マジック・ジョンソン
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男子 バスケットボール | ||
金 | 1992 | バスケットボール |
アーヴィン・“マジック”・ジョンソン(Earvin "Magic" Johnson Jr., 1959年8月14日 - )は、アメリカ合衆国ミシガン州ランシング出身のプロバスケットボール選手で、実業家。
選手時代にはプロバスケットボールリーグNBAでプレイし、1980年代にロサンゼルス・レイカーズを5度のタイトル(1980年、1982年、1985年、1987年、1988年)に導いた。華やかなプレースタイルを持ち、NBA人気の上昇に貢献した。しばしば歴代最高のポイントガードに挙げられる。1991年にHIV感染を理由に引退表明し、各界に衝撃を与えた。1996年にNBA50周年を記念した「歴代の偉大な50人の選手」に選ばれた。2002年に殿堂入り。
目次 |
[編集] 少年期と大学時代
9人兄弟の4番目として生まれた。少年時代からバスケットボールを始め、バスケットボール漬けの日々を過ごした。
高校は地元のエベレット高に進学。ジョンソンが4年生の時、同校のチームは27勝1敗の成績をあげ、ミシガン州を制した。今に残るニックネーム「マジック」は、2年生の時のジョンソンが試合で活躍するのを見た地元の記者がつけたもの。
高校卒業後はミシガン州立大学に進学。2年生時には同大学のスパルタンズを25勝5敗で地区制覇する原動力となり、NCAAトーナメント決勝へと導いた。決勝へ勝ち上がってきたもう一つのチームは、インディアナ州立大だった。ラリー・バード率いる同大学のチームはシーズンを無敗で過ごしており、両者の対決する決勝戦は大学バスケットボール決勝の歴史で最高の視聴率を記録した。ジョンソンのミシガン州立大学がこれを制し、この時始まったジョンソンとバードのライバル関係はプロ入り以降にも続くことになる。
[編集] レイカーズ時代
[編集] キャリア初期
ミシガン州立大学を2年生で中退し、全体1位でレイカーズに指名された。1年目からNBAオールスターゲームで先発を務め、18得点、7.7リバウンド、7.3アシストという好成績でシーズンを終えるなど評価が高かったが、新人王レースではラリー・バードに敗れた。
ジュリアス・アービング率いるフィラデルフィア・セブンティシクサーズを相手にしたNBAファイナルで、レイカーズが3勝2敗と優勝に王手をかけていた時、チームの大黒柱カリーム・アブドゥル=ジャバーが足首に怪我を負った。ポール・ウェストヘッド監督がジョンソンをアブドゥル=ジャバーに代えてセンターとして起用するという奇策を用いたところ、42得点、15リバウンド、7アシストという活躍によりレイカーズが優勝した。当時まだ20歳だったジョンソンは、ファイナルMVPを授賞した史上唯一のルーキーとなった。
2シーズン目のジョンソンは、試合中の接触で膝に怪我を負い、37試合の出場にとどまった。プレイオフの1回戦には怪我をおして出場したものの、ジョンソンのプレイは散々な出来となり、レイカーズは1勝2敗で敗退した。
翌1981-82シーズンのレイカーズは57勝25敗でウェスタンカンファレンスで1位となった。ファイナルではセブンティシクサーズを4勝2敗で下して優勝した。ジョンソンは再びMVPに選ばれたが、ジョンソンにとっては辛い1年となった。
ウェストヘッド監督は速攻よりも緻密なハーフコートオフェンスを重視していたが、それを不満に思っていたジョンソンは、シーズン序盤に「自分をトレードしてほしい」とマスコミに向かって発言した。その翌日、ウェストヘッドは解雇された。この異動は予定されていたものだと発表されたが、ファンやマスコミはジョンソンを痛烈に批難した。このシーズン、ジョンソンは選手生活で唯一オールスターの先発に選ばれなかった。
ウェストヘッドの後任には、アシスタントコーチだったパット・ライリーが昇格し、チームは次第に以前の走るスタイルを取り戻していった。そして翌1982-83シーズンにはジェームズ・ウォージーがチームに入団。この時代に一世を風靡する「ショータイム」と呼ばれたオフェンスの中核となるメンバーが集まっていた。
ただしこのシーズンのファイナルでは主力を怪我で欠き、レイカーズはセブンティシクサーズに優勝を譲ることになった。
[編集] キャリア中期
