トニー・クーコッチ
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男子 バスケットボール | ||
銀 | 1988 | バスケットボール |
銀 | 1992 | バスケットボール |
トニー・クーコッチ(Toni Kukoč, 1968年9月18日 - )は、クロアチア・スプリト出身のバスケットボール選手。ユーロリーグの最優秀選手として活躍したのち、アメリカに渡りNBAのシカゴ・ブルズなどでプレー。長身ながらもアウトサイドシュートやパスを得意とし、主にスモールフォワードとしてプレイしている。1988年のソウルオリンピックではユーゴスラビア代表として、1992年のバルセロナオリンピックではクロアチア代表として銀メダルを獲得した。また、1990年のバスケットボール世界選手権でもユーゴ代表として優勝している。
[編集] 経歴
- ユーゴスラビア時代にはKKスプリトに所属し、1988年から1990年にかけ国内リーグ優勝を経験。1989年と1990年に同チームはユーロリーグを制した。ヨーロッパでプレーしていたクーコッチは、長身ながらパスさばきのうまさから「ヨーロッパのマジック・ジョンソン」、「白いマジック・ジョンソン」、「ウェイター」の異名を持っていた。
- 1990年にはシカゴ・ブルズより2巡目全体29位で指名されたが、クーコッチはヨーロッパに残り、1991年からはイタリアのベネトン・トレビソでプレーしていた。
- 1992年にクロアチア代表として出場したバルセロナオリンピックでは、高額な契約金・年俸に対しその後チームメイトとなるマイケル・ジョーダンやスコッティ・ピッペンから激しいマークを受け十分な活躍ができなかった。クロアチアのチームメイトには事故死したドラガン・ペトロビッチやディノ・ラジャ、ユーゴスラビア代表時代は、ブラデ・ディバッツらがいた。
- 1993-94シーズンからシカゴ・ブルズに加入して、ジョーダンが引退した直後のチームで主にスモールフォワードのスコッティ・ピッペン、パワーフォワードのホーレス・グラントなどの控えとして、さらにセンターやシューティングガードとしてもプレイした。平均2桁得点をあげてオールルーキーセカンドチームに選ばれた。
- 1994-95シーズン、グラントが退団したため先発として出場、得点、リバウンド、アシストでピッペンに次いでチーム2位の記録を残した。
- 1995-96シーズン、ジョーダンが復帰、リバウンド王のデニス・ロッドマンの加入によって、クーコッチは再び控え選手となった。このシーズン、チームはリーグ記録の72勝10敗の成績を残し、クーコッチはジョーダン、ピッペンに次いでチーム3位の得点をあげた。リーグで最もチームに貢献した控え選手に贈られる「シックスマン賞」を受賞した。
- 続く2シーズンもピッペンやデニス・ロッドマンの控えとして活躍した。
- 1998-99シーズンのロックアウトで短縮されたシーズンは、ジョーダンが引退、ピッペンやロッドマンが退団すると、クーコッチが中心選手としてチームを率いることになった。自己最高の平均18.8得点、7.0リバウンド、5.3アシストをマークしたが、チームは苦戦した。1999年には優勝経験ある選手はクーコッチ1人となった。
- クーコッチは1999-2000のシーズン中にフィラデルフィア・セブンティシクサーズにトレードされ、翌シーズンにはアトランタ・ホークスに再びトレードされた。シクサーズでは主に控えとして、ホークスでは先発としてチームに貢献した。
- 2002-03シーズンからはミルウォーキー・バックスに移り、控えの選手としてプレーしている。2005-06シーズンが終わったのち、クーコッチは引退を仄めかす発言をしているが、まだ去就を決めていない。
[編集] 雑学
- チームのゼネラルマネージャー、ジェリー・クラウスに見込まれて入団していたクーコッチは、チーム内ではピッペンを大きく上回る額の報酬を得ておりチームに不和を引き起こす原因の一つとなった。
- 本格的にバスケに打ち込む前(中学生ぐらいの頃)は、卓球をやっていて、14歳の時、この年齢の部で全国優勝した。
- ボウリングにも才能を発揮し、ブルズ時代にチームのボウリング大会で優勝した。
- 自宅は、イリノイ州ハイランドにあり、晩年は自宅に近いチーム(バックス・ブルズ)でのプレイを希望していた。