トニー・ブレア
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トニー・ブレア(Tony Blair)(アントニー・チャールズ・リントン・ブレア(Anthony Charles Lynton Blair)、1953年5月6日 ‐ )は、イギリスの政治家。イギリスの首相(第73代)。労働党党首(18代)。庶民院(下院)議員。
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イギリス第73代首相
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任期: | 1997年5月2日 – 現職 |
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出生日: | 1953年5月6日 |
生地: | スコットランド、エディンバラ |
政党: | 労働党 |
配偶: | シェリー・ブース |
目次 |
[編集] 生い立ち
スコットランドのエディンバラ生まれ。父親は法廷弁護士、法学教授だった。彼は、オーストラリアのアデレードやイングランドのダーラムで幼年期のほとんどを過ごす。 「スコットランドのイートン校」として知られるエディンバラのフェテス・コレッジを1971年に卒業。(そこでの人間関係で、後に彼が大法官に任命することになるチャーリー・ファルコナーに出会った。ただし、ファルコナーは、グレナールモンドのトリニティ・コレッジ出身。) 彼はオックスフォード大学セント・ジョンズ・カレッジで法律を学ぶ。在学中には「アグリー・ルーマーズ」というハードロックバンドのボーカリストとしても活動した。と同時に、かなり年上の友人ピーター・トムソンから影響を受け、ジョン・マクマレイなどキリスト教社会主義に傾倒する。大学卒業し、ロンドンでの修習後、法廷弁護士となる。また、この司法修習中に、後の大法官デリー・アーヴァインや、後の妻となるシェリー・ブースと知り合う。
[編集] 政治経歴
1975年の大学卒業直後、労働党に入党。1982年ビーコンズフィールドでの補選で敗れた後、1983年総選挙において、30歳でイングランド北部のセッジフィールド選挙区から労働党下院議員に選出される。
- 1984~87年 大蔵・経済関係担当野党スポークスマン
- 1987~88年 影のエネルギー担当大臣
- 1988~89年 影の雇用大臣
- 1989~92年 雇用担当野党スポークスマン
- 1992~94年 影の内相
ブレアはその盟友ブラウンらとともに党の近代化を唱える「モダンナイザー」と呼ばれるグループのリーダーだった。モダンナイザー達は、反資本主義的な政策を改め、サッチャー革命の恩恵を受けた中産階級に新しい支持層を求めるべきだと主張した。 1994年、前党首ジョン・スミスの急死で労働党党首になる。労働党の大会での一般党員の投票権を強くして、労働組合のブロック投票を著しく制限した。労働党の党綱領から、生産手段と輸送の国有化を削除して経済政策を自由市場経済に転換し、1997年の総選挙で労働党を地滑り的勝利(659議席中419議席を獲得)に導き、英国首相となる。
2001年6月の総選挙で、413議席とほぼ前回並みの議席数で圧勝した。
2005年5月5日実施の総選挙でも、議席数は356(この時の総議席数は646、過半数は324)と大幅に減ったものの勝利を収め、労働党史上初の3期連続政権を実現させた。しかし、議席大幅減の責任をとって、党内ライバルであるゴードン・ブラウンへの党首、首相職の禅譲の可能性が取り沙汰されはじめた。この総選挙の後、野党保守党が若手のデービッド・キャメロンを党首に選出し、支持率で与野党が逆転するようになった。
さらに労働党議員の造反によってテロ対策の法案が否決されたことや、地方議会の選挙で労働党が大きく議席を減らしたことなど、政権の弱体化が取りざたされるようになり、早期退陣論は強まっていった。このため9月7日、2007年秋までに退陣する意向であると首相の報道官が表明した。
[編集] 私生活
弁護士事務所の同期であった妻シェリーとの間に3男1女がいる。首相在職中の2000年5月に末子(三男)のレオが誕生。育児休暇を取ることも検討したが、公務を外れる形での育児休暇はとらなかった。さらに、2005年には、テロ対策法の強化を進めようとするブレアと、基本的人権を守ろうとするシェリーとの間の政治姿勢に違いを指摘する報道もあった。
読書、サッカー観戦(ニューカッスル・ユナイテッドのファン)、テニス、スカッシュ、音楽鑑賞が趣味。音楽ではザ・ダークネスのファンだと公言している。
2003年に米人気アニメーションの『ザ・シンプソンズ』へ本人役でゲスト出演している。
[編集] 関連項目
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