レイカーズのオフェンスはジョンソンのパスの技術に負うところが大きかった。前シーズンにチーム入りしたウォージーは俊敏な選手で、ジョンソンのアシストからウォージーがダンクシュートで締めるレイカーズの速攻は人気を集めた。この「ショータイム」と呼ばれたオフェンスはレイカーズの象徴となった。ライリー監督の指導のもと、レイカーズはリーグ屈指の強豪となっていた。
一方、東海岸ではボストン・セルティックスが強豪としての地位を確立していた。ジョンソンはセルティックスのエースだったラリー・バードとしばしば比較され、二人はライバルとしてとらえられていた。
1983-84シーズン、レイカーズは54勝28敗でリーグ第2位の成績。1位は62勝20敗のセルティックスで、バードはMVPに選ばれていた。両チームはプレイオフを勝ち上がり、ファイナルで対戦することになった。二人は大学時代にも優勝を競っていた因縁のライバルということもあり、ファイナルは全国的な注目を集めた。
NBAファイナルの第1戦は、レイカーズがアウェイで勝利。続く第2戦、延長時間の残り数秒でジョンソンは残り時間の計算を間違え、そのままセルティックスの勝利となった。第3戦ではジョンソンが21アシストとNBAファイナル記録となる活躍でチームをリードし大勝した。
荒れた試合となった第4戦、残り時間1分を切ったところでジョンソンはボールを失い、最後の局面でフリースローを2本ミス。延長になった試合をレイカーズが落とし、シリーズは2勝2敗のタイとなった。第5戦はセルティックス、第6戦はレイカーズが制した。第7戦では終盤にジョンソンがミスを重ねセルティックスが優勝した。
翌1984-85シーズン、レイカーズは62勝20敗で、セルティックスの63勝19敗に次ぎリーグ2位の成績だった。ジョンソンは前シーズンに続いてリーグ最多の平均アシスト数をマークし、オールNBAファーストチームに選出された。このシーズン再びレイカーズはプレイオフを勝ち上がり、再びNBAファイナルでセルティックスと対戦することになった。
ボストンで行われた緒戦はセルティックスが大勝。続く第2戦はレイカーズが勝利。ロサンゼルスに移った第3戦はレイカーズが大差で勝ち、第4戦はセルティックスが辛勝。5戦目はレイカーズが勝利をものにし、3勝2敗でボストンに試合の場を移すことになった。
6戦目のセルティックスは終盤に差を詰められず、レイカーズが勝ちを収めた。レイカーズが歴史上初めてセルティックスに勝って優勝したばかりでなく、セルティックスがホームで優勝を奪われたのもNBA史上初めてのことだった。
レイカーズはこの翌シーズンもリーグ2位の62勝20敗という成績だった。プレイオフのウェスタンカンファレンス決勝まで勝ち上がったレイカーズは、ヒューストン・ロケッツを相手に1勝4敗の番狂わせを演じられてファイナル出場を逃した。
続く1986-87シーズンはレイカーズとジョンソンにとって転機となった。レイカーズのパット・ライリー監督は、カリーム・アブドゥル=ジャバーに代わりジョンソンがチームリーダーの役割を果たすよう求めた。前シーズンまでと変わり、ジョンソンがチームトップの得点を上げるようになった。
このシーズンは、ジョンソンがアブドゥル=ジャバーに学び、彼が得意としたフックシュートを習得した時期でもあった。アブドゥル=ジャバーの放つフックシュートは打点が高いことで有名だったが、ジョンソンが会得したものはより動きの小さいベビーフックと呼ばれるシュートだった。
1986-87シーズン、レイカーズはセルティックスを上回る65勝17敗を上げ、リーグ1位となった。5年間で4度目のアシスト王になったジョンソンは、プロ入り以来初めてレギュラーシーズンのMVPに選ばれた。
プレイオフでは、レイカーズは11勝1敗の強さで再びNBAファイナルに進出した。イースタンカンファレンスでは、またもセルティックスがファイナルまで勝ち上がった。レイカーズはホームでの最初の2戦に勝利。ボストンに舞台を移した第3戦では、セルティックスが勝ちを上げた。
第4戦は競った展開になった。試合時間残り残り2秒でジョンソンはベビーフックを放ち、レイカーズが逆転した。最後にバードがシュートを放ったがリングに弾かれ、レイカーズは3勝1敗と優勝に王手をかけた。このシュートはジョンソンの生涯最高のシュートとして挙げられることが多い。残りの2戦を1勝1敗で終え、レイカーズは1980年代で4度目の優勝を果たした。ジョンソンはファイナルのMVPに選ばれた。
[編集] キャリア終盤
