するキリスト教神学者の一人。第二次世界大戦中にヒトラー暗殺計画に加担し、別件で逮捕された後、極めて限定された条件の中で著述を続けた。その後、暗殺計画は挫折。ドイツ降伏直前の1945年4月9日、処刑を急ぐナチスにより、フロッセンビュルク(現在はポーランド領)の収容所で刑死。ベルリン国立図書館の一階には、絞首台のロープが首にかけられたボンヘッファーを描いた大理石の胸像が展示されている。
[編集] 生涯
ドイツのブレスラウ(現在はポーランド領)で、精神医学の権威であった父カール・ボンヘッファー(1911年以降ベルリン大学医学部教授)の家庭に、8人兄弟の6番目として生まれた。
1923年にテュービンゲン大学神学部に入学。
1927年(21歳)、学位論文「聖徒の交わり」(Communio Sanctorum)により最優等の成績でベルリン大学より神学博士号取得。
翌1928年には、 バルセロナ で副牧師(牧師補)となる。
1929年には、ベルリン大学助手。
1930年から1931年にかけてアメリカ合衆国に留学し、ニューヨークのユニオン神学校のラインホルド・ニーバーの元で学んだ。このアメリカ滞在中に、ハーレムのアフリカン・メソジスト・エピスコパル教会の共同体と接触する機会があり、アフリカ系アメリカ人に対する差別の問題に直面する。マハトマ・ガンジーの思想からの影響と共に、アメリカでの経験が福音の社会的側面に対してボンヘッファーの眼を開かせ、神学者として出発した彼が、その後キリスト者として、やがて同時代人として生きることを選ぶ一つの契機となったと考えられる。
1931年に帰国後、ベルリン大学講師となる。
1933年1月30日にヒトラーが宰相に就任。ナチスの政権取得直後、ボンヘッファーはラジオ放送でナチスの「指導者原理」を露骨に批判したが、放送は突然中断された。
同年7月には、ユダヤ人の公職からの追放を目的とした「アーリア条項」が制定される。その後、秋までには「ドイツ的キリスト者」(Deutschen Christen)と呼ばれるナチスの追随者がドイツのプロテスタント教会で支配的になるが、こうした動きに対抗し、9月21日、ボンヘッファーはマルティン・ニーメラーらと 牧師緊急同盟を結成。これが後の告白教会(Bekennende Kirche)に繋がる。ただし、アーリア条項に反対した当時の他の教会指導者たちとボンヘッファーが全く同一の考えを持っていたわけではない。他の指導者たちにとって、反対すべき主要な理由は、教会の自由が侵害されるという点であったが、ボンヘッファーは問題の重大性をはるかに深く認識していた。
同年、ロンドンのドイツ人教会の牧師に着任し、教会闘争において最も親しい友人となる世界教会会議議長チチェスターの主教 ジョージ・ベルに出会う。
1934年4月22日 告白教会結成。5月末には第1回全国告白教会総会が開かれ、6月にはカール・バルト起草による「バルメン宣言」が全会一致で可決された。
同年4月、ロンドンから戻り、告白教会による非合法の牧師養成所(後にフィンケンヴァルデに移る)の所長となる。ただし、ナチズムとの妥協を図ろうとする穏健派が告白教会内でも多数派であり、こうした思想的相違から、告白教会内でのボンヘッファーの影響は大きくなかった。この頃、後の婚約者マリア・フォン・ヴェーデマイヤーと知り合っている。
1936年8月に、ナチスに対する反対により、ベルリン大学から解任される。
1937年 7月1日、マルティン・ニーメラー逮捕。
同年9月、フィンケンヴァルデの牧師養成所がゲシュタポにより閉鎖される。
1939年6月2日にニューヨークに向けて出発。アメリカではニーバーらがボンヘッファー亡命のための準備を整えていた。しかし、わずか1か月後にはドイツに帰国することを決断する。
1939年、ドイツ軍諜報部内のヒトラー暗殺計画に参加。ボンヘッファーの役割は、グループの精神的支柱となることのほかに、各国のエキュメニズムとの連絡、連合国側への情報提供、及び和平交渉であった。
1943年1月に、マリア・フォン・ヴェーデマイヤーと婚約。しかし、数か月後の4月5日に、ユダヤ人の亡命を援助したことにより逮捕。
1944年7月20日、ヒトラー暗殺は失敗に終わり、暗殺計画の首謀者の一人クラウス・フォン・シュタウフェンベルクは処刑、暗殺グループに関わっていた兄クラウス、義兄リューディガー・シュライヒャーも逮捕される。
1945年4月にヒトラー暗殺計画の一員であったヴィルヘルム・フランツ・カナリス提督の日記からボンヘッファーの関与が発覚。わずか数日後の4月8日、ボンヘッファーはフロッセンビュルク収容所へ移送されて死刑判決を受け、翌日処刑された。同日には、義兄ハンス・フォン・ドナーニィも処刑されたとされる。兄クラウス、義兄リューディガー・シュライヒャーも4月23日にベルリンで銃殺された。
ボンヘッファーが刑死したわずか3週間後にヒトラーは自殺した。
[編集] 思想
その早すぎる死のため、ボンヘッファーは自らの思想を語りつくすことはできなかったが、「安価な恵み」「高価な恵み」、「無宗教的キリスト教」、「成人した世界」などの論争的な術語により、第二次世界大戦後のキリスト教界に大きな影響を与えた。
上述したように、ボンヘッファーはガンジーから影響を受け、非暴力の抵抗を理想と考えたが、当時のドイツは限界状況にあり、違法な手段以外に選択肢はなかった。ボンヘッファーは、ある一定の状況においては殺人が善でありうると主張したのではない。殺人は悪であり、神の審きの対象であることに変わりはなく、マタイによる福音書26章52節にあるように、「剣を取る者は皆剣によって滅びる」のである。しかし、隣人のためにその罪を自ら引き受ける者が彼の時代には必要であるとボンヘッファーは考えた。そのようにして神の律法を一時的にでも超えて行くことは、彼によれば、将来における真の意味での律法の成就に不可欠であった。逆に、善を選ぶことが不可能な状況下において、より大きな悪を避けるためにより小さな悪を選ばないことは、逃避であるとされ、批判の対象となった。良心は葛藤を避けるために自律を放棄して他律に陥り、それが当時のドイツではヒトラー崇拝という形をとったとボンヘッファーは見なした。
[編集] 著作
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