1987-88シーズンのレイカーズは、リーグ最高の62勝20敗の成績を残した。一方東地区で台頭したデトロイト・ピストンズがプレイオフではセルティックスを破り、NBAファイナルでレイカーズと対戦することとなった。ファイナルでピストンズは奮戦し、レイカーズを第7戦まで追い込むが一歩及ばず、レイカーズは1980年代で5度目、前シーズンから2年連続の優勝を手にした。
翌1988-89シーズンをレイカーズは57勝25敗で終え、試合平均22.5得点、12.8アシスト、7.9リバウンドとオールラウンドに活躍したジョンソンはMVPに選ばれた。しかしプレイオフではふくらはぎを負傷し、レイカーズはデトロイト・ピストンズと戦ったファイナルを0勝4敗で落とした。
続く1989-90シーズンのレイカーズは63勝19敗でリーグ首位、前シーズン同様の成績を残したジョンソンは再びMVPを獲得した。レギュラーシーズンのMVP受賞回数において、ジョンソンはラリー・バードに並ぶ3回に達した。しかしプレイオフではこの年もサンズに敗れ、ファイナル進出はならなかった。
この時期になるとレイカーズの主要メンバーは年齢が高くなり、走る攻撃よりも一層堅実な戦術を重視するようになっていた。カリーム・アブドゥル=ジャバーは1989年に引退しており、パット・ライリー監督は1990年にチームを去った。
次の1990-91シーズン、レイカーズはポートランド・トレイルブレイザーズ、シカゴ・ブルズに次いで58勝24敗でリーグ3位の成績。プレイオフではブレイザーズを下し、ジョンソンのデビュー以来9度目のNBAファイナル進出を果たした。しかしファイナルではシカゴ・ブルズに1勝4敗で敗れ、ジョンソンはリーグを牽引する役割をマイケル・ジョーダンに譲ることになった。
このシーズンの後ジョンソンは突如引退を表明するが、1995-96シーズンに短期間の復帰を果たしている。
[編集] HIV感染と引退
[編集] 引退発表
1991-92シーズン開幕直前の1991年10月に、ジョンソンは生命保険の関係で健康診断を受けた。その診断の結果、ジョンソンがHIVに感染していることが判明した。さらなる精密検査を受けたが結果は同様だった。同時に検査を受けたジョンソンの妻は感染していなかった。プロスポーツの有名選手がHIV感染者となるのは初めてのことであり、医師の勧めにより、ジョンソンは引退を決意した。
1991年11月7日にジョンソンは自らのHIV感染とバスケットボールからの引退を発表した。発表会見の現場には、NBAのコミッショナーデビッド・スターンやレイカーズの選手・元選手、ゼネラルマネージャーのジェリー・ウェストやオーナーのジェリー・バスがいた。
この記者会見は全米で放映されたのみならず、CNNなどを通じて全世界がジョンソンのHIV感染と引退をほとんど同時に知ることとなった。当時はまだエイズに関する大衆の意識が低かったこともあり、ジョンソンのような著名人のHIV感染の公表は世界に衝撃を与え、エイズに関する関心を高めることになった。
その後ジョンソンはブッシュ大統領の招請によりエイズ問題を扱う委員会に参加したり、機会があるごとにエイズに関する啓蒙活動に務めている。
ジョンソンは多数の女性と関係を持ったことを認めた。また心当たりのある女性には自分がHIVに感染している旨を伝えたが、感染源が誰なのかは分からないと述べた。またジョンソンが同性愛者なのではないかという疑いを否定した。
[編集] 最後のオールスター戦
引退してNBAの1991-92シーズンの試合には一切出場しなかったにもかかわらず、引退が突然だったため、オールスター戦のファン投票のマークシート用紙にジョンソンの名前が記載されたままになっていた。そのため、オールスター戦の出場選手投票で、ファンはジョンソンに多数の票を投じた。その結果ジョンソンは全選手中で最多の票数を得るに至った。引退中だったジョンソンはオールスター戦に出場することになった。
オールスター戦でジョンソンは、25得点、9アシストと活躍した。西軍の先発として出場したジョンソンは、東軍のマイケル・ジョーダンやアイザイア・トーマスと1対1で対戦する場面があり、観客を湧かせた。試合は西軍が勝利を収め、ジョンソンはMVPに選出された。
[編集] プレイスタイルと記録
マジック・ジョンソンに関しては、パスの技術についての評価が高い。彼のパスは多彩であり、誰もが予想しないパスをしばしば見せた。全く見ていない方向に繰り出す、いわゆる「ノールックパス」を得意とした。
生涯通算アシスト数は10,141で、レイカーズ歴代1位、NBAでも歴代3位。プレイオフの通算アシスト記録2,346を保持。1983年、1984年、1986年、1987年と4度リーグのアシスト王。1試合当たりの生涯平均アシスト数は11.2で歴代1位。その他アシストに関する多数の記録を持つ。
彼のように206センチの高身長ながらポイントガードを務める選手は、当時珍しかっただけでなく歴史上でも稀である。
ジョンソンはパス・アシストに才能を持っていたのみならず、オールラウンドな選手だった。得点、リバウンド、アシスト、スティール、ブロックショットのうち3つの部門で2桁を上げるトリプル・ダブルを、ジョンソンは生涯で138回記録しており、NBA歴代1位である。2位はラリー・バードの59回。ただし、トリプル・ダブルの記録が採られ始めたのはジョンソンがプロ入りした時期からであり、1960年代を中心に活躍したオスカー・ロバートソンはジョンソン以上にトリプル・ダブル相当の数字を残していた可能性がある。
キャリア末期にはフリースローを非常に高い確率で打っており、1988-89シーズンは成功率91.1%でリーグ首位を記録した。ラリー・バードも何度かこの部門でリーグ首位に立っており、翌1989-90シーズンには再びバードがフリースロー成功率でリーグ1位になった。
1987年、1989年、1990年にレギュラーシーズンのMVPを受賞。1983年から1991年まで9年連続でオールNBAファーストチームに選出。オールスター戦には1980年から1992年まで13年連続で選出。このうち1990年と1992年はMVPを受賞。プレイオフでは、1980年、1982年、1987年にファイナルMVP受賞。
1996年には、「NBA50年の偉大な50人の選手」の一人に選ばれた。2002年にはバスケットボール殿堂入りを果たした。
[編集] 引退後の活動
[編集] ドリームチーム
1992年バルセロナオリンピックにてアメリカ代表に参加。オリンピックのバスケットボールアメリカ代表決定の行うUSAバスケットボールはまずジョンソンに参加の話を持ちかけ、了承したジョンソンが怪我をしていたラリー・バードを説得。その後マイケル・ジョーダンら当時最高のメンバーが選出されることとなり、ドリームチーム結成となった。
ドリームチームは圧倒的な強さを見せ、ジョンソンらの貢献もあり金メダル獲得を果たす。
[編集] バスケットボール関連の仕事
引退後1992年から1994年、NBC Sports という番組でコメンテーターの役職に就く。
1993-1994シーズンは短期間レイカーズの監督を務めるが、5勝11敗の成績に終わる。
1994年以降はレイカーズの副社長に就任している。
1995-96シーズンに現役復帰、シーズン終盤の32試合でパワーフォワードとしてプレイした。1試合あたり14.6得点、6.9リバウンド、5.7アシストを記録した。
1990年代には、引退した選手などを集めて「マジック・ジョンソン・オールスターズ」を結成、世界中を巡業して各地のチームと試合をした。
[編集] ビジネス
1993年に Johnson Development Corporation (JDC) を設立、同社のCEOに就任。
1994年以降、同社は全米5か所にシネマコンプレックス Magic Johnson Theater を展開。
1998年、JDC はコーヒーショップ経営のスターバックスと共同出資で Urban Coffee Opportunities (UCO) を設立。UCOは全米70か所以上にスターバックスの店舗を展開している。
JDC は2001年以降、Canyon-Johnson Realty Advisors と共同で Canyon Johnson Urban Fund を経営、全米の主要都市で不動産業・土地開発業を営んでいる。また Washington Mutual と共同で全米の主要都市で住宅ローンの事業に携わっている。
このほか、ジョンソンは1998年に The Magic Hour という番組のホストを務めている。
[編集] 政治
近年は民主党支持者として活動している。2006年には、カリフォルニア州の知事選に出馬したフィル・アンジェリデスを支持し、アーノルド・シュワルツネッガー知事に対して不満を表明。「知事としてではなく、俳優としての彼が好きだ。」とコメントした。
[編集] 外部リンク
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